第五話 当局勅令都市・東京 九重晴樹の再想<中>
まだ奏の髪が長かった九歳の夏、うだるような暑さの中で父と雙葉が死んだ。
父は「一」でありながら出世欲はあまりなく、静謐なひとだった。
そして、あまり強い能力ではなかった。
生まれた瞬間からSSSランク討伐が可能な能力を宿していた奏を、他家や当局に利用されないよう家の中で厳重に守りながらも、やはりどこか怯えていたように思う。
口調は優しく穏やかだったが、その手の温もりは知らない。
奏に与えられた部屋の敷居を跨ぐことは一度もなかったし、手を繋いで庭を散策したこともない。
七歳のときだった。
自分の能力の強さをまだ弁えず、外出先に出現した低ランク怪獣に対して無原罪の聖母を顕現したことがある。
物心ついてから初めて対峙した怪獣は、今思えば攻撃態勢にも入っていない、見るからに非力な低ランクだった。
それでも当時の奏から見れば巨大で途方もなく恐ろしい異形だった。
側頭部から零れ落ちそうなほど大きなぎょろりとした目と目が合った途端、繋いでいた付き人の手を振り払い、火がついたように泣きわめきながら家屋の隙間の細い路地を小さな歩幅で飛ぶように駆ける。
曲がり角を次々とすり抜けた。
無原罪の聖母をどうやって顕現させるか手順も曖昧なまま「おねがい、きて!」としゃくりあげた刹那、仄暗い狭隘路をカッと強い光が照らし、聖歌が荘厳に響き渡る。
鉄骨造のビルや木造住宅が仰け反るようにして瞬時に吹き飛び、長岡京市一帯に壊滅的な被害を及ぼした。
それは、わずか三十秒にも満たない顕現。
しかして被害は甚大だった。
何人を巻き添えにしてしまったのか正確な数字を奏は知らない。
けれど失われた命を贖えと、国民のために一族最後の一人まで仕えよと、過酷を極める討伐任務が夥しいほどに一ノ宮に課された。
能力に見合わない討伐も無数に宛がわれ、一族の男は死地から帰ってこなかった。
部屋から出ることを禁じられた奏は、床框の向こう側からさざめきが聞こえるたびに、一人また一人と自分のせいで同族が死んでいくのを知った。
盆と正月、春の宴だけは豪奢な振袖を着付けられ、京都と東京を行き来して、双玉と御所、霞が関へご挨拶に上がる。
天真には門前払いどころか見えぬ者として門扉を固く閉ざされ、何度門を叩こうと何時間立ち尽くせど、落ち葉の音ひとつ立てずただ静かに奏を拒み続けた。
冷泉では遊びと称して雪のちらつく池の中に頭から落としては「ふふ。奏ちゃん、鯉みた~い」と嗤われた。水を吸って重たくなった振袖では池から這い上がるのもほうほうの体で、へばりつくアオミドロを拭いながら涙を堪えていると、恭鷹はどぶ臭い、垢抜けない、辛気臭い、鈍臭いと散々な言い様で無理やり着物をひっぺがし着替えさせるのだった。
御所と霞が関は皆が皆完璧な笑顔で歓待してくれるものの、その実バケモノがいつ暴走するかと空気がひりついていて息をするのも憚られる。
どの場所でもひたすら頭を垂れて逃げるように帰途についた。
屋敷の外に出られる日はとびきりバケモノ扱いされるものだから、奏はすっかり人前に出なくなってしまった。
使用人に疎まれることも怯えられることにも胃を痛め、庭にすら下りず、ただただ部屋で縮こまっていた。
「二」の家の雙葉だけが「大丈夫、奏さま、大丈夫ですよ」と敷居を越えて抱きしめに来てくれた。
己が罪に泣く奏の手を握って細い月を一緒に眺めた。誕生日を祝い、季節の行事の愉しみを教え、無原罪の聖母とどう向き合っていくか、能力の制御の仕方を一緒に悩み、鍛錬に付き合ってくれた。
敷居の向こうの父より、さざめく使用人たちより、庭ごしに恨めしげな視線を寄こして死地に赴く一族の誰より、雙葉が奏の家族で友人で唯一だった。
雙葉はいつも呵々と豪快に笑い、「奏さまも笑って。笑わないと悪いものが寄ってきますよ」と変な顔をし、おどけ、どこからか仕入れてきた一発ギャグを披露し、何が何でも奏を笑わそうとした。
雙葉が来たときだけは、奏は笑ってしまう自分を赦した。
そうしている間にも一ノ宮と麾下十家の男はどんどん死んでいった。
そう。だから。
父と雙葉が死んだのは自然の流れであったし、明白に奏のせいだった。
初めから奏が討伐に出ていれば、こんなにも守護師たちが死ぬことはなかっただろう。
骨壺がいくらあっても足りないほどに死ぬことはなかった。
