【第2話】静かなる看取りと、受け継がれる志
大劇場に響き渡る下劣な嘲笑と野次の中、最上位魔法術医ガルブレイスは優雅に手を振り、高壇の上から蔑むように透たちを見下ろした。
「ククク……見苦しい茶番は終わりだ。魔法の使えぬペテン師の無能は、全民衆の前に見事に証明された! 衛兵、そのイカサマ男と愚かなエルフどもを大聖堂から追い出せ!」
ガルブレイスの冷酷な合図とともに、アリアを縛り上げていた漆黒の重力縄が解かれ、リクを押さえつけていた重装兵たちが槍を引いた。
「橘様……! 橘様……っ!」
自由になったアリアは、血で汚れたドレスの裾も構わず大理石の床へ膝をつき、透の肩を強く抱きしめた。ボロボロと溢れ出る涙が、透の血塗られた肩口へと落ちていく。リクも自身の額から流れる血を荒々しく拭い、歯を食いしばりながら、透の背中に大きな手を当てた。
「橘さん……立つッス……! こんな奴らの前に、いつまでもいちゃダメだ……っ!」
透は返事をしなかった。焦点の合わない瞳で血の海を見つめたまま、やわらかな腕をそっと伸ばし、冷たくなった幼いウサギ耳の少女を、折れそうなほど優しく腕の中に抱き上げた。
前世の高度救命救急センターでも、何十人、何百人という死を看取ってきた。だが、目の前で身勝手な権力者によって意図的に命を傷つけられ、外科道具も輸血も満足な処置設備もない惨状の中で命が途切れていく理不尽さに、透の胸は引き裂かれそうだった。
三人は、頭上から降り注ぐ貴族たちの冷ややかな嘲笑とワインの残り香を背に受けながら、失意のまま暗い夜の王都を抜けた。下民街の小さな明かりが見えてくるまで、誰も一言も発することはなかった。
たどり着いた『下町訪問看護ステーション』の内部は、昼間の賑わいが嘘のように静まり返っていた。
ステーション奥の静かな個室。透は固く閉ざされた部屋の中で、木製ベッドの上に少女をそっと横たえた。湯気の立つ洗面器を用意し、温かい湯で絞った清潔なクロスを手にする。そして、少女の小さな身体にこびりついた乾いた血と泥を、指先まで一本一本、丁寧に拭い取っていった。
アリアは横で静かに涙を拭いながら、傷口を覆う清潔な白い布と、着替えのための柔らかい衣類を準備していた。
「……ごめんね」
透の声が、静まり返った室内にぽつりと落ちた。
「俺は……プロの看護師なんて偉そうなことを言いながら……何ひとつ救えなかった。現代の手術道具もない、輸血もない、魔法もないあの現場じゃ……俺の手当てなんて、ただの自己満足だったんだ……」
自責の念に声を震わせ、透の目から大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。高度な医療の手が届かない場所で、命が溢れ出していく恐怖。臨床15年の誇りも、ナイチンゲールの理論も、血の海の前にはあまりにも無力に思えた。
それでも、透の手は休むことなく動いていた。
呼吸を整え、体液が漏れ出さないよう丁寧な処置を施し、汚れを拭き去って新しい衣類を纏わせる。乱れた髪を優しく梳かし、苦痛に歪んでいた表情を、安らかな寝顔へと整えていく。プロの看護師として行う最期の身支度——エンゼルケア(死後の処置)であった。
「橘様……」
アリアも唇を噛み締めながら、少女の胸元にそっと野の花を添えた。二人の手によって綺麗に整えられた少女の顔は、まるで穏やかな夢を見ているかのようだった。
◇
——その頃、同時に。
王都魔法術医ギルド本部の地下奥深く、重苦しく湿った密議廊下では、もう一つの命がけの戦いが繰り広げられていた。
大劇場で実演の標的として出番を待たされ、底知れぬ死の恐怖に身を寄せ合っていた十数人の亜人や貧民街の避難民たち。
その檻の前に、血の海を這うようにして近づく二つの影があった。
両手首を失い、包帯で固く縛られた腕を抱きしめるマルク。そして、右足首を斬り落とされ、一本足で壁を支えにしながら必死に激痛を堪えるルークであった。
「……静かに。声を上げないでください……!」
ルークが掠れた声で鉄格子の隙間から呼びかけた。見張りの兵士から命がけで奪い取った太い鍵束を、残された左手で握りしめている。
「僕たちは……あなたたちを害する者じゃありません……! 橘先生の……あの訪問看護ステーションの志を継ぐ者です!」
マルクが両手のない腕で必死に身体を支え、見張りを警戒しながら扉の鍵孔へルークの指を導く。
「急ぎましょう……! ギルド長たちが上の大宴会で酔い痴れている今しか……逃げ出すチャンスはありません……!」
ガチャリ……!
