第七話 洋上研究室・小豆島Ⅱ ルシファーの禁書<上>
静かすぎて耳鳴りがする。
室長に先導されて研究室の閉架書庫を行く。
本来、セキュリティパスなど無くとも双玉宗家の次期当主に通れぬ場所などない。
一般研究員からも厳重に隔離された狭い書架の間を歩きながら、総司は久しぶりの紙の匂いを深く吸い、長く吐いた。
ほぼすべてがデジタル化された現在だからこそ紙は機密を守るための重要なツールとなった。
デジタル空間に一度晒してしまえば、どんな厳重なセキュリティ配下に置こうと、ハッキングやランサムウェア攻撃の対象となり、漏洩した場合その影響範囲は瞬時かつ全世界に及ぶ。
紙であれば複製せず、させず、管理者を厳に定めておけば漏洩リスクを狭められる。
近世まで文字や情報が特権階級のものであったように、また、この時代でも最重要機密は文書でやりとりされる。
「奏はここへ?」
「一ノ宮くんのセキュリティパスじゃここは通れないから。双玉や麾下十家がここへ入るのは十数年ぶりじゃないかな。あのノイズひとつでこの場所も言い当てるとは。そもそも解析も終わってるあの怪獣にまさか意識があるなんて思わなかったよ。研究を凌駕していくんだもんな。いやはや双玉とは恐ろしい存在だね」
「耳と勘はいいほうなのでな」
怪獣と人間との七十年にわたる歴史。
口伝でも出せない情報の集積。
その一角で比較的新しいファイルを取り出すと総司は薄く目を眇めた。
ファイルの名は【二一××年 怪獣におけるICSI――顕微授精実験について】
「そのファイルに直行されるなんてまいったなぁ」
室長が居心地悪そうにこめかみをかく。
「オファニムだっけ? あの怪獣は君になんて言ったんだい?」
総司はファイルの表紙を一度閉じ、室長をまっすぐ射抜く。
疑念が確信に変わった。そんな視線だった。
「ママが来た――そう、言った」
***
一ノ宮奏は総司が思っていた以上に傷ついていた。
そして、総司が思っていた以上にそれでも他人に手を伸ばす人間だった。
一年の富士演習以降、分からないなりに奏との距離を縮めようと四苦八苦する総司に、奏は自分からは近寄らないが拒むこともしなかった。
鍛錬をしようと言えば苦虫を噛み潰したような顔をしながらも渋々付き合い、討伐資料で不明瞭な点があれば丁寧に確認をとって説明をし、食堂にハロウィンの菓子が置かれれば授業の合間に分け合い、学徒寮に置かれた巨大なクリスマスツリーの下で恭鷹と三人で写真を撮り、暮れは三人で京都まで帰った。
そして約十年ぶりに年明けは宗家で顔をあわせた。
水仙柄の初春らしい着物に身を包んだ女当主としての奏を総司は初めて見た。
いつもより華奢に見える奏の膝の前で白魚の指がそっと揃えられ、春風のように滑らかな仕草で面を伏せる。
「双玉宗家、天真の皆様に麾下十家を代表し新年のお慶びを――」
「とてもよく似合っている」
「――恐悦至極にございます」
奏の挨拶を遮ったのが良くなかったらしく、家の者に軽く咳払いをされた。
「これまで長らく挨拶ができず申し訳なかった。今年からはぜひまた親睦を深めたい。詫びの印といってはなんだがこれを」
十年の拒絶を経ていきなり宗家の当主が頭を下げるわけにもいかず、代理として総司が相対することになった。小さな桐の箱に入った簪を奏に差し出す。
「大変恐れながら……こんな髪ですので謹んで辞退させていただきます」
短髪を揺らして奏が深く頭を下げる。
彼女を十年拒み、麾下十家を見殺しにした双玉宗家への小さな反駁なのか、頭を垂れてなお、しなやかに伸びた背筋が頑として受け取ることはないと告げていた。
一ノ宮の家紋である五七の桐も入った精緻な細工のものであったが、なるほど断られるということもあるのかと総司は目を瞬いた。
女子には装飾品を贈っておけば間違いないと家の者が言うから。
「代わりと申しては大変不躾ですが、お庭の梅を一輪いただいても?」
当てが外れたと総司が眉を下げたのに気づいたのか、まだ咲いてもいない固い梅の蕾がほしいと奏が申し出る。
幼かった奏は何度も何度もこの屋敷を訪ねた。
後ろ盾を失くした子どもに天真は心寄せることなく、ひたすら沈黙を貫き彼女を拒み続けた。
この先も彼女がこの家を本当の意味で赦すことはないだろう。
それでもこうして総司が惑えば、彼女は助け舟を出す。
総司は青い組紐を持ってこさせると、日当たりの良さそうな梅の木に括りつけた。
「お前のものだ。あとで桜にも印をつけておこう」
「ありがとうございます」
両家の雪解けを祝って誰からともなく拍手が起きる。
奏はその間も特に表情を緩めることはなく薄笑みの仮面のままだった。
総司がもっと早く向き合っていれば、必死に戸を叩く幼い奏のかじかんだ手を温めていれば違う顔を見せたかもしれないし、そもそも一ノ宮と他家との隔絶は起きなかったかもしれない。
たらればを言ってもしようがない。
十年間知らぬ存ぜぬで放置してきた奏の孤独も絶望も総司には癒しようがない。
もはや奏は総司に対して何も期待していないだろうから、恨み言ひとつぶつけられることもない。
奏は冷泉へも顔を出すからと足早に席を立ち
「また春の宴でお目にかかれますよう」
呟いた。小さく指先が震えていた。
拒まれ続けても、奏は総司の思いを汲み、こうして少しだけ手を差し伸べる。
それがどれほど勇気のいることか総司には分からない。思いを馳せるしかない。
「お前のための桜の下で会おう。必ず」
約束を積み重ねること。それを破らないこと。二度と拒絶しないこと。
ただこれだけの誓いで好かれはしないだろう。
総司の贈り物も言葉もつたなすぎて、奏の心の奥までは響かない。
ただこれ以上彼女を独りにしないためのエゴだ。
――総司は誰かを想うという行為を初めて知った。
ICSI実験、今日はこれだけ覚えておいてください。――そんな第七話<上>でした。
このあと<中><下>と続きますので、ぜひ第七話最後までお読みいただけましたら幸いです。
いつもの告知ですが、★、ブクマ、リアクションいただけたら大変励みになります。
引き続きよろしくお願いいたします!




