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第一章:銀の塵(ちり)と聖なる要塞


 初夏。瀬戸内の凪を越え、豊後湾の入り口に差し掛かった南蛮商船の甲板に、異様な緊張が走った。霧の向こう側かられんの耳に届いたのは、寄せて返す波の音ではない。腹の底を直接揺さぶるような、重苦しい「地鳴り」だった。


「……何の音だ、これは。鯨の雄叫びか?」


 巨漢の中島が、思わず刀の柄を握りしめた。


「固い物とやや柔らかい物が当たる音。恐らく一方は石臼。そしてもう一方が、「ムレイシ」ではないか?港の中で、その『銀の石』を磨り潰しているんだよ」


 情報の専門家である泉が、冷静さを装いながらも、その視線は不気味な震動の源を探っていた。

 漣は、手すりを掴む指に力を込めた。潮風に吹かれながら、彼の脳裏をよぎるのは、つい数週間前まで身を置いていた安土城の光景だ。

 織田信長の手によって、戦乱の世は終わりを迎えようとしていた。天下統一―それは万民が待ち望んだ泰平の世の到来だ。だが、漣にとって、それは自らの「死」が近づく足音に他ならなかった。


(戦が終われば、俺のような『刃』はどうなる……)


 信長の長男・信忠は、漣を見るたびに「汚れ仕事に染まった影」として忌み嫌うような冷たい視線を向けた。礼節を重んじる明智光秀は、主君の影で暗躍する漣を不浄なものとして蔑む。豊臣秀吉はよく秘密の仕事を頼んできたが、その愛想笑いの裏で、いつか自分という証拠を消し去る機会を伺っているようだった。

 信長が健在なうちはいい。だが、もし信長が死ぬか、あるいは信忠が跡を継げば、この平和な新世界に漣の居場所はない。さりとて、五年前に死んだことになっているこの豊後に、今さら自分を迎え入れる余地など残っているのか。


(安土では化け物、故郷では幽霊か……)


 そんな自嘲を打ち消すように、突然、世界が弾けた。

 カァンッ! という鋭い打撃音の直後、ドォォォォン!! と、鼓膜が裂けるほどの凄まじい爆発音が海上を揺らした。


「海賊かッ!?」


 相生あいおいが叫び、甲板に伏せる。

 霧が晴れた先、沖の浜を囲む要塞化した寺院の山門。そこに据えられた、見たこともないほど巨大な青銅製の大砲――フランキ砲の銃口から、白銀の煙がたなびいていた。


「……祝砲?」


 漣は、激しい耳鳴りに耐えながら絶句した。

 宣教師たちの入港を歓迎する、ただの空砲。だが、その一発が放つ威圧感は、安土の誇る鉄砲百挺分を束ねても届かぬほどの圧倒的な武の質量だった。たった一門で一軍を葬り去る力。それが、街の入り口に並木のように幾重にも並べられている。信長が焦る理由が、この一撃に凝縮されていた。


 桟橋に降り立った漣たちの視界を奪ったのは、空を埋め尽くすように舞い落ちる銀色の鱗粉りんぷんだった。祝砲の衝撃で地下から巻き上げられたのか、それは初夏の陽光を乱反射させ、白銀の雪のように美しく降り積もっている。


(……これが、ムレイシなる火薬か)


 安土では「悪魔の灰」と囁く者もいたが、吸い込んでも喉を焼くような苦痛はない。むしろ、ほのかに清涼な香りがし、子供たちはその銀色の雪の中で笑い、踊っている。

 だが、その無邪気な光景が、かえって漣の心を逆撫でした。港周辺はおろか、内部にある広場にも十字架の下でキリシタン僧兵たちが配置されている。市場には最高級のビロードや硝子が溢れ、飢えを知らぬ民たちが豊かさを享受している。道中、舌を焼くような香辛料や異国の香の匂いが鼻を突く。漣は密かに退路を断たれ、虎口に向かっているような緊張感を覚えた。


「……不気味な街だな、ここは」


 中島が声を潜めて呟く。


「ああ。神の愛を語りながら、至る所に大砲、鉄砲、僧兵が溢れている。まるで、美しく着飾った化け物の胃の中にいるようだ」


 街路を歩きながら、漣はふいに激しい眩暈めまいに襲われた。鼻を突く潮風と、銀色の粉が焦げたような匂い。それが、彼が心の奥底に封印していた五年前の記憶を、泥の中から引きずり出した。


(……あの日も、こんな匂いがしていた)


 ◇ ◇ ◇ 


 五年前。漣は宇右神宮の宮司たちの護衛として、この豊後の地を後にした。京の石清水七幡宮へ向かう長い旅路。その途上の雨降る峠道で、一行は正体不明の野党の群れに包囲された。それは、仕組まれた計略ですらない、あまりに理不尽な不幸だった。

 最初に漣が背後から斬られ、倒れた。僅かに開いた目の前で、自分が慕っていた宮司たちが切り伏せられた。共に剣を学んだ仲間の護衛たちも、次々と血の海に沈んでいった。泥濘でいねいに顔を伏せ、冷たい雨に打たれながら、漣は死んだ仲間の遺体の下で息を潜めていた。野党たちの下卑た笑い声と、むせ返るような血の匂い。

 自分以外の全員が死んだ。なぜ自分だけが生き残ってしまったのか。なぜ、その直後に鷹狩りに来た信長という「死神」の手を掴んでしまったのか。

だが、生きる意味をくれたのもその「死神」・信長だ。碩田おおきたという姓を持つ漣を武士として扱い、戦で役立つように育ててくれた。無理を言う主君でないと良臣は育たないというが、信長の度重なる無理な要求に応えてきたからこそ、隠密部隊の一人として抜擢された今がある。


(宇右の神よ。あんたは、あの日俺を見捨てた上にこのように生かして、何を見せようとしているんだ)


 漣の胸にその時浮かんだのは、信長への忠誠でも、故郷への愛着でもない。ただ、自分の運命を弄ぶ「何か」への乾いた憤りだった。


「漣? 顔色が悪いですよ、神の加護が必要かな」


 案内の修道士、ルイスが心配そうに覗き込む。


「……いや、なんでもない。少し、船酔いしたようだ」


 漣は短刀の柄をきつく握りしめた。自分は信長の代替のきく「部品」であり「刃」だ。平和な世になれば自分は必要ない。ならば、この銀色の街で、最期の大仕事を果たすだけだ。それが、五年前に死に損なった者の、唯一の落とし前であるはずだった。


 銀色の軍事港・沖の浜から府内の街に、少年たちは決死の覚悟を持って足を踏み入れた。


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