重い鉄格子の鍵が外された。
「あ……助けて……くれるの……?」
ウサギ耳の母親が涙に濡れた目を丸くした。ルークは静かに頷き、残された左手で幼い弟の頭をそっと撫でた。
「橘先生が……あんなに命がけで守ろうとした皆さんを、ここで見殺しになんてさせない! さあ、裏の搬出口から脱出するんだ! 下民街のステーションへ……橘先生のもとへ逃げてください!」
檻の扉が開かれ、数十人の亜人や女性、子どもたちが、涙を流しながら地下の闇へと駆け出していった。
——だが。
「そこまでだ、裏切り者の猪豚どもめ!」
背後の闇から、松明の明かりとともに重装兵たちが躍り出てきた。ルークたちの逃亡の手引きが発覚したのだ。
「ぐあぁっ……!」
一本足のルークと、両手のないマルクは逃げ切れるはずもなく、兵士たちの蹴撃によって冷たい石畳へ叩きつけられた。
「身の程を知らぬ異端者が! 手足を奪われてなお、畜生どもを逃がすか!」
兵士たちが剣を振り上げたその時——。
「二人から離れろーーーーっ!!」
闇の中から突如として躍り出たのは、ゴブリンや下民たちではなかった。ギルドの理不尽なやり方に密かに怒りを募らせていた、志を同じくする若い魔法医たちだった。
「ルーク! マルク! 今助けるぞ!!」
若い魔法医たちは、持っていた医療器具や杖を振りかざし、捨て身の覚悟で重装兵たちへ飛びかかった。過酷な勤務で魔力をすり減らされながらも、自分たちの手足を奪われた大切な同僚を守るため、そして橘透の教えを信じるために、決死の覚悟で立ち上がったのだ。
「なっ……若造ども! 貴様ら、上層部に逆らう気か!?」
「黙れ! 命を身せものにし、仲間の手足を奪うようなギルドなんて、僕たちの居場所じゃない!」
若い魔法医の一人が兵士の腕にしがみつき、叫んだ。
「ルーク、マルク! 僕たちも一緒に行く! 橘先生のもとへ……本当の医療を学ぶために、下民街へ逃げるんだ!!」
「みんな……っ!」
ルークの目から熱い涙が溢れ出した。手足を奪われ、絶望の淵にいた二人を抱き起こしたのは、共に苦しみを分かち合ってきた若き同僚たちの温かい手だった。
若い魔法医たちは手分けしてルークとマルクを背負い、脱出した亜人や女性たちの後を追って、ギルドの地下秘密通路へと雪崩れ込んだ。
◇
下町訪問看護ステーションの個室。
透が少女の身支度を終え、白い布を優しく顔にかけたまさにその時だった。
バンッ……!!
ステーションの大きな木扉が、破られるような勢いで激しく打ち開かれた。
「橘先生……! アリア様……ッ!」
透とアリアが驚いて土間へ駆け出すと、そこには肩を寄せ合い、呼吸を荒らげて倒れ込む若者たちの姿があった。
血まみれの包帯を巻かれたまま、荒い息を吐くルークとマルク。二人を必死に背負って逃げ延びてきた若い魔法医たち。そして……そのすぐ後ろから、先ほど大劇場の檻の中に捕らえられていたウサギ耳の母親と幼い弟が飛び込んできたのだ。
「あ……あの子は……!? 私の子は……どこですか……っ!?」
母親は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、透の前へひざまずいた。
透が静かに個室のベッドを示し、痛みに満ちた表情で首を横に振ると、母親は脱兎のごとくベッドへ駆け寄った。そこには、恐ろしい血汚れを綺麗に清拭され、安らかな寝顔で静かに眠る娘の姿があった。
「あぁぁ……あの子……っ! こんなに綺麗に……温かくしてもえらって……っ!」
母親は娘の冷たい頬を抱きしめ、声の限り泣き叫んだ。そして、はっと振り返ると、驚きに立ち尽くす透の前へ再びひざまずき、血に濡れた透の手を両手で強く、強く包み込んだ。
「先生……! あの子を最期まで抱きしめて、何度も胸を押し続けてくださって……本当に……本当にありがとうございました……っ!」
「え……?」
透が息をのむ。母親の目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちていた。
「貴族様たちはあの子を傷つけ、虫けらのように笑っていました……。でも、先生だけは……自分の服を血まみれにしながら、あの子の命を絶対に諦めずに戦ってくれた……! あんなに綺麗に見送ってもらえて……あの子の魂は救われました……っ!」
母親は透の手を自分の額に押し当て、心からの感謝を捧げた。
「先生たちが……このステーションを作って、若い先生たちが命がけで檻から救い出してくれたから……私たちは今日、こうして生きていられるんです……!」
「おにいちゃん……おねえちゃんを抱きしめてくれて……ありがとう……」
幼い弟も、涙で顔を濡らしながら、透の膝に小さな顔を強く押し当てて咽び泣いた。
その温もりが、言葉が、胸の奥底へ固く冷たく突き刺さっていた敗北の氷を、激しく打ち砕いた。
(そうか……。俺がやってきた手当ては……何ひとつ無駄じゃなかったんだ……)
透の目から、溢れ出る涙が静かに頬を伝った。
高度な医療器具がなくても、高額な魔法がなくても。自分の足で泥だらけになって届けてきた「手当ての心」と「尊厳を守る看護」は、下民たちに、農民たちに、そして命を救われた亜人や若い魔法医たちの心の中に、確かに消えることのない「生きる希望の灯火」として届いていたのだ。
透はゆっくりと膝をつき、泣きじゃくる幼い弟を、そして母親の手を、その温かな両手で強く抱きしめえ返した。
「……来てくれて、ありがとう」
透の掠れた声には、もう迷いや自責の色はなかった。絶望の夜を越えて、看護の灯火はより深く、より力強く、人々の心へ灯し続けられていくのだった。




