第三章:ムジカへの進軍
府内の大友屋敷前には、十字架の旗と大友家の家紋である抱き杏葉の戦旗が、潮風を受けて誇らしげに翻っていた。この日、大友宗麟――ドン・フランシスコが、理想のキリシタン王国を築くべく、喉元まで迫る島津氏を倒すべく、日向への親征を開始する。広場を埋め尽くすのは、豊後各地から集まった数千の民と、南蛮式の鎧に身を固めた僧兵たちだ。後に別地域の兵とも合流し、その兵力は約四万になる見込みだ。
「漣よ、見て。あれが私たちの目指す夜明けの光です」
安土から同行した案内役の宣教師見習い・ルイスが、興奮に頬を紅潮させて言った。漣は、その「光」が放つ異常なまでの熱量に目眩を覚えた。
「……狂っているな」
漣の背後で、中島が低く吐き捨てた。
「ああ。神を語りながら、その手には日本を灰にする牙を隠している」
泉の視線の先には、整然と隊列を組む大友の精鋭たちがいた。彼らの肩には、火縄の煙を上げぬ「異形の筒」が、死神の鎌のように担がれていた。
やがて、府内城の壇上に宗麟が姿を現した。
その姿は、かつて九州を震撼させた猛将の面影はなく、白銀の法衣を纏った慈悲深い老人のようであった。だが、彼がゆっくりと両手を掲げた瞬間、広場の騒熱は、氷を打ったような静寂へと変わった。
「愛しき我が子らよ。ついに時は来た。私は日向の地に、争いの火を消し、誰もが愛し合える国を築く。魂の調べだけが響く安息の地――『ムジカの国』を。この日の本の、あらゆる闇と汚れを焼き払い、神の光で満たすのだ」
その「焼き払う」という言葉に、漣は戦慄した。
宗麟の言葉は、信長の野心よりも、もっと根源的で逃れ難い「絶対的な正しさ」に満ちていた。だが、一抹の不安を覚える。正しさも建前も作法も、全て斬り捨てられるのが戦だ。死に物狂いで我先に後れをとるものかと、冥府魔道に進む心でしか打破れない敵がいる。その肚を、この兵士らは持っているのか。数々の大戦を経験してきた漣は、そう思わずにはいられない。
合図と共に、最前列の兵たちが一斉に銃を構える。
パァン! パァン! パァン!
鋭く、乾いた破裂音。
火縄を回す時間も、白い煙が射手を覆うこともない。引き金がハンマーを動かし、ハンマーに打たれた撃針が弾を突き発火する。ムレイシが混ぜ込まれた火薬は煙もなく、次の弾の装填まで、通常の種子島より短い時間で済む。長篠の戦で織田軍が見せた「鉄砲三段構え」が、悠長に思えるほどの神速だ。
最年少の相生が、職人としての冷徹な眼で、その動作を睨みつけていた。
「兄さん……あれは駄目だ。あんな銃と火薬が世に出たら、もう『戦』の形そのものが変わっちまう。信長様が焦るわけだ。これ一挺で、一国の歴史が終わる」
宗麟は引き続き高らかに叫ぶ。まるでミサで説教をする司祭のように。
「我々の進軍はこれより島津を滅ぼし、九州を必ず統一するであろう。そしてその後、南蛮の武士らが沖の浜にやってくる。目指すは本州。京はおろか、蝦夷の地まで向かうのだ」
宗麟の演説が最高潮に達し、民衆が歓喜の歌を歌い始めた。
(信長様の危ぶまれた通りだ。外国から招き入れるのか)
漣がそう思った時、不意に視線を感じた。街の至る所にある物見櫓の軒先には、数羽、十数羽と、真っ白な鳩が整然と並んでいた。轟音にも羽ばたき一つせず、ただその黒い、無機質な瞳で漣を射抜いていた。
(三重……あんたは、この狂熱をどこで観測している)
漣はこれまで、信長に単なる替えのきく武器として扱われることで、自分の輪郭を保っていた。だが、この豊後の地で様々な人々に触れ、間違いなくその輪郭は削れてしまった。
沖の浜を焼き払えば、火の手はこの優しいルイスにも、アルメイダの病院にも、命を繋ごうとしている民らにも届く。今から自分のすることは、すべてを泥の中に棄てるということではないのか。
◇ ◇ ◇
