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第二章:凪のなかの不協和音

 信長の計らいだろうか。れんはルイスから「暇をもらい実家に帰っては」と促された。信長の気遣いなのか、それとも漣を「豊後出身の者」として大友側に認知させる為に一度実家に顔を見せるという事実を作ろうとしているのか。だが、そんなことは漣にはどうでも良かった。務めとして豊後に来ている以上、全ての場所が虎口になりうる。漣は五年ぶりに故郷・うちかまどの土を踏んだ。

 村の入り口、潮風に晒された松の木の側で、一人の少年が力強く薪を割っていた。かつて泥の中で冷たくなっていた自分に、これほど自分に似た者がここに息づいていることに、漣は眩暈を覚えた。これは、当時赤ん坊だった漣の弟・つるの姿に間違いない。


「……漣? 漣なのかい!」


 母の叫びと、弟・つるの無邪気な歓迎。表面上、漣は「安土で奉公をしている」という嘘の仮面を被り、家族との再会を喜んだ。母は嗚咽を響かせ、ただひたすら彼を抱きしめた。だが、遠くから涙を流して息子の帰郷を喜ぶ父・碩田おおきた 四郎兵衛しろべえの目は鋭い。

 かつて大友の精鋭として戦場を駆けた老武士は、彼の立ち振る舞いや歩き方を、縁側から黙って凝視していた。

そして鶴に「剣術を教えて」と乞われ、中庭で稽古をつけている時に確信した。息子・漣の動きは侍ではなく、むしろしのびに近い。しかも、相当の死線を潜らないと身に着かないであろうそれだ。


「……漣。その動き、どこで覚えた?よく練られておる」


 夕食後、四郎兵衛が投げかけた問いに、漣の手が止まる。


「……安土の剣術師範にございます。厳しい方でしたから」


「そうか。そこまで練り上げた武を持っているのに驚いた。だが、お前の剣には、相手に対する『情け』が欠片もない。ただ効率よく相手を屠るためだけに削ぎ落とされた、いわば、冷たい鋼のようだ」


 その言葉は、信長から受けたどんな叱責よりも深く、漣の胸に突き刺さった。

 

「……」


「ま、その方に感謝せねばな。お前の剣は私より上手のようだ。よく鶴に教えてやってくれ」


 息子の沈黙と、間の気まずさを破るよう四郎兵衛はそう言って屋敷に戻った。故郷に突然現れ、かつ武術を想像以上に修めている息子・漣を不気味に思いながらも、四郎兵衛は顔がほころんだ。武士の本分は武の道。それを練り上げた者に、武士ならば誰も称賛を惜しまない。それが我が息子ならば尚更のことだ。屋敷に足を向けたのは、誇らしい息子に自分のほころんだ表情を見せない為でもある。


 家族が寝静まった深夜。漣は一人庭に出て、別府湾の上に広がる星空を仰いでいた。温泉の湯煙が遠くの山から立ち昇り、銀色の鱗粉ムレイシが星の光を反射して、宙に静かな筋を描いている。


「……寝られんか。安土の夜は、もっと騒がしいのだろうな」


 背後から響いた、重みのある声。振り返ると、四郎兵衛が二つの猪口と、首の長い酒瓶を手に立っていた。二人は庭の濡れ縁に腰を下ろし、月明かりの下で酒を酌み交わした。大分の芳醇な地酒が、漣の乾いた喉をゆっくりと焼いていく。


「宣教師の護衛と言うが、本業は他にあろう?これまでの五年、何をしていた。……正直に話せとは言わん。だがな、漣……」


 四郎兵衛は、息子の猪口に再びなみなみと酒を注いだ。


「酒が旨いと感じるうちは、お前はまだ人間だ。お前をそこまで『削り上げた』地獄のことは聞かん。だが、今夜だけは碩田の息子に戻れ。使命も、安土も、ここにはない」


 父から注がれた二杯目の酒。それは安土で飲んだどんな高級な酒よりも重く、漣の指先を微かに震わせた。酒精の熱が漣の芯をじわじわと解きほぐしていく。 猪口を傾けながら、漣は思った。自分は「部品」ではない。この父の息子なのだと。その甘い錯覚が、夜の闇に溶けていった。


