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異世界でおっさん看護師が始める救命活動  作者: ナギ


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第6章【第1話】血塗られた大集会と、閉ざされた掌(てのひら)  

 劇場全体を揺らす重々しい金属音が響き渡り、舞台中央の大理石の床が左右へと割れ開いた。地下の闇から、錆びついた粗鉄で編まれた巨大な鉄格子——まるで凶悪な猛獣を閉じ込めるための頑丈な檻が、煙を上げてゆっくりとせり上がってきた。


「ひっ……! 助けて……! 殺さないで……っ!」 「お母ちゃん! 怖いよぉ……っ!」


鉄格子の隙間から溢れ出してきたのは、すし詰め状態に押し込められた人々のみじめな悲鳴と、掠れた泣き声だった。


そこに閉じ込められていたのは、数日前まで下民街の薄暗い長屋でつつましく暮らしていた貧民街の女性や幼い子どもたち、そして国境付近の山狩りによって生け捕りにされた異種族の者たちであった。


泥と汗に汚れ、垢じみた着物の裾を固く抱きしめる母親たち。その腕の中で、恐怖のあまり全身をガタガタと激しく震わせ、大きな瞳からポロポロと涙をこぼす幼子たち。


さらに檻の奥深く、排泄物と腐臭が漂う暗がりには、頭上に大きなウサギ耳を力なく伏せ、互いの体を寄せ合って怯える親子の姿があった。母親は幼い息子を自らの体で覆い隠すようにきつく抱きしめ、その横では十歳にも満たないウサギ耳の少女が、恐怖で青ざめた唇を震わせながら、母親の引きちぎれそうな服の袖を必死で握りしめていた。


貴族街の汚物投棄や「殺処分」の泥沼から逃げ惑っていた避難民、そして回復魔法の実演という見世物のためだけに集められた「使い捨ての実験体」。檻の中は、強烈な汗と膿、そして底知れぬ死の恐怖で充満していた。


貴族たちが「まあ、汚い」「不快な臭いですこと」と扇子で口元を覆いながらクスクスと笑い声を上げる。


「……さて。余計な邪魔が入らぬよう、まずは『お座敷の躾』から始めようか」


ガルブレイスが薄笑いを浮かべ、冷たく指を弾いた。


その合図とともに、客席の周囲に待機していた数人の高位護衛魔術士と、黒甲冑に身を包んだ重装兵が一斉に動いた。


「なっ……何をするの……っ!?」


異常を察したアリアが立ち上がろうとした、まさにその瞬間だった。


彼女の足元から跳ね上がった漆黒の魔力が、蛇のように鎌首をもたげ、アリアの全身を強かに縛り上げた。術者の体内魔力を強制的に遮断・不活性化させる、ギルド秘伝の重力拘束術式。


「あ……くっ……!?」


アリアの手から愛用の木製杖がカラリンと乾いた音を立てて床へ滑り落ちた。アリアは金縛りに遭ったようにその場に崩れ落ち、指一本動かすことすら叶わなくなった。


『橘さんに……手を出すなッ!!』


リクが鋭い牙を剥き出しにして叫び、背中の太い棍棒を引き抜こうとした。だが、間髪入れずに四人の巨漢重装兵が上から力任せに圧しかかった。ズシンと重い衝撃とともに、数本の大槍の尖端がリクの首元と背中に容赦なく突き立てられる。


『ぐあぁっ……!?』


「動くな、畜生め。少しでも動けばその首を突き刺す」


冷酷な通告。リクは大理石の床へ頭を強く押しつけられ、身体の自由を完全に封じられた。


「アリア! リク!」


透が叫んで振り返るが、高壇の上のガルブレイスは冷酷な笑みをいっそう深めるだけだった。


「ククク……騒がしいエルフの姫と野蛮な亜種には、そこで大人しく見物していてもらおう。魔法の通じぬ異端の手当て屋よ、貴様が信じる『平民の知恵』の限界を、とくと知るがいい。……さあ、実演だ。橘殿の目の前で……その一匹を引きずり出せ」


「やめろ! やめてくれぇぇっ!」


檻の中から湧き上がる母親の制止の叫びも虚しく、大柄な兵士が鉄格子の隙間から太い腕を突っ込んだ。そして、ウサギ耳の少女の細く華奢な腕を握りつぶさんばかりの力で強引に掴むと、冷たい床の上へ引きずり出した。


「お母さん……っ! おにいちゃん……っ!」


「あの子を……あの子を返してぇぇぇっ!!」


母親が鉄格子に激しく顔を打ち付け、額から鮮血を流しながら泣き叫ぶ。幼い弟も檻の隙間から小さな手を懸命に伸ばし、狂ったように叫んだ。


だが、兵士の瞳には一切の情動もなかった。少女を冷たい大理石の床へ叩きつけると、腰の長剣を迷いなく引き抜いた。


グサッ……!!


