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白刃の女神  作者: 大吉
22/39

第五部 決戦 前編

 中庭の芝生に寝転がっていると、遠くの屋上から僕を見て

いる子に気がついた。手の振り方からして、爽香だ。

 僕は目を瞑って昨日の出来事を思い返していた。

 ――国嶋さんと仲いいみたいだから、私追い出されちゃう

のかと思った。

 橘の学校案内に行ってやらないの、と落書きをしながら、

冗談っぽく拗ねてみせた爽香に、僕は不謹慎にも笑ってしまっ

た。でも、すぐに謝った。話だけでも聞いてやったら?なん

て、今思えば、かなりの失言だ。

 「ありえないだろ。おれがおまえを追い出すわけないし、

ずっと、この家にいたっていいんだぞ? おまえは。……まぁ、

そもそもおれの家じゃねぇけど」

 僕は失言を取り戻すかのように、そんなことを言った。

 「ふふ、ありがとう。そうだよね? 兄さんは私にお嫁に

いってほしくないんだったよね?」

 「あぁ、そうだな」

 「ふふ、このシスコンめ~」

 「おまえなぁ……」

 爽香の笑顔が僕の胸を激しく打ちたてた。誰かと付き合う

ことは、やはり、当事者の世界が変わるだけではすまない。

そんなに綺麗なものではなかった。

 僕ら(彩香と僕だが)は色んな思いを巻き込んでいく。そ

れを知っていながら、薄々気がついていながら、僕はそれを

見ようとはしなかった。でも、たとえ、見なかったとしても、

世界はこうやって変わっていく。

 予鈴の音が僕の目を覚ました。突き抜ける空の青さが目に

刺さった。

 僕らが変えてしまった世界、それに対する反発がもうまも

なく、起こるような気がしていた。

 彩香と僕はいつものように一緒に下校して、十字路で別れ

ようとしていた。だが、そこで彩香がとんでもない話を持ち

出してきた。どうやら、昼間に感じたとおり、僕らの背後に

はもうすぐそこまで危機が迫っているようだった。

 僕らの関係はPTAの間でも密かにささやかれだしていた。

ただ、彩香の母親が役員(僕はこのとき彩香の母親がPTA

の役員であることを初めて知った)であったため、それを声

にすることを皆よしていたのだ。

 だが、昨日行われた会合でしびれをきらした一人の女性が、

いよいよ彩香の母親に噛みついた。ところで、夫人はそれに

対して冷静さを失うことがなかったため、それがかえって、

恐らくただ一人そのなかで知らなかった主人に、そのすべて

を悟らせてしまったのだ、ということだった。

 その後、主人はすっかり機嫌を損ねて、その日の夜に彩香

を自室に呼び出した。ただ、彼女はそれで怯むような子では

なかったので、主人は期待通りの結果を得られなかった。そ

こで、今日僕を家まで連れてくるように主人は彼女に命じて

いたのだ。

 彩香は主人のいわれで、直前までこの話をしなかったこと

をしきりに気にしているようだった。でも、そんなことは僕

にとって取るに足らない些細なことだった。ネクタイを正す

くらいの時間はある。

 ただ、僕が本当に困ったのは僕が手ぶらだという事実だ。

何か近くで買ってこようとしたのだが、彩香は僕のシャツを

つかんで、それを制止した。

 彼女は素早く呼び鈴を押した。巨大な門が音を立てて開い

