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異世界でおっさん看護師が始める救命活動  作者: ナギ


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【第3話】血塗られた大集会と、特別ゲストへの罠

 下民街の広場に開設された『下町訪問看護ステーション』の朝は、いつものように穏やかな希望の気配に満ちあふれていた。


天井近くに設けられた高窓からは、やわらかな秋の陽光が筋となって差し込み、木々の隙間を抜けてきた爽やかな風が、室内の空気をごく自然に入れ替えていく。中央に据えられたいくつもの大鍋からは、ぐらぐらと煮立つお湯の白い湯気がゆったりと立ち上り、周囲には消毒に使われる乾燥ハーブの清々しい香りと、手作りの木灰石鹸の香ばしい匂いが心地よく漂っていた。


ステーションの前に広がる広場では、かつて互いを忌み嫌っていたはずの農民と下民たちが、朝から声を掛け合って新鮮なカブや小麦、薪を笑顔で取引している。その少し離れた木陰では、若いゴブリンのリクが子どもたちを輪にして並べ、大きな身振り手振りを交えながら、自作の手洗い歌を熱心に教えていた。


「いーいか、ガキども! 爪の間も、親指の付け根も、この歌を一曲歌い終わるまで石鹸の泡でゴシゴシ揉み洗うんだッス! これをサボると、目に見えない病原体の虫がお腹の中で大暴れするんだぞ!」


「はーい、リクお兄ちゃん!」


子どもたちの弾むような歓声と笑い声が、ステーションの木壁を通り抜けて中にまで届いてくる。


その微笑ましい光景を横目で見やりながら、個室の木製テーブルで羊皮紙のカルテを整理していた橘透は、ふっと目元を緩めた。前世の日本の急性期病棟で過労と人間関係に擦り減り、疲れ果てていた自分。だが今、この異世界で自分が灯した小さな「看護の手当て」が、着実に地域の人々の健康と笑顔を支えているという実感が、透の胸を静かに満たしていた。


その時だった。


重厚な木扉がすっと開き、下民の使いの若者が緊張した面持ちで室内へ入ってきた。


「た、橘先生……! 王都の使者と名乗る男が、これを先生に渡せと言って置いていったんだ……!」


若者の手には、一通の羊皮紙が握られていた。平民が普段目にするような粗末な紙ではない。白亜のように滑らかで分厚い上質な紙に、豪奢な金糸の紐が巻き付けられ、中央には眩い黄金の蝋で、厳めしい紋章が封印されていた。


「……何だい、これは?」


透が首を傾げながら手紙を受け取り、ハサミの刃でそっと蝋の封を切る。


横から覗き込んだアリアが、その封印の模様を目にした瞬間、ヒッと短い息をのんだ。


「これは……『王都魔法術医ギルド本部』の正式な大紋章です……! 橘様、一体なんと書かれているのですか!?」


アリアの透き通るような青い瞳が、驚きと強い警戒で丸くなった。透は羊皮紙を広げ、そこに流麗な金インクで綴られた格式ばった文章を目でなぞった。そして、どこか困ったような、苦笑いを浮かべた。


「ええとね……『下民街における劇症感染症の収束という輝かしい功績を讃え、近々開催される王都魔法医療学術大集会に、特別ゲストとして橘透殿を招待する。…だってさ」


「学術大集会……!? あのギルドが、橘様を特別ゲストに……!?」


アリアの表情が一瞬で青ざめ、硬直した。


騒ぎを聞きつけて広場から飛んできたリクも、手洗いの指導を途中で投げ出し、太い棍棒を強く握りしめて怒声をあげる。


『嘘ッス! 絶対に嘘ッスよ、橘さん! あの威張り腐ったギルドの老いぼれたちが、俺たちの橘さんを素直に褒めるわけがないッス! 下民や俺たちゴブリンを殺処分しようとしていた奴らだぞ!? 絶対に何か裏で恐ろしいことを企んでるッス!!』


「私もリクと同意見です、橘様!」


アリアが思わず一歩踏み出し、透の右手を両手で固く握りしめた。その指先はかすかに震えており、青い瞳には溢れんばかりの不安と、透を案じるあまりの深い情熱が宿っていた。


「今まで下民や亜種を人間扱いすらしてこなかったあの者たちが、急に態度を変えてあなた様を称えるはずがありません! 橘様の存在が邪魔になり、罠に嵌めて陥れようとしているのです! お願いです……行ってはいけません!」


アリアの温かく華奢な手のひらが、透の手をすっぽりと包み込む。


前世の病院では、組織の端っこで都合よく使われ、誰からも必要とされずに磨耗していくだけの存在だった自分。だが今、目の前には、自分の身の安全を心から案じ、涙ぐみながら必死に自分を引き留めてくれる大切な弟子であり、愛おしい仲間たちがいる。


透は胸の奥がじんと温かくなるのを感じながら、空いた左手でアリアの柔らかな金髪を優しく撫でた。


「心配してくれてありがとう、アリア、リク。……二人(ふたり)の言う通りだよ。これは間違いなく、俺たちを潰すための罠だろうね」


「だったら……! だったら、なおさら受諾してはいけません!」


「でもね」


透は胸元に下げた使い古しの聴診器のチェストピースにそっと指を触れ、その眼差しをすっと凛と引き締めた。


「王都中の魔法医や貴族、医療に携わる人間が一堂に会する場所なんて、めったにない。もしそこに本当に行くことができるなら……俺たちがこの下民街で証明してきた『公衆衛生』と『予防医療』の重要性を、彼らの真っ只中で直接伝える絶好のチャンスでもあるんだ」