夕刻、出陣の祝祭が一段落し、兵たちが慌ただしく荷を積み込み始めた頃。漣は一人、宇右神宮の分社へと向かった。そこで、彼は三重を先頭とした神官らと出会った。
彼女は一羽の鳩を腕に乗せ、その足に小さな銀の筒を括り付けていた。
「……明日、あの王様は行ってしまうわ。この街から、一番大切な『夢』を連れて」
三重は振り返らず、空を見上げたまま言った。
「三重殿。その鳩は、どこへ行くんだ。……日向か? それとも京都か?」
「ご存じなのですね。……東です。日の本の『都』の方から、とても不吉な羽音が聞こえてくるの」
三重が手を放すと、鳩は力強く羽ばたき、宵闇の向こうへと消えていった。彼女の瞳には、かつて漣が雨の日の峠道で見た、あの「逃れようのない運命」と同じ色が宿っていた。
「……信長公? まさか」
「分からない。でも空が荒れているわ。それによろしくない報告も届いてきている。血と炎の匂いが、風に乗ってここまで届いている。……信長公でも、決して楽観視できない」
翌日、宗麟は発つ。王のいない沖の浜は、無事に沈黙を保つのだろうか。それとも……。
◇ ◇ ◇
大軍勢が日向に向かった後の府内は、かの熱狂が嘘のように静まり返っていた。だが、平穏とはいえない。沖の浜から響く鉄を打つ鍛冶音と、石臼のドシン、ドシンという振動だけが、耳鳴りのように街の底を揺らし続けている。
沖の浜は府内の北側(勢家地方)に浮かぶちょっとした離島で、ただでさえ僧兵が門の前にいて入りづらいのに、満潮の時は道が途絶え、船でしか行けなくなる。ここ数日、四人は港近くで釣り人をしながら、地形や建物を確認していた。
日本中で使用されている種子島(火縄銃)は、射程距離が約百メートル。しかも連射出来ない。結果として刀や槍等の武器と共存し、現状の戦い方を大きく変えることはない。だが、ムレイシを使った鉄砲や大砲は相手の顔も見えない距離から狙えるゆえ、戦法そのものを変えてしまうゲームチェンジャーになるだろう。武士たるものの戦の作法も、名誉ある死も全て無にしてしまう。
(信長様に言われるまでもない。絶対に世に出してはいけない代物だ)
漣とて武士の端くれ。そういった使命感を胸に抱いていた。
「……さて、はじめるか」
コレジオの裏手、霧の深い明け方の闇に乗じて、四人の影が集まった。巨漢の中島は、腰につけてある瓢箪を確認し、本数を数えた。魚油と石炭を沢山入れた瓢箪を数個用意していた。縄をつけ、沖の浜につけている南蛮船と薪置場に投げつけて放火させるのだ。
「予定通りだ。夜になり、俺は沖の浜に火を放つ。祝祭で出た酒樽も転がっているらしいから、一度火がつけば消火に半日以上になるはずだ。港と街の警備は全て、そっちに釘付けになる」
「私はその隙に、三重の動向を追いながら神官らの『目』を潰す」
泉は懐から特製の吹き矢を見つめた。ここ数日で釣れたフグから毒を抽出し、針に塗る。
「泉の釣りが下手くそで、フグばかり釣れたのが役に立ったな」
「フグしかいないのだから仕方あるまい」
「そんな訳ないだろ。俺を見ろ、この魚油の量を。脂の乗った鯖とアジが入れ食いだぞ」
「魚臭いのはそのせいか。もはや染みついて取れないぞ。ますます女が寄りつかないぞ」
「うるさい」
彼らの冗談じみた言い争いは、日常茶飯事。これを豊後に入って初めて聞けた漣は少し安心した。
「とにかく、我らの動向を鳩に見られては元も子もない。相生は漣の援護に回れ」
漣は無言で頷いた。調べた限りでは、三十人ほどの兵が沖の浜にいる。だが、信長の命令を果たすためには、あの銀色の鱗粉が産まれる地下まで行くしかない。
(信長様……無事であれば良いが。あんたの命令が届くのが、これが最後になっちゃいけねえよ)
三重の不吉な予言が脳裏を掠める。もし、本当に東の空で何かが起きているのなら、この任務の果てに自分を待っているのは「自由」ではなく「行き止まり」だ。それでも、漣には止まるという選択肢はなかった。