ていく。僕は彩香の後に続いた。そして、彩香が両親を呼ぶ

間、僕は呼吸を整えた。これから、長時間の話し合いが始ま

るのだと思って、思わず生唾を飲み込んだ。

 まもなく、夫人が、そのあとに続いてゆっくりと主人が玄

関に出てきた。僕は主人をじっと観察した。紺色のポロシャ

ツを着てベージュのパンツをはいている。服はタイトなもの

らしく、とても細身に見えた。それに反して、左手には大型

の腕時計が身につけられている。体型はおそらく、標準的な

ひとだ。髪はほとんどが右側に流れていて、口ひげが威厳を

演出していた。

 主人が僕の前に立った。僕は挨拶の順番を間違えた。先に

頭を下げてしまったのだ。この行為が主人と話す機会を奪っ

た。

 かがんだ僕の横顔に主人の拳がふいに被さってきたのだ。

気がつけば、僕はポチを見上げていた。芝生の涼しげな匂い

が僕の鼻を刺激する。

 ポチは僕の顔のすぐ隣で低いうなり声をあげていた。その

先の方で、彩香の怒声が聞こえたので、その唸り声の相手先

が主人に向かっているものであることを知った。僕はそれに

驚いた。慌てて、ポチの身体をつかんで僕の顔に寄せた。

 ――おまえ、主人に逆らったら居場所がなくなるだろうが、

と心のなかで注意してやった。僕は誰かに似たようなことを

言った気がする。そうだ、僕の身体を揺すっている彩香だ。

責任取れない、なんて、僕はなんでそんな愚かなことを口に

したのだろう。きっと、これはその報いだ。

 主人はうつ伏せの僕に、娘と別れるように短く忠告して離

れていった。それに続いて彩香のかけていく足音を僕は頬で

感じた。

 主人の降り注ぐ声はまるで日差しのようだった。僕はポチ

の頭をくしゃくしゃにしてやると、すぐに立ち上がった。狼

狽した夫人の姿が見えた。僕は平気ですから、彩香さんにも

そうお伝えください、とだけ言って、玄関に背を向けた。

 短く、また来ます、と言い残して僕は門へ向かった。

 頬の痛みは夜になってもきえなかった。口に食べ物を放り

込んでも、相変わらず僕の顎は鈍っていたし、噛む感触が麻

酔を打たれたときのようにただぼんやりとしていた。

 さて、困ったことに僕の目の前には爽香がいる。いまのよ

うな僕の姿を彼女は今まで何度か見てきたわけだから、当然、

僕にいま何が起こっているのかは手に取るようにわかるはず

だ。僕はそれをどうごまかそうかと考えてみたが、爽香の手

が僕の頬に触れたものだから、僕はもうそれをすっかりあき

らめた。その代わりに、この事態を笑いにもっていけないも

のだろうかとあれこれ考えた。

 「……爽香、逆」

 僕は少し笑みをつくってそう言った。彼女は一瞬目を見開

くと、冷凍庫へ走った。それから、保冷剤をタオルでくるむ

と、それを僕の鈍った頬にあててくれた。

 彼女は静かに、誰、と聞くものだから、僕は冗談混じりに

彩香のお父さんに激励されたんだよ、と笑った。でも、これ

はどうも面白くなかったらしい。彼女は電話機の方へ走り寄っ

た。僕はすかさず彼女の細腕をつかんで、自分の方へ引き寄

せた。彼女の首に手を回して、彼女の顔を僕の胸に押し当て

た。

 「こんなの痛くねぇよ。おまえが怒るほどじゃない」

 僕はそう言い聞かせたけど、彼女はなかなか泣きやんでは

くれなかった。

 