「ひ……あぐっ……!?」


鈍い肉体が裂ける音とともに、長剣の刃が少女の左胸から腹部にかけて、深く、容赦なく突き立てられた。


「あ……あぁぁぁぁぁぁっ!?」


母親の喉が割れるような悲鳴が劇場内に響き渡る。兵士が長剣を勢いよく引き抜いた瞬間、ドクドクと赤黒い動脈血が吹き出し、少女の小さな身体が大理石の床へ力なく崩れ落ちた。


「ハハハ! さあどうした、手当て屋よ! 貴様の自慢の『手洗い』と『補水液』で、その開いた胸と溢れ出る血を止めてみせよ!!」


ガルブレイスの朗々とした嘲笑が響き、観客席からは一斉にドッと腹を抱えるような爆笑が湧き上がった。


「——やめろーーーーーーっ!!」


透の喉から、己の肺を破らんばかりの絶叫が迸った。


透は客席の柵を飛び越え、大階段を転がるように駆け下りて舞台の上へ飛び込んだ。


視界の端では、漆黒の拘束魔法に固縛されたアリアが涙をボロボロとこぼしながら、「橘様! 橘様……っ! 魔法が……魔法が出ません……っ!」と喉を押し潰されたような声で泣き叫び、重装兵の下で押しつぶされたリクが「くそっ! 離せ! 橘さんを助けさせろッ!!」と狂ったように床を叩いて血を吐いていた。


誰も手伝えない。アリアの魔法も、リクの腕力も、下民たちの手も届かない。


広大な舞台の中央、眩い照明の魔法光が照らし出す血の海の上で、透はたった一人、激しく膝をついた。


「おい! しっかりしろ! 聞こえるか!?」


倒れた少女の身体を抱き起こし、手際よく即座にアセスメントを行う。


(呼吸、途切れている……! 頸動脈の脈拍触知不能! 両側瞳孔散大……! 左胸部穿刺傷による大量血胸、および心臓・大動脈の直接損傷……!!)


「くそっ……! 止まれ! 止まってくれ……っ!!」


透はナースポーチのチャックを叩き切るように開け、分厚い滅菌ガーゼの束を取り出した。それを少女の開いた傷口へ叩きつけるように押し当て、己の体重のすべてをかけて直接圧迫止血を試みた。


しかし——心臓から直接噴き出す拍動性の鮮血は、一瞬でガーゼを真っ赤に染め上げ、透の両腕を、袖口を、そして膝をドクドクと濡らしながら大理石の床へ広がり続ける。


前世の日本の高度救命救急センターであれば、即座に開胸用開口器で胸を開き、大動脈を直接鉗子で遮断し、人工心肺を繋いで大量の急速輸血を行わなければ絶対に救えない、究極の「致死的大出血」であった。


だが——ここには輸血パックもない。胸を開く開胸器具も、血管を縫い合わせる持針器も、吸引機すらもない。


手元にあるのは、首から下げた使い古しの聴診器と、数枚の滅菌包帯、そして血に濡れた己の素手だけだった。


「あ……が……っ……おにい……ちゃん……」


少女の小さな手が、血の泡を噛む口元からかすかな音を漏らし、透の血に染まった袖口を、最後のかすかな力でギュッと握りしめた。その大きな漆黒の瞳から、急速に生来の光が失われていく。


「諦めるな! 呼吸しろ! 動け、心臓……っ!!」


透はガーゼの上から、必死で胸外心臓マッサージ(CPR)を開始した。


1、2、3、4……! 適切なテンポと深度を意識しながら、絶え間なく胸骨を押し続ける。透の額から噴き出た汗が少女の顔に落ち、血と混ざり合って飛び散る。膝が大理石の血の海に深く浸かり、ナース服のズボンがドス黒く染まっていく。


「動いてくれ……! 頼むから……動いてくれぇぇぇっ!!」


10分、15分……。


臨床15年のベテラン看護師の頭の中では、冷静で残酷な「心停止(CPA)」の判定がすでに下されていた。生体生理の法則は絶対だ。体内の血液の大部分を失い、心臓そのものを破壊された肉体が、再び鼓動を取り戻す可能性がゼロであることは、誰よりも透自身が理解していた。


それでも、透の手は止まらなかった。絶え間なく、必死に少女の小さな胸を押し続けた。


そして——。


少女の小さな手からスーッと力が抜け、握られていた透の袖から指先が離れ、大理石の床へ力なく落ちた。


完全な心停止。死であった。


「あ……あぁ……っ」


透の動きが止まった。


血に濡れた自分の両手と、ピクリとも動かなくなった少女の幼い顔を見つめ、透は底知れぬ絶望の淵へと叩き落とされた。


『『ギャハハハハハ! 見ろ! 死んだぞ!』』 『『なんだあいつは! 必死で胸を叩いていただけではないか!』』 『『やっぱりただのペテン師だ! 魔法も使えぬくせに、手当て屋などと増長しおって!』』 『『イカサマ野郎! 貧民を騙す詐欺師め! 帰れ! 帰れ!!』』


劇場全体から、雷鳴のような嘲笑と罵倒の嵐が降り注いだ。 飲みかけのワインが入ったグラス、果物の皮、不潔なゴミが、壇上で膝をつく透に向かって次々と投げつけられた。


拘束魔法に縛られたまま客席でボロボロと泣き叫ぶアリア。血を吐きながら重装兵の下で歯を食いしばり、悔しさに地を叩くリク。鉄格子の奥で、娘の冷たくなった遺体を抱きしめようと狂ったように叫び続ける母親。


投げつけられるゴミも、貴族たちの不快な高笑いも、何も耳に入っていなかった。


透は膝をついたまま、血で真っ赤に染まった己の両手を、ただじっと見つめていた。


(救えなかった……。俺は……一人の少女の命すら救えない……ただのおっさんだ……)


ぽと、ぽとと。


透の目から溢れ出た大粒の涙が、血に染まった大理石の床へ落ちて弾けた。


高価な魔法の威光と、むき出しの理不尽な暴力。 その圧倒的な暗闇の前で、一人の看護師の静かな敗北が、いま残酷なまでに深く刻みつけられたのだった。


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