 ◇ ◇ ◇ 


 翌夜。任務の緊張を再び纏った漣は、沖の浜の背後にそびえる宇右神宮の分社へと足を運んでいた。石臼の振動が最も激しい場所、ムレイシの最終精製場を探るためだ。

 銀色の鱗粉が月光に溶け、境内を白銀のパライソ(天国)かと見紛うように塗り替えていた。その静謐な光景のなかに、数匹の鳩に囲まれた彼女はいた。拝殿の回廊に腰を下ろし、静かに舞い落ちる銀の雪を掌で受けている少女。

 

「神社の巫女には夜の務めとして、特別な儀式を行うと聞いたことがある。その最中だろうか」


 巫女装束を纏い、ただ黙って夜の空を見つめているその横顔は、あまりにこの風景の一部となっており、漣は一瞬、声をかけることすら忘れた。漣が気配を消したまま通り過ぎようとした時、彼女がふいにつぶやいた。


「音はこの分社からではありません。沖の浜の中です」


 漣は愕然とした。気配を悟られるという隠密にあるまじき不覚と、自分の心を見透かされたような言葉に。


「それに……冷たくは、ないのですよ」


 漣の足が止まる。彼女は振り返ることもなく、掌に乗った銀色の塵を見つめていた。


「……何の、話だ」


「この銀色の雪です。安土の方は、これを『不吉の灰』だと怖がっていると聞きましたが……本当は、こんなに穏やかなものなのに」


 少女――三重みえは、そこで初めて漣の方を向いた。

 その瞳は夜の海のように深く、澄んでいた。敵意もなければ、不自然な警戒もない。ただ、同じ景色を共有する者へ向ける、静かな眼差しだった。


「……私が安土から来たことを、知っているのか」


「あなたの着ている服からは、瀬戸内の潮風。そして手からは、火縄の匂いがします。でも、あなたの瞳には、この街の銀色が映っている……。少し、似ていますね、私に」


 三重はふわりと立ち上がると、銀の雪にまみれた境内を、音もなく歩き出した。


「三重と申します。……また、ここで雪を眺めることがあれば、その時は安土のお話でも聞かせてください」


 彼女が去った後には、ただ銀色の粉がキラキラと舞う静寂だけが残された。情報の交換も、切り結ぶような緊張感もなかった。だが、漣の胸には、彼女の瞳に宿っていた「名前のない孤独」が、消えない火種のように残り続けていた。


 ◇ ◇ ◇ 


 やがて、宣教師らと漣たち護衛四人に、「主君」大友宗麟への謁見の機会が訪れた。

 豊後大友屋敷の奥深く。そこに鎮座していたのは、慈悲深い老人のようでありながら、瞳に底知れぬ狂気と熱を宿した男――大友宗麟ドン・フランシスコだった。


「安土の少年らよ。大儀であるぞ。よくぞ参った」


 宗麟は、宣教師らの手を優しく包み込み、微笑んだ。


「今この場で話そう。そなたらには、使命がある。この中の数人はポルトガルに渡り、神の学問を更に修めるのだ。それ以外は「新しい国」の司祭として民を導け」


 一同は、「新しい国」という意表を突いた宗麟の言葉に誰もが息を呑んだ。


 ここより南方。私は日向ひゅうがの地に、誰もが奪い合わず、誰もが愛し合える国を建てる。魂の調べだけが響く安息の地……『ムジカの国』だ」


 その言葉は、信長の「力」とも、かつて見た宮司たちの「我欲」とも違う、あまりに純粋で、それゆえに破滅的な響きを持っていた。漣は、この王の「美しすぎる夢」を支えるために、ムレイシを作る現実を思い、激しい不協和音を感じた。

 謁見の間を辞した帰り際、廊下ですれ違った伝令たちの慌ただしい様子が、漣の耳に届いた。


「宗麟様が、近いうちに何か大きな決断をされる。……日向へ向けて、十字架の旗が動くぞ」


 十字架の旗が日向を埋め尽くすのか。それとも敗走し、悪鬼羅刹のような敵軍が豊後にやって来るのかは、まだ誰も知らない。

 漣は、懐に忍ばせていた短筒の新型銃にそっと触れた。父が言った「酒の味を感じる人間らしさ」と、信長が求めた「替えのきく刃としての冷徹さ」。その二つの間で、少年の指先は銀色の雪の中でわずかに震えていた。


 ◇ ◇ ◇ 


 漣の心に更なる一撃を加えたのは、病院での光景だった。

豊後には、日本初の西洋医学式の病院が最近建てられた。戦場では、刀を受けて腐り始めた手足を引きずる兵士は「使い物にならない」として野ざらしの土に捨て置かれるのが常識だった。場合によっては、苦しまないようにトドメを刺すことこそが武士の情けだと、疑わずに生きてきた。