 このことで彩香をなだめるのにもずいぶんと苦労した。彼

女は沈黙ごとに主人を罵ったが、その陰で僕の許しを探す彼

女の姿が揺れるのを僕は見ていた。僕はその優しい灯火が見

られて、むしろ、嬉しかった。それだからというわけでもな

いが、僕は主人を決して恨んでいないことを何度も彼女に告

げた。それだけでは足りないと思ったので、僕は僕がそうし

たように、きっと、主人も挨拶の仕方を間違えたのだと冗談

をとばした。僕は彼女にバカかと言われてしまったが、その

声の調子から、これを喜んでくれているように感じた。

 僕は電話を切るタイミングを計りかねていた。もう町も静

まり返るころだ。彼女はもはや沈黙を埋めようとしなくなっ

たが、それは通話の終了を意味しているものでないように僕

には思われた。受話器から聞こえてくる彼女の静かな吐息が、

僕に何かを求めているように感じたからだ。

 僕はあれこれその何かを捜し求めていると、やがて、それ

は主人の言葉に行き着いた。僕が別れる気はないことをそっ

とその沈黙に浸すと、焦げ付いた彼女の声も涼しそうに和ん

でいった。僕は最後に、責任はちゃんと取るよ、と言って、

電話を切った。

 彼女は何のことかまるで分からなかったであろうが、それ

もそうだ。これは僕自身に対しての合図だったのだ。

 次の日から、僕らは人目を忍ぶようになった。僕がそうす

るように彩香にお願いしたのだ。彼女は不本意そうだったが、

一時的に、という僕の言葉にようやく首を縦にふってくれた。

だから、僕らはもう一緒に帰りはしなかったが、その代わ

りに、東館の校舎裏で密会するようになっていた。

 僕はその密会で、彩香が今週の土曜日に練習試合で遠征す

ることを知った。そこで、僕はようやく待ちかねていた日を

しっかりと見据えることができた。

 土曜日になった。僕は彩香が出かけるのを見計らって、彼

女の家へ行った。主人がいるかどうかは賭だった。話を聞い

てもらえるかどうかも賭だった。

 門の前でインターフォンを鳴らした。夫人の戸惑う声が聞

こえた。僕はかまわず、主人はいらっしゃるか、と尋ねた。

長い沈黙の後に、門が開いた。門を通ると、さっそく守衛

さんが僕の肩を叩きにやってきてくれた。

 ――やぁ、やぁ、君の頬がすっかり芝になじんじまって、

僕は水をやりに行かなきゃならないかと心配したよ。

 そんな声が聞こえたと思う。僕は一人僕を迎え入れてくれ

た彼と抱擁した。僕がスパイなら、きっと君は失職だぞ、と

彼の凛々しく立った耳に告げて笑ってあげると、僕は早々に

玄関の前へ向かった。

 玄関の施錠が解除される。僕はその音を聞いて、こちらの

方ではそれに反して、精神が施錠されていくのを感じた。

家の中に通されると、そこに主人の姿は見あたらなかった。

主人は部屋にいるので、そちらに向かうようにとのことだっ

た。これには少々、計画がずれてしまった。直接、主人に手

渡すつもりだったはずの菓子折りを夫人に手渡さなければな

らなくなってしまったから。

 いま夫人が受け取った菓子折りは決して礼節に満たされて

いるわけではない。そこに詰まっているのはむしろ、主人に

対する僕の欺瞞だった。

 それを夫人に開けられてしまっては、僕のそのびっくり箱

が逆に夫人の顔に腰をぬかしてしまうだろう。

 案内される長い道のりのなかで、僕は先ほど手渡したびっ

くり箱について考えていた。要は、これは主人に渡す置き土

産だったわけだが、どうして、そんなものを用意してしまっ

たのかが気になっていた。

 なるほど、僕は主人にとにかく会うことだけを頼りにいま

ここに来ているはずだったが、それに付随して発生するであ

ろう自らの腐臭をも、僕はちゃんと嗅いでいたわけだ。主人

に抗うどんな術をも僕は持っているはずだったが、それは見

えないものを見えるというのと同じであって、つまることろ、

僕は主人に抗うどんな術をも持っていなかった。

 このただの空虚な虚栄心だけで僕はいまここに立っている。

なんて愚かな行為なんだろう。でも、それでもここに来なけ

れば、僕の人格はどのみち暁闇に心臓をえぐられて、忸怩に

それを潰されてしまうだけだ。

 戦って、せめて一矢報いてあの青空を眺めたいと思った。

その一矢報いる方法がその置き土産だったのだ。

 主人は僕を簡単に打ち負かすだろう。でも、今回は主人が

僕の死体に花を添えることはない。義理を立てる相手がそこ

にいないのだから。徹底的に指弾の限りを尽くして、すっか

り突っ伏した僕の背中、もしくはお腹にもさらに指弾を浴び

せることだろう。

 しまいには、そのやっかいな無尽蔵の弾薬の上に腰掛けて、

僕がよこした礼節を手に高らかに笑うかもしれない。でも、

僕はそれを狙っていたんだ。主人が僕の礼節を手にして、さぁ、

僕の死体のまえでそれを美味しくいただいてやろうとしたと

きに、その礼節が実は自分に向かっていないものだと主人は

知るはずだ。

 僕が買ってよこしたものは主人の娘の大好物なのだから。

要は、僕は主人に跪いたとみせかけて、本当に跪いている相

