第十二話 決戦都市・東京Ⅱ Hello,again.<中>
十年前――京都府長岡京市。奏は七歳だった。
何の用事で屋敷を出たのか、なぜ父がその場におらず、奏だけで付き人と歩いていたのか、もう覚えていない。
たしか分家に少し年嵩の子どもがいて、その子に会いに行ったんだったか。
当時から大して仲も良くなかったのだろう。
顔も名前も覚えていないし、その子が今生きているのか、数々の降るような討伐の中で死んだのかすらも分からない。
その帰りに低ランク怪獣と遭遇した。
ぎょろりと大きな目、一目で分かる異形。
今思えばそう体躯も大きくなかったはずだが、あのときは途方もない彼我の差を感じて恐怖に塗りつぶされた。
制止する付き人の手を振り払って、無我夢中で駆け出した。
路地の角を、辻を、むちゃくちゃに走り抜けて、泣き叫んだ。
「おねがい、きて、たすけて」
別に無原罪の聖母を喚びたかったわけではなかった。
とにかくこの恐怖から掬い上げてくれるものなら誰でも何でもよかった。
新宿の空から奏は街を見下ろした。
へしゃげてあらぬ方向に曲がった鉄骨、粉々になった木造住宅、砕け散ったガラスの破片、黒煙、折れて根元だけ残った街路樹、粉っぽい焦げた臭い、倒れ伏した人間だったはずの塊。
ああ、これはあのときの長岡京だ、と思った。
奏が目を逸らしてきた何十万という悲劇が再現されていた。
守りたかったはずなのに、今日で終わらせるはずだったのに、呆然とその光景を見下ろすしかない。
赤子の泣き声は止まらない。
幼かった奏を詰る大人たちの声が耳にこだまする。
なぜ低ランク相手に無原罪の聖母を顕現したのか。
なぜ多くの命を奪ったのか。
どれほどの犠牲を出したか理解しているのか。
自分の為した事に責任も持てないくせに。
何も分かっていないくせに。
なぜお前は奪ったのか。
奏は今も長岡京市で何人が犠牲になったのかを知らない。
調べようとしても過呼吸になって指が震える。
まだ自分の罪に向き合えていないと言えばそうなのだろう。
だから天草事案でも能力の規制解除を当局は頑なに却下しつづけた。
奏が信じられないから。
また暴走するかもしれないから。
多くの犠牲を出すだろうから。
当局の判断も理解はできる。
完璧に信じてくださいとは奏自身言い切れない。
そのあやふやさが九重を死なせた。
そんな奏だから当局も怪獣もろとも消えてほしいのだと理解はしている。
でも、ただ怖かっただけなのだ。
他の人と同じように怪獣がとても恐ろしかっただけ。
誰かに助けてほしかっただけ。
無原罪の聖母を出すつもりなんてなかった。
自分の能力や出自がそこまで危険なものだなんて知らなかった。
たった三十秒たらずの顕現。
あの日から十年。
親を亡くし、大切な人を亡くし、理不尽に晒されて、もう充分な制裁は受けたはずだ。
赤子は泣き止まない。
「もうやめて……!」
無原罪の聖母が効かない。誰も助けられない。
瓦礫同士がぶつかる音が、赤子の地団駄で激しく揺れる大気が、奏を追い詰める。
「まだ諦めるにはちょっと早いんじゃない」
「奏、心配するな。お前には俺たちがいる」
立つことすら儘ならない地上で懸命に戦いながら、双玉は奏のことを見ていた。
劣勢だと分かっていて、それでも奏が勝つと信じて疑わない強い眼差し。
不敵な笑みまで浮かべている。
「あんま舐めてんじゃねーぞ、三下が」
土煙を割って、恭鷹が音もなく尭斗との距離を詰めていた。
その背後には、五百蔵の残火によって増幅された総司が、空間そのものを歪めるほどの神威を練り上げている。
「血気盛んだなぁ。俺を殺したらもれなく怪獣が暴走する可能性は考慮したか?」
「貴様が死んだあと俺たちが雑魚をどうするか、貴様が憂慮する必要はない」
総司の紫紺の瞳が殺意を持って尭斗を射抜く。
「数々の怪獣事案と出雲での三國誘拐は貴様の仕業だな」
「三國? ああ、あの教員な。誘拐じゃない。殺人だ」
「――死をもって贖え」
「だから俺が死んでも何も終わらないんだって。どういう手段をとれば怪獣殲滅できるのか、実現可能なプランを『見せて』くれよ」
尭斗は赤子を差し向けて最大出力の神威の命令を容易く弾く。
ついでと言わんばかりに恭鷹の足を折り覇者を無効化する。
双玉が空中戦から叩き落とされる。
「天真! 冷泉!」
トリアージで何とか回復するも疲弊の色が濃い。奏はほとんど悲鳴を上げた。
「……大丈夫だよ、奏ちゃん」
「大丈夫だ、奏。俺たちが信じるお前を信じろ」
双玉のわずかに掠れた、それでも強い声にはっとする。
『ほら笑って。笑わないと悪いものが寄ってきますよ。大丈夫、大丈夫』
『大丈夫、一ノ宮さんなら、きっと大丈夫』
雙葉と九重の声が重なった。
「一ノ宮さん!」「一ノ宮!」「姉さま!」仲間たちが奏を激励する。
口々に「絶対大丈夫」と奏の背中を押す。
「みんな……」
ああ、きっと、そうだった。
奏はあの日からずっとただ「大丈夫」と言ってほしかった。
なんとかなるよと慰めて、怖かったねと抱きしめてほしかった。――信じて一緒に歩いてほしかった。
泣きじゃくる赤子を振り仰ぐ。
頬に無原罪の聖母でつけた傷が一直線に走って、薄く血が滲んでいる。
本当にこれが人間の似姿だとしたら。
本当に赤子に剣を向け傷つけたのだとしたら。
無防備な赤子にとって、無条件で向けられた殺意はどれだけの恐怖だったのだろう。
「…………」
それは戦略も策略も展望もない、ただの直感だった。
失敗したら全滅覚悟。
「無原罪の聖母、天使たちももういいよ」
奏がそっと無原罪の聖母の剣をひいた。