 だが、医師ルイス・デ・アルメイダの前に横たわる老人の、どす黒く膿んだ脚。それをアルメイダは「汚物」としてではなく、まるで壊れた高価な茶器を継ぐかのような、慎重で慈しみ深い手つきで清めていた。


「痛み止めをまず飲んで。そこから切っていく。大丈夫。良くなるよ」


「……治せるのか? この男の足を」


 血を見た漣は、頭が戦場に切り替わりかけたが、一旦抑えて問いかけていた。アルメイダは血に染まった銀色のメスを止めることなく、穏やかに答えた。


「治るかどうかは、神のみぞ知ることです。ですが、人生は最後の最後まで生きることが神の御心にかなった考えです。私の医術とは、その生きることを支える役目。……捨て置く? いいえ。この世に、捨ててよい命など、ただの一つもありません」


 漣は、自分の指先をじっと見つめた。

 アルメイダの指は、腐れた肉を削ぎ、命を繋ぎ止めるためにだけある。自分の指は、敵の急所を探り、命を断つためにだけある。

 同じ「肉を裂く刃」を使いながら、その根底にある哲学のあまりの断絶に、漣は足元が崩れるような感覚を覚えた。

 漣は病院を後にした。毒薬は目の前の人間のみを殺すが、毒の思想は、数万の人を殺すのだ。そして、毒は甘さを伴う。アルメイダの言ったことが、果たして毒か薬かはわからない。だが、そんなものに触れてしまった気がした。


 ◇ ◇ ◇ 


 その日の午後は、コレジオの大講堂へと向かった。西洋演劇と、複数の旋律が複雑に絡み合う「多声音楽ポリフォニー」の講演会が開かれていた。

 漣の耳に飛び込んできたのは、重厚なオルガンの響きと、少年の合唱だった。主旋律に対して、別の旋律が追いかけ、重なり、反発しながら、最後には一つの巨大な調和へと溶けていく。それは、信長の命令を、束の間だけ忘れさせるほどの圧倒的な「天上の響き」だった。これこそが「ムジカ」。英語の「MUSIC」はポルトガル語では「MUSICA」(ムジカ)と呼ぶ。大友宗麟も豊後の民も、こうした西洋式演奏で流される音楽そのものを「ムジカ」と認識してそう呼んでいた。


「……複雑な音だな。安土の横笛ふえや太鼓とは、あまりに違う」


 いずみが眉をひそめて呟いた。


「ああ。まるで、この街そのものだ。異国の文化と、民の熱が無理やり一つに編み上げられている……」


「だが、嫌じゃない。むしろ日の本よりも、高みにあるんじゃないか。ずっと聴いていたい」

 

 末弟の相生あいおいは気に入ったようだ。


 ふと、漣は天井のはりを見上げた。きらびやかな劇の最中、一羽の真っ白な鳩が、微動だにせず舞台と客席を見下ろしていた。

 飛ぶ鳩の足には、時折小さな封書を入れる銀色の筒が見えた。ここ数日で気づいたことがある――各大名が戦勝祈願で参内する七幡神社には、常に鳩がいた。鳩などは珍しくもなく、視界に入っても意識しなかったが、城、居間、道場など恐らく至るところにいたであろう。もし七幡神社が伝書鳩を通じてつながっているとすれば、その総本社である宇右神宮は、全国の大名の動向を手中に収めていることになる。


(大友宗麟は、七幡神社を通して、全国の大名の有様を知っていたのでは?)


 漣は出し抜かれた気がして、たまらず外に出た。道ばたの石に腰を下ろし、一人で考えを整理した。毛利氏攻略に兵力の大半を費やし、兵糧の備蓄も底をつきかけている信長。その崩れそうな均衡を保たせているのは、信長の睨みひとつのみ。七幡神社の伝書鳩ネットワークを通せば、大友宗麟にはそれがわかる。

 ではそういうネットワークを通じて知り得た、この日の本の状況をどう見るのか。大友宗麟がもし動くとしたらそれはいつか。


(今だ。今しかない。今まさに事を起こそうとしている。実際、日向に遠征をすると自ら言っていた。南蛮の兵士が来るのもその時か・・・)