手は彼女だけだということをそこに示したかったのだ。

 主人は憤慨して僕の死体を空に蹴りあげるだろう。そして、

それがどこかの世界に放り投げられるのなら、それこそ、本

望だと、このときの僕は卑怯にもそう考えていた。

 主人の部屋の前に着いた。目前に聳え立つ大きな扉はまる

で僕の罪状だった。扉を開けるときの軋む音が、僕に罪業を

受けよ、と語った。でも、困ったことに僕の気分は高揚して

いた。

 その声は僕に幻覚を見せた。先ほど見た扉が瞬きの刹那、

瞼のなかに想起され、そこから浮かび上がる様々な模様が

僕の一切の行為を映しだし、僕にその意味を問うた。

これは単なるサイケデリックだ。でも、僕はそれに付き合

うことにした。力の限り強く瞼を開け放って、その問いに答

えた。

 太陽を盗んだのがそれほど罪だと言うのなら、あなたはいっ

たいいつ眠るというんだ。

 主人は書斎の椅子に深く腰掛けていた。窓から差し込む光

に照らされて、それが、振り返った主人の姿に後光をみせて

いた。

 「そこに座りなさい」

 僕は促されたまま漆塗りの椅子まで歩いていって、主人が

目の前に来るのを待ってから座った。

 しばらく、沈黙が続いた。僕の方から是非、話すべきだと

思ったのだが、主人の威光に僕の精神はすっかり気を失って

いた。

 扉が開いた。夫人が紅茶を持ってきてくれたのだ。だが、

その後扉は開くことがなかった。夫人は扉付近でずっとこち

らの様子をうかがっているのだ。

 僕はまず罪状を読み上げてほしかった。僕の罪がいったい

いかなるものなのか。そして、その後で、それを何によって

裁くのかも是非、知りたかった。

 もし、それが万が一にも主人の自利によって行われるとい

うのなら、彼こそ永遠の夜を眺めるべきだと僕は思った。

 ところで、物事はあらぬ方向へ向いてしまった。登山をし

に行ったつもりが、いつのまにか僕は海のなかにいた。アイ

ゼンを持っていようがいまいが、ここでは何の意味もなかっ

た。

 「この前はいきなりぶったりしてすまなかったね。よく来

てくれた。私も君にいくつか会って聞いてみたいことがあっ

たんだが、もし、君がかまわないのなら、私から話してもい

いかね」

 僕は短く、えぇ。とだけ答えた。危うく、お願いしますと

言い出しそうだったので、僕は慌てて口をつぐんだのだ。

 「君は確か二人暮らしだったね? 君の家族のことを少々

知りたい。ご両親は何をなさっているんだい」

 この質問が僕を山から海へと放り出した。僕は僕自身の人

格について問われるものだとずっと考えていた。娘の手を握

るのに相応しい人格者であるかどうかをきっとここで試され

るはずだと思っていた。ところが、僕は海に背を向けた人間

であることをここで思い知ることになる。

 僕は僕の家族に他者が介入することを何よりも嫌っていた。

両親が働きに出ていることも、妹のことも決して誰にも触れ

られたくない話題であった。

 このことに関してはたとえ彩香であっても、その例外たり

えないほどだった。彼女が僕のことをどれほど思ったにせよ、

僕の両親を非難することは絶対に許さないだろうし、また、

賞賛するにしてもこれまたしかりだ。

 両親に何かものを言えるとしたらそれは僕と爽香だけの権

利で、僕と爽香の関係についてはもはや、誰も何一つものを

いう権利はないと、脊髄のように頑なに、それは僕の芯を貫

いていた。

 どうしようのないほど、閉じた愛情だった。

 さて、主人は僕の殻をいままさに開けようとしている。僕

は目を閉じてしばらく考えた。どうして、主人は僕ではなく

僕の周りを見ようとしているのか。

 あぁ、そうかと思った。この人は服装や趣味、交友関係、

家族構成から人格を炙り出そうとする、回りくどい人なんだ。

この前は僕の服装が異常だと思われたから、まずそれで突っ

ぱねたわけだ。では、よし、今度は家族構成をみてやれとい

うことなのだろう。

 僕はこれを侮辱と捉える傾向があった。今度は僕の家族を

異常とみなそうというのか。いったいどんな権利を手にして。

僕の家族を。

 僕は女々しい人間だった。そうはいっても、一縷の望みを

見ていた。僕はそっと殻を開けて、その隅々まで主人にみせ

ようとした。

 「父も母も医師です。僕がいま妹と二人で暮らしているの

は、両親がともに離島へ行ってしまったからです。そこに医

師はいませんので。両親は旅先で知ったその島の現状を変え

たかったそうです。僕が妹と二人で暮らし始めたのはちょう

ど中等部へあがる頃で、それからはずっと二人暮らしです。

妹とは血のつながりはありません。母は父の二人目の結婚相

手で、妹はその母の連れ子でした」

 芳烈の声が砲煙のようにあがっていくのを僕は脳裏でみて

いた。僕の手は震えていた。久しぶりに握りしめた拳が歓喜

に沸いているのか、それとも、たどり着けない目標に身体を

怒らせているのかはわからなかった。

 ただ、わかっていることにはその目標は間違っても、僕の

前にいる主人に対してではないということだ。それは、疑い

ようもなく自分自身に向かっているものだった。

