第六章:白銀(しろがね)の防波堤
天正〇年、六月五日。
京都からの悲報を運んだ「紅い紐」の余韻も冷めぬまま、沖の浜に最悪の夜明けが訪れた。
潮が満ち始め、府内と沖の浜を繋ぐ細い道が、刻一刻と海の下へと沈んでいく。普段ならば異国情緒を醸すこの「島」は今、銀色の鱗粉が舞い踊る鉄の要塞へと変貌していた。
沖の浜に侵入してきた刺客数人は、既に漣たち四人が手持ちの武器で制圧し、僧兵が座敷牢に収監した。彼らは肝心なことはしゃべらないが、方言や手持ちの刀から薩摩の者と推測された。
ただ、残念なことに何人か刺客を逃してしまっていた。一目で理解出来るほど沖の浜の全貌は単純ではないが、軍事拠点のひとつとして認識され、これから島津が進軍してくるのは必至。
相生が三重に問う。
「三重殿、我らは四人で島津と戦う。だが、この沖の浜は元から宇右の禁足地とのこと。ご要望とあらば、ここから出て戦おう。もしくはこの中で島津を防ぎ、沖の浜を守る戦いをするか。如何なさる?」
「では、守る戦いを。ありがたく思います。私もこの僧兵も、この沖の浜には精通しておりますが、戦の経験が豊富なあなた方が指揮を。共に戦いましょう」
三重は漣に少し笑みを浮かべ話しかけた。一方、遠くから聞こえていた馬の蹄の音が、段々と大きくなる。
「南方の馬のいななき。……薩摩の『首獲り』どもが来たようだ」
中島が、早速門の上に仁王立ちして水平線を睨みつけた。視界の先、篝火を焚いて進軍してくるのは、耳川の戦いで大友軍を粉砕した島津軍の先鋒、およそ八百。悪鬼羅刹のような面持ちだ。
「中島、火薬の埋設は終わった。あとはあんたがアイツらをどこまで引き込めるかだ」
泉が、暗闇の中から音もなく現れた。その目は冷静な猟犬のそれだった。
「わかってるよ。チッ、褒美の当てがねえ仕事は久々だ。だが……島津の精鋭は相手として不足ない!」
中島は魚油の匂いのしみついた衣を脱ぎ、下に装備していた軽装の鎧をむき出しにした。
物見台の最上階。三重は十数羽の鳩を周囲に侍らせ、夜の空を凝視していた。彼女の指が微かに動く。それに呼応するように、一羽の鳩が島津の陣形の上空を低く滑空し、戻ってきた。
「……敵は三隊に分かれたようです。正面は囮。本命は潮が満ちきる直前、北側の浅瀬から一気に駆け上がってくる」
三重の言葉を、相生が伝令となって漣に走らせる。漣は、崩れかけた稜堡(要塞)の影に腰を下ろし、一挺の鉄砲に弾を装填した。
「相生。あの火薬樽の起爆は、上手くいくか?」
「兄さん。俺が作ったんだぞ。あの中にムレイシを極限まで詰め込んだ。爆ぜれば、銀色の地獄が見られるぜ」
漣は立ち上がり、懐の銃身を構えた。引き金を引こうとする自分の指先が、かつてないほどに熱かった。
案の定、島津軍はやってきた。
「お前らの主人は、命からがら臼杵に落ち延びたぞ。門を開け、兵糧を渡せ」
島津の叫びが聞こえる。だが、当然開けるはずもない。すると、正面の門に丸太を担いだ兵たちが突っ込んできた。それと同時に、島津の弓隊が一斉に火矢を放つ。銀色の鱗粉が舞う夜空を、赤い尾を引く矢が埋め尽くす。
「兵糧を渡せ、か。奴らはまだ、この沖の浜の武器に気づいていない。撃てッ!」
漣の号令が飛ぶ。門の両脇に隠れていた相生と、死を覚悟した三十人の僧兵たちが、一斉に鉄砲の引き金を引いた。
パァン! パァン! パァン!