 そうした漣の予感は正しかった。

 頭をもたげている漣のそばに、気づけば一羽の鳩が近づいていた。その黒い小さな瞳が、無機質に漣を見つめている。その視線の先に、あの少女・三重みえの影を感じずにはいられなかった。

 

 夜。別府湾の海岸沿いでは、豊後最大級の祭り「浜の市」が絶頂を迎えていた。篝火かがりびに照らされた銀色の鱗粉ムレイシが、夜空に舞う黄金の粉雪のように煌めいている。


「漣! 湿っぽい顔すんな、これを食え!」


 中島なかじまが、焼きたての鶏の串焼きを強引に押し付けてくる。漣は遠慮なくもらった。醤油の香ばしさと、鼻を抜ける異国のスパイス。だんご汁の温もりとはまた違う、暴力的なまでの「活気」が胃を熱くする。

 屋台の横では、南蛮の奇術師が空中に火の粉を撒き散らし、子供たちが歓声を上げている。だが、漣は見ていた。賑わう市場の、どの屋台の屋根にも、一羽ずつ等間隔で鳩が止まっているのを。それらは客の食べ残しを狙うでもなく、ただ「そこにある目」として、不気味に静止していた。焚き火の炎にも驚いて逃げない。訓練されていない鳩には、絶対にあり得ない光景だ。


「漣、気づいたか。あの鳩らを。後で仕留めてやろう」


 泉が漣に話しかけた。

「やはりこいつら、頼りになるな」


漣は少し気が楽になった。


 ◇ ◇ ◇ 


 浜辺で焚き火を囲み、ポルトガルから来た老船長パウロが、漣たちに赤ワインを注ぎながら熱く語り始めた。


「……レン、君はなぜ、我らがこんな死の海を越えてきたと思う? 金のためか? 領土のためか? ……いや、誇りだ。我らイベリア半島の民には、七百年という歳月をかけて、異教徒から自分たちの地を奪還した『レコンキスタ(国土回復)』の記憶が刻まれている。あの戦いを経て敵の征服地は全て果て、残るは海。そうだ、我ら勇壮なルシタニア人は、あのロカ岬からこの広い海を渡れと、神から使命を与えられたのだ。我らは、七つの海を越え、新しい地に、この魂を、世界の果てまで届けていく」


 パウロは腰に差した短剣を抜き、砂の上に十字を刻んだ。

 漣はその言葉を聴きながら、信長を思い出した。信長は古い秩序を破壊し、合理的な力で国を一つにしようとした。だが、この目の前の男たちが背負っているのは、数世紀にわたる「信仰」と「執念」だ。その重みが、豊後の地熱とムレイシという異質な力と結びつき、この奇妙な街を作り出している。


「……あんたたちの誇りは、誰かを壊すためにあるのか、救うためにあるのか」


 漣の問いに、パウロは笑って答えなかった。やがてみんな解散し、漣は一人、浜辺に残った。

漣は思った。生まれた家でも使える主君でもなく、己が考えでみんな思い通りに、胸を張って生きている。ならば自分はどうなのだ、自分にも自分の好きなように生きても良い自由があるのか、では自分のやりたいことは何かなどと、考えは幾度も巡り、やがて赤ワインの酔いが回ってきた。


「このまま……帰りたくない」


 言葉は波の喧騒に消え、彼だけの秘密となった。


 ◇ ◇ ◇ 


 祭りも更け、夜の静寂が戻り始めた頃。漣は波打ち際に立った。足元には、銀色の鱗粉を吸い込んだ砂が、寄せ波に洗われて青白く光っている。昨夜、父・四郎兵衛しろべえと共に飲んだ酒の熱と、パウロと飲んだ赤ワインの熱が胸の奥に残り、心を騒がせている。


『酒が旨いと感じるうちは、お前はまだ人間だ。……今夜だけは、俺の息子に戻れ』


 バサバサッ、と頭上で羽音がした。一羽の鳩が漣の頭上をかすめ、あの七幡神ななはたしんの宇右神宮の分社がある森の奥へと消えていく。鳩とは本来、夜は雨風をしのぎ平穏にいられる場所で過ごすものだ。人間の手で訓練された個体を除いては。


(……三重。あんたも、この景色をどこかで見ているのか)


 信長が命じた「破壊」。だが、この街のすべてを灰にすることは、自分の中に芽生えた「人間」を、もう一度泥の中に棄てることと同じではないのか。

 漣は指先を見た。砂の上に落ちる銀の粉が、その輪郭をわずかに白く縁取っていた。


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