 許せなかったのだ!いまの説明をした僕が。妹を本当の妹

ではないといった僕が。母さんを二人目の結婚相手といった

僕が。父親と母親が僕らをおいて、離島へ行ってしまったと

言った僕が。言葉はもうこれ以上紡げなかった。熱が膨張し

すぎてついに目頭が壊れた。そこに火柱があがって、僕の目

が焼け爛れていく。滴り落ちるマグマに、主人はすまないこ

とを聞いた、と言った。

 僕はその言葉に僕の芯までが破壊されるけたたましい音を

聞いた。荒れ狂う炎のなか、それでも僕の理性は手際よく僕

の口を意志で縫った。狂態を免れるためにはもうそれしかな

かった。いまそこが開いてしまったなら、僕はひとでなくな

る。本当にそう思った。

 でも、誰もが知っているとおり、糸はあんなにも熱に弱い。

たちまちそれは焦げ付いて、脆くも口内で散っていった。胆

汁に似た苦みが舌の上を広がっていく。

 「僕の背後にあるものが異常に見えるのなら、どうぞ、僕

をここから追い出してください。僕も二度と彼女の名前を呼

びません」

 これは家族を賭けた僕の挑戦状だった。貴方が僕の家族を

軽蔑し、それを異常とみるのなら、僕もあなたの家族を決し

てこの目に映さないだろう。僕はそう言いたかった。

 でも、こんなこどもじみた挑発は、始めから主人にとって

何の意味も持たないことぐらい重々承知しているつもりだっ

た。主人は始めから、彩香と僕の仲を違わせたかったのだか

ら。

 それなら、どうぞ、出ていってください、と言えば、その

後すぐに宴の準備に取り掛かれるではないか。

 ところが、驚いたことにそうはならなかった。さらに、驚

いたことにこの言葉に噛みついたのは、あろうことか、夫人

の方だった。

 「よくも、そんなことを……彩香のことを考えもしないで!」

僕は首が激しく揺れるほどに、その女性に引っ叩かれた。

 でも、この連鎖していく僕の驚倒はさらにその凄みを増して

ある一点に帰結していた。僕を抛射するはずだった先ほどの

宴は、実は僕をもっとも人間に還してくれるそれだったので

はないか。

 僕はいま渇望していた饗善を目の前にしている。僕のマグ

マは一気に冷やされて、それはちょうど心地よい暖かさとなっ

て僕の頬をそっとなでた。懐かしい感触だった。力を一度に

失った僕の身体は、その場に崩れ落ちた。

 夫人が心配して僕の肩をそっと揺すった。僕はそれには応

えずに、主人に向かって柔らかな風を送った。

 「恩田義一……あそこに飾ってある写真のひとは、恩田義

一ですよね?」

 主人の白眼視に色が灯った。

 「そうだが、どうして君があの方の名前を知っているのだ

ね?」

 「恩田愁……僕の旧姓は恩田なんです」

 「それじゃぁ…… 」

 「あの写真立てに映っている人は僕の父です」

 「じゃぁ、恩田さんが抱えているあの子は……」

 「えぇ、恐らく、赤ん坊の頃の僕です。隣の女性は僕の生

みの母親ですから」

 主人と夫人はまるで引き合う磁石のように顔を見合わせた。

僕はもう魂さえこの身から抜け出そうになっていた。この明

残る空に見ていたものは、結局、僕が守りたかったものを、

相変わらず、父親が守ってくれた事実だった。

 「……すみません、勝手にお邪魔しておいて大変恐縮です

が、その……帰らせて頂いてもよろしいですか」

 僕の思考はすっかり焼け切れていて、もう何をすることも

できなくなっていた。荒廃した土地の上で何を説かれても、

いまの僕はきっと何一つ聞き取れない。ただ、切実にあの頃

に帰りたいと願うだけだった。

 ご両親はご丁寧にも僕を送ろうとした。僕はそれを拒んだ。

父親が憎かった。戦場に立ちもしないで、勝手に終戦を告げ

た。この人の支持者の手を借りたくない。僕の虚栄心は擦り

切れた思考のなかを彷徨っていた。だから、僕は最後に吠え

た。

 「お願いがあります。今度会うときは、きっと、僕だけを

見てください。もし、それが叶わないというのなら、僕はも

う二度とここへは来られません」

 僕は挑戦状をそっと嘆願書に差し替えた。ふらつく足取り

をポチが叱責してくれた。

 ――あぁ、そうだ。僕はおまえのなかにきっと暴勇を見て

いたんだ。髪型だけ真似て、要は浮華だった。

 僕は最後まで走り続けられなかった。父に跪いて、砂をな

めた。いったい僕はあと何回この歯触りの悪い感触を味わえ

ば良いのだろう。

 ポチの悲しそうな声が、僕の傷ついた鬣をそっとなめてく

れた。


―――――――――――――――――――――――――――


 友達と別れて、私は門の前にいた。いつもより開くのに時

間がかかったので、ポチがもう門に飛びついていた。

 ようやく、それが開くとポチも柵と同時に右に連れて行か

れたので、私はそれを見てお腹を抱えて笑った。ポチのこの

間抜けな姿を見たのは久しぶりだった。

 ――わんわん!

 「おぉ~間抜けめぇ~ふふ、可愛い奴め。聞いてくれ!今

日、私何本決めたと思う!? スリーだ!」

 ――わふ!

 「一本じゃない、7本だ!どうだ!? 凄いだろう!!」

 ――わんわん!

