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第五章:炎と虚無

 (この沖の浜が、宗麟のものではない?)


 その真意を問おうとしたれんの言葉は、頭上で響いた激しい羽音にかき消された。

 仏間の開け放たれた縁側から、一羽の鳩が飛び込んできた。その足には、普段の銀色の筒ではなく、「紅い紐」が結ばれている。

 漣は再度問いかけようとしたが、やめた。いつも冷静な三重からは想像できない驚きの表情。そして筒の中の文を広げた瞬間、彼女の瞳がかつてないほど大きく揺れた。漣は嫌な予感がした。


「……六月二日、未明。京都、本能寺」


 三重の声は、震えていた。


「明智光秀が謀反。織田信長公、自害……。安土城、炎上……」


 時間が止まった。

 先ほどまで口論をしていた中島、泉、相生の三人の顔から、一気に色が失せる。


「……は? 何と……何と言ったんだ、その女」


 中島が刀の鞘に手をかけながら、怒気を含ませた。


「光秀様が裏切る? あの堅物が? あり得ねえ……あの魔王が、信長様だぞ!そんな簡単にくたばるわけがねえんだよ!」


 だが、情報の専門家である泉は、三重の手にある「紅い紐」を見つめたまま、膝から崩れ落ちた。


「……紅い伝書は、天変地異か、国のあるじの死を告げるもの。……三重殿、それは本当なのか。信長様は、本当にもう……」


 漣は、懐に隠した短筒の冷たい感触を確かめた。自分を泥の中から拾い上げ、生きる糧を与えてくれた男。主君であり、第二の父親であり、師でもあった。その男がいない世界が、今ここにある。漣の胸に広がっているのは、自由ではなかった。短筒を握る手だけが、ひどく冷たかった。


「聞いて。まだあるわ」


 呆然とする一同に三重は力なく言った。


「長男・信忠様は討ち死に。豊臣秀吉は、毛利との和睦を済ませ、京に急ぎ帰っております。他の遠征軍も明智を討つため駆けつけるでしょう。更に……明智光秀は征夷大将軍に就任……。京は戦火に見舞われます」


 混乱する漣たちを、三重は静かに、しかし力強い眼差しで見据えた。


「漣、先ほどのあなたの問いに答えましょう。この九州六国は宗麟様のもの。でも、あなたが焼こうとしたこの『沖の浜』は、古来より宇右神宮が守ってきた、神の『禁足地』。大友家は関東・相模の出身。この豊後・宇右の一地方神として生まれた七幡の神を、もとより信じておりません。利用したのです。キリシタンの神の名の下にそこを借り受け、地熱と銀の石で夢を形にしようとした」


 彼女は、仏間に掲げられたキリストの十字架を指差した。外見からは歴史ある仏教寺院だが、内装は南蛮寺(カトリック式教会)そのものだ。


「七幡の伝統ある禁足地に農民を住まわせ、神社仏閣の外面はそのままに、中を取り壊し、全てを南蛮寺にし、軍事工場にする。これ以上の神への冒涜がありますか。我らには、一日一日が屈辱なのです。ゆえに、一度焼き払われた方が良いのです」


 その時、側近と思われる僧兵の伍長が口を開いた。


「宗麟様の理想を支えていた『均衡バランス』は、崩れました。信長公が抑えていた長曽我部、毛利は今後どう動くかわからない。更に、一枚岩とは言えない九州六国の各国領主や、神宮内の別派らは確実に内部から動き出します」


「待て。沖の浜には南蛮の海軍が来るのだろう?」


「マカオから動いていません。悠長なことに、宗麟様は島津を制圧してから呼ぶつもりだったらしいから」


「何と……」


 中島は呆れたように声を絞り出した。


「……俺たちの任務は、どうなるのか」


「任務は消えたと考えるべきでしょう。織田軍では、確実に内紛が始まる。あなたを縛る鎖は、もう消えたのよ」


 漣は、失ったものの重さに、崩れ落ちそうだった。その顔を察し、三重は泉と相生あいおいに顔を向けて更に語る。


「この沖の浜にある『ムレイシ』と『新型の鉄砲』が、野心家たちの手に渡ればどうなると思いますか?」


 既に気落ちした表情の漣に、中島が寄り添う。


「待て。野心家とは? 内部からの謀反だけか?何か他に知っているのか?」


 三重はうつむきながら、伝書筒に入った手紙を取り出して言った。


「今朝、知らせが来ました。大友軍は日向の耳川にて島津軍に敗北。主力の精鋭を失い、臼杵城に向けて敗走しています」


 四人のみならず、三重の周りにいた僧兵も驚愕した。中には槍を落とし、崩れ落ちる者もいた。

 大友宗麟が九州六国を治めているとはいえ、それは実力で奪ったというよりは将軍・足利義昭から公式に認められただけ。宗麟の治世が行き届いているのは実質この豊後だけなのだ。他の領地の武将は、虎視眈々と謀反の機会を狙っている。つまり、大友軍が主力精鋭を失ったということは、同時に九州六国の安定も失ったこととも言える。


「沖の浜が野心家らの手に渡れば、底なしの煉獄れんごくに変わるのよ」


 三重は涙を浮かべて漣にはっきりと言った。


 その時、寺院の外から地鳴りのような叫び声が聞こえてきた。この聖域へ、見慣れない鎧武者が数人なだれ込んでくる。


「早速、島津の先遣隊か。中島、泉、相生……聞いてくれ」


 漣の声に、三人が顔を上げる。


「信長様亡き後、俺たちを動かす命令はもうない。……だが、混乱の中で我らは、かように踊らされた。歴戦の我らが、だ。正直、面白くない」


 漣は、懐から「火縄なき銃」を取り出した。この鉄砲は、破壊のために作られた。だが、そのハンマーを起こす親指には、かつてないほどの「自分の意志」が宿っていた。


「兄さん、その通りだ」


「そうだな。こんな訳のわからない任務は初めてだ。褒美は誰からもらうんだ」


「沖の浜を焼き払うかどうかは後にしよう。俺は、豊後・碩田おおきたの人間として、島津からこの豊後府内を守る。……お前たちはどうする。このまま、幽霊として消えるか?」


「……逃げる場所なんかねえよ。島津が何人でも斬り結ぶ」


 中島が、魚油の臭いが染み付いた袖で涙を拭い、立ち上がった。


「褒美の金をもらうまでは、死ねねえからな」


 泉が吹き矢を構え、相生が銃の調整を始める。


 あるじを失った四人の「刃」と、空からすべてを見下ろす巫女。そして約三十人の僧兵。銀色の鱗粉ムレイシが舞うなか、本能寺の炎に照らされた歴史の裏側で、彼らの戦が今、幕を開けた。


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