けれど、父は決して奏を前線に送ろうとはしなかった。
眷属たちからどんなに口汚く罵られても「お前はここにおいで」とひたすら奏を囲った。
それが愛だったのかはもう分からないけれど。
父は遺書をしたためていた。
一、一ノ宮家の次代当主は奏とする
一、一ノ宮家および麾下十家の権力・財産のすべてを奏に受け継ぐ
一ノ宮の何もかもを九つの子に譲ると書かれたそれに、一族は荒れに荒れた。
「家を畳もうと思うのです」
飛び交う怒号と罵声の中、奏は呟いた。
震える口元にうっすらと笑みを刷いて。
「ただ――わたしが長じるまで幾許かの猶予をください。分家の叔父様方、お兄様方、仕えてくれた皆にささやかな報恩と新たな職を整える時間をください。そうしたらもう誰にも利用されないように一ノ宮は畳みましょう。わたしで、終わりましょう」
忌み子の覚悟を、分家の男たちは鼻で嗤い、女たちは罵った。
「お前を頭目に置いたとて一ノ宮の処遇は変わらないさ」
「麾下十家を離れてどこに行けと言うんだ。できもしないくせに。お前には何もできやしない」
「お前さえいなければ私の息子は死ななかったのに!」
「分家を切り捨て双玉に嫁いで良い思いをする気か。一族や麾下十家の屍を無かったことにして、自分だけのうのうと贅沢な暮らしをするつもりなんだろう」
「お前さえいなければ」
「お前があんなものを顕現しなければ」
「お前が生きているから俺たちに災厄が降りかかる」
坐上で笑みを刷いたまま、奏は場が静まるまで黙って聞いていた。
たった九つの子が数十人もの大人たちに囲まれ、面罵されて笑んだまま、ただ黙っている。
その異様さに場が急速に冷えていく。
「そろそろ僕も喋って良さそうですか?」
奏が懐刀を差し出しながら言う。
「では、こうしましょう。――我こそはと思う方はこれで僕を殺して当主になる。たしかに僕さえ死ねば一ノ宮も無茶な討伐から解放されるかもしれない」
「その懐刀にからくりはないのか」
「なんとも疑り深いですね。ちゃんと切れますよ。ほら」
躊躇なく奏は結われた黒髪をざんばらに切り落とした。
躁を思わせるほどの潔さに大人たちが息を呑んで目配せしあう。
「無原罪の聖母に攻撃はさせません。約束します。さぁ、誰が僕を殺しますか?」
面々の懸念は奏が自ら潰した。
無原罪の聖母が出てこないならば、ただの女児にすぎない。
四十絡みの分家筋の男がゆらりと立ち上がった。
能力は固定。怪獣であれ何であれ任意の場所に任意のモノを固定できる。
それが男の能力だった。
「まずお前をその場に固定して、さらに心臓に刀を固定すればいい。わけもない」
そう息巻いた固定には殺せなかった。
轢断、雷電、鬼針、劇薬……分家筋の中でも地獄のような討伐を潜り抜けた猛者たちが次々と名乗りを上げたがその誰もが奏を殺すことはできなかった。
それどころか白くふっくらとした頬にかすり傷ひとつ付けることができない。
何かに阻まれるように攻撃が止まり、はたと正気に戻ったときには正座を崩して投げ出された奏の足の甲に額ずいている始末。
すべては無原罪の聖母の御業。
「僕は攻撃しないって言っただけで、防御しないとは言ってませんからね。詭弁だって怒られちゃいそうだけど」
奏はただ微笑んでいた。
分家筋はぞっと身を竦ませて三々五々に散っていった。
当主として認めたというより事実上の敗走宣言だった。
奏は使用人たちを呼び集めると金の延べ棒をひとつずつ渡し、「少ないけれどこれを持って出て行ってもいい。残ってもいい。もう自由になっていい」と告げた。
大半の使用人は青ざめて引き攣る顔を隠しもせずに去っていった。
斑鳩と名乗った二十歳そこそこの従僕だけが金塊を奏の傍近くに戻し、その足に額づいた。
「私めは物書きを目指しておりまして。どうぞお傍に。あなたがどう生き残るのか、はたまた各所の思惑に飲み込まれてしまうのかエンタメとして非常に興味深い」
八年前の晩夏。ひぐらしが鳴いていた。
お読みいただきありがとうございます。
第五話<中>は長岡京事件と、なぜ奏は家を畳むのかのお話でした。
九重はいったいどんな反応をするのか。第五話<下>をぜひご覧ください。
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