 「ハハハ、愁にもメールしてやった。あのバカ、電話でな

いんだ……な? バカだろう?」

 ――わふぅん。

 ポチは少々不満そうだった。

 「よしよし、おまえも愁が好きだもんな、すまんすまん」

 私はポチの頭を撫でてやると、玄関に急いだ。

 「ただいま、母さん」

 「えぇ、お帰り。今日どうだった?」

 「あぁ、スリーが7本も入ったんだ!凄いだろ!?」

 「……えぇ、そうね。手を洗っていらっしゃい」

 「……あ、あぁ」

 なんか、変だ。母さん、あまり嬉しくなさそうだ。私はせっ

かくの気分を台無しにされて、冷蔵庫にでも楽しみをみつけ

ようとした。

 「……やぁ、彩香、おかえり」

 リビングには会いたくない奴がいた。親父とはあの日以来、

一度も口をきいていない。当たり前だ。私の愁を殴ったのだ

から。

 「……彩香、この前のことは父さんが悪かった。すまない」

 私は思わず手にした紙パックを落としそうになった。親父

の奴も変だ。私があの日あれほどさんざん謝れといっても首

を縦に振らせなかったのに、そんな親父がいま自分から謝っ

ている。

 「な、なんなのだ、急に……だいたい、そういうのは愁に

言うことだろ? 私に言われたって、そんなの知らない」

 「……そうだな。じゃぁ、今度もう一度家に呼んできてく

れないか?」

 コップの下に水たまりができた。

 「な、絶対に嫌だ!親父どうせまた殴る気だろ?」

 「そんなことはしない」

 「そんなの信じられるものか!」

 「彩香……」

 いつのまにか母さんがやってきていた。首を横に振ってい

る。そんなこと言うものじゃありません、とでも言いたいの

だろう。いつもは私の肩しか持たないはずなのに……母さん

もやっぱり変だ。

 「……わかった。でも、約束だからな? 破ったら、もう

帰らない」

 「あぁ、約束しよう」

 私はコップに口をつけると表面をすすった。

 「彩香、父さんの部屋にきなさい」

 「なんなのだ? さっきから。説教でもする気か?」

 「貴方……」

 母さんは親父をじっと見据えた。

 「……彩香? 母さんに後でついて行きなさい」

 紅茶の味が台無しだ。さっきから、母さんのことが気になっ

てしょうがない。

 それからしばらくして、母さんが廊下にきえていったので、

私もそれに続いた。何があったのか尋ねてみても、母さんは

少しも答えてはくれなかった。

 「入りなさい」

 「親父の部屋じゃないか? なんだ、親父の話なら聞く気

はないぞ?」

 母さんは私の髪を撫でると、かまわず、室内の棚まで私の

手を引っ張って行った。

 「彩香? この写真立てに映っている人を、貴方、知って

いるわよね?」

 「あぁ、親父の恩師だろ? 私の赤ん坊のときの写真にも

映っていたな」

 「驚かないでちょうだいね。この方は、愁くんのお父さん

だったの」

 出来の悪い冗談だと思った。こんなの全然、笑えない。

 「今日、愁くんが家にやってきて、お父さんとここで話し

たの」

 「っ!?嘘だ!? 愁はそんなこと一言も言ってなかった

ぞ?」

 「彩香に心配かけたくなかったんでしょうね。もしかした

ら、また叩かれるだろうって思っていたのかもしれないわ」

 「そんなこと私がさせるもんか」

 「ごめんね、彩香」

 母さんはそう言うと、顔を伏せた。

 「お母さんね……今日、愁くんのこと叩いちゃったの」

 「っ……どうしてだ!? 母さんがそんなことするはずな

いだろ!?」

 「ごめんなさい」

 今度は私に頭を下げた。こんなこと今の一度だってなかっ

た。

 「よしてくれ!母さん!? もうなんなのだ、わけがわか

らない。ちゃんと一から説明してくれ!」

 私は愁が座っていたという席に腰かけて、母さんから話を

聞いた。親父が愁に聞いたこと、愁が語ったこと、母さんが

あいつをぶった理由、それから、写真立ての話。

 あいついったいなにをやっているんだ。ひとりだけ好き勝

手しやがって……。

 私は最低だ。そんななか、スリーがどうのと浮かれていた

のか。

 「母さん……親父はそれでどうしたのだ? 恩師の息子だ

からって、まさかそれで許したわけじゃないのだろう?」

 「えぇ、許すとは言っていないわ。ただ……愁くんがね、

今度は僕を見てほしいって言ったの。たぶん、もうお父さん、

口を挟まないと思うわよ? もちろん、お母さんもだけどね。

でも……お父さんにはまだね、ひとつ嫌な予感があるの。きっ

と、今度はそれを確かめたいんだと思うわ。だから、さっき

お父さん、彩香に連れてきて欲しいってお願いしたのよ」

 「……謝る、からじゃなかったのか?」

 「それなら、あの子が部屋に入ってすぐに謝っていたわよ?