火縄を回す時間も、白煙が視界を遮ることもない。島津の兵たちが驚愕に目を見開いたときには、既に隣の戦友が倒れていた。まるで弓を番えるように早く、種子島の火蓋を切るよりも早く、銀色の閃光が闇を突き抜ける。種子島(火縄銃)の射程距離では届き得ない距離からの攻撃、着弾した者の負傷の重症度合等、豊後の鉄砲の異質さは一見するだけでも島津軍に伝わる。
「何だ、あの鉄砲は? どんな妖術だ!」
聞き慣れない種類の火薬の破裂音に、島津軍の馬は驚き浮き足立つ。同じ火薬の爆ぜる音でも、種類が異なれば動物は敏感に反応する。もはやどの馬も、手綱の制御が効かない。その時、中島が門を蹴破って飛び出した。
「討ち取るぞ。後方は、躊躇せずに援護射撃せよ!我らは真正面から島津軍を叩く!!」
中島の巨大な大太刀が、島津の精鋭たちを鎧ごと紙細工のように真っ二つに裂く。島津の先鋒は、役に立たない馬を捨てて逃走していった。
「こんな装備があるならば、大友は何故日向で使わなかったのだ? 撤退するぞ!!」
夜の浜に、銀の粉雪が静かに積もっていった。
やがて三重が予見した通り、島津の本隊が北の浅瀬からなだれ込んできた。潮が満ち、退路が絶たれる絶妙なタイミング。だが、そこには泉が仕掛けた「死の罠」が待っていた。
「今だ、相生!」
相生が遠隔の引き糸を強く引く。次の瞬間、浅瀬の砂中が眩い銀光と共に爆ぜた。
ドォォォォォン!!!
通常の黒色火薬とは一線を画す、ムレイシの圧倒的な爆発力。銀色の鱗粉が噴水のように吹き上がり、島津の騎馬を呑み込む。殺傷力もさることながら、その見たこともない「銀の噴煙」と衝撃波が、戦国最強の一角と言われた島津兵たちの心をへし折った。爆発のすぐ後、僧兵が叫びながら飛び掛かる。
「南無七幡大菩薩!」
僧兵の長刀が、先鋒の島津兵を叩く。初見の大爆発の余韻の中で、三十人の僧兵の突進は何十倍もの兵力に見えたであろう。態勢を立て直そうと島津の将が軍令を叫ぶが、その声は二発目の、さらに巨大な爆音にかき消された。銀の薄い煙の中から、今度は銃弾が飛んでくる。もはや制御が効かない。
戦乱の最中、漣は一人、島津の将と対峙していた。将が刀を振り下ろす。漣は、懐の短筒を引き抜いた。相手が刀の間合いに入るよりも早く、鋼の撃針が発火薬を叩く。
パァンッ。
短い破裂音と共に、将の喉元を弾丸が貫いた。崩れ落ちる将を見下ろしながら、漣は激しく息を吐く。銀色の粉雪が、静かに舞い落ちる。
「……信長様。あんたの危惧した通りだ。この鉄砲一挺で、確かに歴史が変わる。……でも、新しい歴史というのは、こういう新しい物の登場がきっかけなのかもな」
夜明け。島津の軍勢は、沖の浜に来ることはなかった。沖の浜にある豊後の秘密を知らないうえに、近づいてみると見たこともない相手の兵器で損失を出す。そのいきさつを島津本陣に報告しても、恐らくは信じてもらえないだろう。島津としては、知れた敵将のいない沖の浜にこれ以上攻撃する理由がない。ゆえに島津は全軍を、大友宗麟のいる臼杵へと向かわせた。
◇ ◇ ◇
あれから一月程が経過した。主力が耳川の合戦で壊滅した大友軍は、臼杵城にて島津軍と再び相まみえた。中島と泉が兵糧に加え、沖の浜からムレイシと最新の鉄砲、大砲を持っていったが、やはり多勢に無勢。いくつかの勝利を手にはしたが、臼杵城は危うい状況だった。
この時点で大友宗麟の九州制覇と理想の国ムジカ建国は、「詰み」となったと認識してよい。それどころか、豊後一国すらも危うい。
豊臣秀吉に救援を乞いに、船で急いで大坂へと向かう宗麟。かつて彼を包んでいた白銀の法衣は汚れ、その瞳には、耳川の戦い以来、消えることのない深い絶望の影が張り付いている。