「橘様……」


「ギルドの上層部が腐っていたとしても……もし、若い魔法医の中に一人でも、現場の矛盾に悩んでまともな志を持っている人間がいるなら。俺たちの言葉や手当てを見せることで、何かが変わるかもしれない。一人でも多くの医療者が『環境調整』の大切さに気づいてくれれば、この国全体で救われる命が何千、何万と増えるんだよ」


透の言葉には、一切の打算も、自己保身もなかった。ただ純粋に、目の前の命、そしてまだ見ぬ多くの病む人々を救いたいという、プロの看護師としての揺るぎない覚悟と慈愛が満ちていた。


アリアは息をのんだ。


自分を危険に晒すことが分かっていながら、それでも「看護の灯火」を広げるために死地へと足を踏み入れようとする男の姿。


(このお方は……どこまでも看護師(プロ)で……どこまでも優しい……!)


アリアの胸の奥で、尊い決意への深い感銘と、抑えきれない恋心が甘く、激しく弾けた。アリアは透の手を握り返す手にぐっと力を込め、不安を吹き飛ばすような毅然とした笑顔を浮かべた。


「分かりました……! 橘様がそこまで覚悟を決めて行かれるというのなら……私をお供させてください! 橘様の最初の弟子として、あなた様の創り出した『看護』の正しさを、王都の者どもの前で証明してみせます!」


『へへっ、俺も行くッスよ! 橘さんを一人で奴らの城に行かせるわけにはいかないッスからね! 俺がガッチリ護衛してみせるッス!』


「アリア、リク……ありがとう」


透は二人の心強い言葉に、温かく頷いたのだった。



数日後。




王都の中心部に聳え立つ『王都魔法術医ギルド本部大劇場』。


白亜の大理石と金箔の装飾で彩られた巨大なドーム状の劇場内は、熱気と高慢な空気で満ちあふれていた。天井の幾つもの大香炉からは、頭がクラクラするほど甘ったるい高価な香料の煙が焚き込められ、色とりどりのシルクやベルベットのドレスを纏った王族、貴族、高位商人たちが、銀のグラスを傾けながら優雅に歓談している。


その豪華絢爛な観客席の最前列近くに、透、アリア、リクの三人は案内されていた。


「おい、見ろよ……あいつが下町で噂の手当て屋か」 「ふん、ただの平民のくせに、小汚い道具を首から下げて生意気な」 「横にいる可憐なエルフは……まさか噂のエルフの姫君か? あんな男に誑かされるとは憐れな」


周囲の貴族や高位魔法医たちから、刺すような好奇と蔑みの視線、そしてヒソヒソという心ない嘲笑が痛いほど注がれる。アリアはドレスの裾を強く握りしめ、リクは牙を剥き出しにして威嚇しそうになるが、透はただ静かにマイ聴診器を握り、正面の舞台を見据えていた。


やがて、重厚で美しい鐘の音が劇場内に響き渡り、照明の魔法光が一斉に舞台の中央へと収束していった。


壇上に姿を現したのは、絢爛豪華な金糸の法衣を身に纏った、ギルド長であり最上位魔法術医の頂点——ガルブレイスであった。


「——王都の誇り高き貴族の皆様、そして志高き魔法医の同胞たちよ! 本日は【王都魔法医療学術大集会】へよくぞ集ってくださった!」


ガルブレイスの朗々とした大音声が、魔法で増幅されて劇場全体へ響き渡る。客席から雷鳴のような拍手が巻き起こった。


「本日、この聖なる大集会におきまして……我らは皆様に、我がギルドが何百年と守り抜いてきた『神のごとき回復魔法』の絶対的な奇跡をお見せいたしましょう! そして……!」


ガルブレイスは顔に酷薄で不敵な笑みを浮かべ、客席に座る透を鋭く指さした。


「本日は特別ゲストをお招きしております! 下民街にて『魔法を使わぬ奇跡の手当て』を行い、下層の哀れな者どもから神のごとく慕われているという……あの橘なる男でございます!!」


バッ……!!


一斉にスポットライトのような強力な光が透の全身を照らし出した。


『おお……!』 『あいつが例の邪術使いか!』 『なんだ、ただの貧相なおっさんではないか! ギャハハ!』


観客席から波のような嘲笑と下劣な野次が渦巻く。


透は眩しさに目を細めることもなく、静かに座席から立ち上がると、高壇の上から自分を見下ろすガルブレイスの冷酷な視線を真っ向から受け止めた。


ガルブレイスの口端が、三日月のように歪に吊り上がる。


「さあ……橘殿! 貴殿の唱える『手洗いと水の手当て』が、我がギルドの誇る神聖なる回復魔法と同等……いや、それ以上であるというのなら……これから始まる【実演】にて、その威力を我らに証明していただきましょうか……!」


ガルブレイスが優雅に手を打ち鳴らすと、ギギギ……と重い金属音が響き、舞台の中央の石畳が割れて地下から巨大な鉄格子が競り上がり・・・・劇場全体を包む甘い香水の匂いの裏側に、生臭い鉄と死の気配が、黒い毒のようにじわじわと広がり始めていた。

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