部屋の外からでもちゃんと聞こえたわ」

 「そうだったのか。……なぁ、その嫌な予感ってのはなん

なのだ?」

 「それは今度はっきりとわかるわ。貴女も一緒にここでそ

の話を聞くの。彩香にも関係のあることなんだから。いい?」

 「当たり前だろ? 今日だって、本当は関係あったのだ」

 「……えぇ、そうね。あ、それから、これ愁くんからよ?」

 母さんはそう言うと私に紙袋を手渡した。

 「なんだ、この包みは?」

 「ふふ、私たちに向けたご挨拶かと思ったら、愁くん、彩

香にしか挨拶したくなかったみたいね。ちょっと傷ついちゃっ

たな、お母さん」

 母さんは本当にちょっと悲しそうだった。

 「……開けていいのか?」

 「えぇ、もう箱は開いてるわ」

 そうか、あいつ家に手土産なんか持ってきたのか。律儀な

奴め。母さんが部屋から出ていくのを待って、私は包みを開

けた。その中には私の大好きなホール状のプリンケーキがひ

とつ、ふんぞり返って入っていた。


―――――――――――――――――――――――――――


 僕は自宅に戻ってからひとりガレージに向かった。そこに

は父親が残していった車がある。もう購入してからずいぶん

と経つ年代ものだった。

 僕はその車が大好きだった。ドアを開けて、中に入り込む

のはちょっとした苦労が必要だった。身体をすっかり入れお

えて扉を閉めると、重苦しい音が響いた。まるで、金庫にで

も入ったかのような感じだった。

 耳鳴りでも聞こえてきそうな静けさに僕は包まれていた。

車内に入ってしばらくすると、僕の網膜には迷霧が広がって

いた。立ちこめる霧のなかをいつのまにか僕は彷徨っていた。

 何かの力が僕の背後に働いて、僕はまるで船であるかのよ

うにその世界で流されている。いや、違う。恐らく、僕は艤

装せずに海に身を投げた汽船だ。空に化けたこの霧も、なん

のことはない、僕が自ら出している蒸気だ。どこへたどり着

くとも知らないこの航海に、途中、僕は音のない雷を何度か

見た。その光に照らされて、浮標のような言葉が無数に見え

た。

 ふいに、僕はそのどれかに沿って行けばこの迷夢を抜けら

れるかもしれないと考えた。けれど、それらは散在していて、

かつ、僕にはどれが至言であるのかわからなかったので、ま

ず、どの方向を向いていいものやら判断しかねた。しかも、

その頼りの言葉は音のない雷によって、浮揚と消失を絶えず

繰り返していたから、その間にかかる霧は相変わらず僕の指

針をぐらつかせていた。

 その長い航海のあと、僕は黄金郷を見かけたところで、霧

から抜け出した氷山にぶつかり、そのまま渦にのまれて沈ん

でいった。

 ここへ来て、どれほどの時間が経ったのだろうか。僕はふ

いに噎せ返って飛び起きた。危うくクラクションを鳴らすと

ころだった。

 僕はハンドルにしがみついて、呼吸を整えた。妙に肌寒い。

震える身体を摩って、僕は家に戻った。

 日付がもうとっくに変わっていた。

 僕は身体を温めたかったのと、力が身体にあまり入らなかっ

たのも相まって、爽香が残してくれたご飯をつついた。その後、

嫌な汗を風呂で洗い流して、ソファーに座った。

 テレビをつけると砂嵐が舞っていた。僕はそこから彩香が

出てきてくれないかと思った。でも、それはすぐに怖ろしく

なったので、テレビを消すとリモコンを放った。

 機械的な針の振動音が胸に響く。どうせなら、彩香の胸に

耳を押し当てて、彼女の鼓動を聞いてみたいと願った。

 僕のケータイには彼女からの苦情メールが数通と、お叱り

の留守番電話が一件入っていた。謝罪のメールを返そうと思っ

たのだが、僕はなにを考えたのか、最後にいま考えたことを

少しボカして付け足してから送った。時間帯も時間帯だ。な

に、学校で会っても、なに寝ぼけてるんだとからかわれるだ

けだろう。

 数分後、僕のケータイは踊りだした。

 僕は主人の次の休日を待って、自宅へ訪問した。ここへ来

るときにはあの最初の一度の訪問で万事解決すると思ってい

た。ところで、僕はこれが3度目の訪問だった。どうやら、

クリスマスまでには帰れそうもない。僕を覆っていたものは

もはや緊張感ではなく、疲弊感だった。

 今日、僕が通されたのは玄関に向かって左手の奥にある客

間だった。僕はその空間の広さに思わず目の前を失った。今

日は陪審員でもやってくるのだろうか。

 主人はポチのように脚の短くて胴長の机から立ち上がると、

僕をそこへ招いた。主人はさっそく僕に座るように促したの

で、席についた。

 その椅子の腰掛けの丈は大変に長くて、僕の座高をも臆す

ることなく抱え込もうとした。とはいえ、主人の手前、それ

に甘えるわけにもいかないので、僕は椅子の座面を半分くら

い遊ばせた。この姿勢が僕の疲弊感をさらにくすぐった。

ただ、これは、なにも肉体的なことばかりではなかった。

第一に、夫人が座っていないのだ。前回のように、僕から少

し離れたところで立っている。机の隅からこちらの様子をう

かがっていた。