「……終わったのだな。私のムジカは」
宗麟は、遠ざかる府内の方角を眺め、力なく呟いた。
「佐伯が……田北が……」
戦死した重臣らの死を悼み、海面に泣きながら祈りを捧げる。その姿に、意気揚々と出陣したかつての姿を見いだすのは難しい。
宗麟は別府湾の方面を見た。そこにはかつて、自分の屋敷、賑やかな唐人街、日本で初めて西洋演劇が演じられ、少年の合唱が天上の調べを奏でたコレジオなどがあった。しかし今、そこに見えるのは、全焼した建物が放つ、黒い煙だけだ。
「……神よ。あなたはなぜ、私からすべてを奪われるのか」
宗麟の問いに答える者はいない。傍らに控えるわずかな家臣が、苦渋に満ちた表情で報告を告げる。
「……宣教師たちは、すでに長崎へ。アルメイダははぐれてしまい、コレジオの神父たちも、島津の略奪と民の暴動を恐れ、軒並みこの豊後を捨てて西へと逃れました」
宗麟は、乾いた笑いを漏らした。
異国の神を信じ、異国の技術を取り入れ、この日の本に「愛の国」を築こうとした。そのために、七幡の神への禁忌を犯し、禁足地(沖の浜)を軍事工場に変えるという大罪さえ犯した。だが、その結果が今回の敗北だ。自軍の主力は壊滅し、自分の館は灰となり、愛した少年たちの歌声は悲鳴に変わり、信じていた宣教師たちは、もはやいない。
「……私の建てた南蛮寺は、もはや祈りの場ではない。血と硝煙にまみれた、ただの石の塊だ」
船は、瀬戸内の荒波を越え、大坂へと向かっていた。そこには、かつての宿敵・織田信長の草履取りであった男、いまや天下の権を握らんとする豊臣秀吉がいる。
「信長が死に、次に縋るのが、あの『黄金』を好む猿だとは……」
宗麟は、自らの震える手を見つめた。
かつて「九州の覇者」と呼ばれたプライドを捨て、その足下に平伏し、島津討伐の救援を乞う。歴史的に見れば、窮地を脱する為の、最も妥当な判断を宗麟は行ったと言えるだろう。だがそれは、宗麟にとって死よりも辛い「理想の死」であった。
「ムジカの国など、この戦国の世においては、築き上げたとしても砂上の楼閣だったのかもしれないな……」
その宗麟の船を、臼杵港で一人見ている者がいた。府内の兵士と共に、臼杵城の救援に駆け付けた漣だった。宗麟の姿を遠くから、水平線に消えていくまで見つめていた。
「あなたの理想は、この戦国の世には、あまりに純粋すぎた」
◇ ◇ ◇
それから数日後、島津軍が臼杵に向かった後の豊後府内は焼け野原となったが、少しずつ平穏を取り戻していた。そんな日の午後、船底を突き上げるような不気味な震動が走った。別府湾の方向から、空を裂くような重低音が響き渡る。かつて経験したことのない地震だ。
「……三重殿! 沖の浜が……あの島が、沈んでいきます!」
遠く、霞む視界の先。かつて銀色の鱗粉が舞い、漣たちが決死の工作を行おうとしたあの「沖の浜」が、海に引きずり込まれるように消えていくのが見えた。
地下の地熱が暴れ、大地が悲鳴を上げ、海がすべてを飲み込んでいく。山からは大きな岩が、互いに衝突し火花を起こしながら落下してくる。これが世にいう、「豊後慶長地震」である。
「……なんと。キリシタンの神も七幡神も、この地に刻んだ傲慢を、すべて無に帰すつもりですね」
三重の頬を、一筋の涙が伝った。一夜にして海に沈んだとされる「瓜生島」伝説は、ここ沖の浜だったのだ。もとより砂州だった沖の浜は粒状化現象を起こし、まるで海の怪物の口に飲み込まれるように消えていった。伝説となる地と共に、大友宗麟が命を懸けて築いた「キリシタン王国」の証拠もまた、深い海の底へと沈んでいった。
残されたのは、黄金の権力者に命乞いに行く、老いさらばえた王の残影のみ。銀色の煙が舞うことは、もう二度とない。