 僕は頭に甲高い痛みを覚えた。夫人が座っていないのに、

当たり前のように座っている僕が嫌だった。椅子の座面はま

るで針山だ。

 第二に、彩香があろうことか、僕のすぐ隣に座った。それ

はそれで大変に嬉しいことなのだが、とはいえ、まだこの状

況では彩香は主人の隣にこそ座るべきではないだろうか。

 僕はすっかり困惑して下を向いてしまった。主人はそれを

間違って解釈したのか、僕に緊張しなくてもよろしいと言っ

た。

 でも、何度も言うが、このときの僕を覆っていたものは緊

張感ではなくて疲弊感だった。僕は何とか気を奮い立たせて、

主人の目をずっと見続けた。彼は何かを言い出そうとしては、

それをお腹の中に返していた。喉元がせわしなく動いている。

僕はこのとき初めて主人が何かに対して緊張しているという

ことがわかった。

 今度は僕がそれを解くべきだろうか。でも、それが何かも

わからないし、そもそも、この状況下で僕が発せられる言葉

がみつからなかった。

 夫人が紅茶を持ってきてくれた。場所こそ違えど、前回と

同じ状況だ。僕は少し安堵した。少なくとも、この紅茶に沈

黙の理由を与えられるし、前回と同じ状況なら、その先にきっ

と主人の言葉が続くであろうから。ただ、困ったことに、今

回の紅茶は僕の気を煩わせた。僕は紅茶に入れるものは角砂

糖だとか、ミルクぐらいしかしらない。だからこそ、カップ

付近に置かれた瓶に僕は目を丸くした。僕は卑怯にも先にそ

れを彩香によこして、彼女の動作を観察した。瓶に入ったも

のは、恐らく、ゼリー状にしてある紅茶だった。それを紅茶

のなかで溶かして飲むものだ。

 こどものころ、父親がフランスの土産で買ってきてくれて、

一度その飲み方まで教えてくれたのだが、僕はまるでそれを

聞いていなかった。まさか、それがこの大事な場面に出てく

るとは、なんとも意地の悪い話だ。

 彩香がすっかり下準備をおえて瓶をよこしてくれると、僕

はそれを見よう見真似で行った。

 でも、なかなかゼリーが溶けてくれなくて僕はいつ飲んで

いいのやらわからなかった。紅茶のなかに潜むゼリーを僕は

スプーンでつついた。

 そのとき、主人が咳払いをしたので、僕はスプーンをおい

て主人を見た。主人は思い詰めたように一度目を瞑ると、そ

のまま、僕に語り始めた。それは、何かの悟りを開いたかの

ようだった。

 「もし、気分が悪くなるようだったら、なにも言わずに帰っ

てもらってもかまわない。いいね?」

 気分ならすでに悪かった。意識の裾を指二本でなんとかつ

かまえている状態だった。とはいえ、まさかここで帰るわけ

にもいかなかったので、僕はまたあのときのように短く、えぇ、

とだけ答えた。

 「……君の首にある傷跡のことなんだが」

 僕はそこまで聞くと、顔を机に打ちつけそうになった。疲

弊感が僕の身体の自由をほとんど奪っていた。

 首にできた痣の理由など、誰にも話したくはない。そもそ

も、そういったことを聞く人の気がしれなかった。痛みを蘇

らせて、何をしようというのか。

 立ったままの夫人と針山のような椅子、すぐ隣にいる彩香

と溶けないままでいるゼリー状の紅茶……それに、さらに続

いたのは話したくもない傷跡だ。僕はもう、眩暈の処理に手

が追いつかなくなっていた。

 「話してくれないかね?」

 ふいに僕の視界の左端に彩香が映った。こちらを見ている

ようだった。僕はその動作を横目に、あまり話したくはなかっ

たのだが、話す必要があると思った。ただ、すべてを話せる

気力がなかったので、昔、川に流されたことがあって、その

ときにできたんです、と言うにとどめた。

 主人は僕の言葉を嚙み締めるかのように目を瞑って、少し

黙った。僕は主人の言葉を待った。

 「……君は永想山に行っ」

 主人がそう言いかけたところで、彩香が主人の言葉を待た

ずして机を叩いて立ち上がった。

 僕はその音か、それとも、永想山というバチのどちらに心

臓を打たれたのかわからなかった。

 「いいかげんにしろ、親父!何が言いたいのだ!?」

 彩香の怒声に僕の左耳が少し痙攣を起こした。だが、どう

も変だ。前のめりになっている彩香の表情は怒っているとい

うよりかはむしろ、悲しみに映っているかのように僕には見

えた。彼女の目尻にたまった感情がそのように見せたのかも

しれない。

 ともかく、僕は彼女を落ち着かせたいと思った。だが、あ

ろうことか、神経質な理性がそれを行動に移させなかった。

普段のように名前は呼べないし、まして、彼女の身体をいま

掴むわけにもいかない。この状況下で理性が働いていること

が僕は少し恨めしかった。

 僕はすがるように夫人を見た。しかしながら、彼女は僕と

視線を合わせてはくれなかった。

 「座りなさい」

 主人は諭すように彩香をなだめた。彩香は直立の姿勢には

なったが、決して座ろうとはしなかった。きっと、譲れない

ものがあるのだろう。僕は僕のちょうど真横に彩香の腕がき

ているのを見て、決心をした。彩香の手首をつかもうと思っ

た。主人が言っても効き目はない、でも、もしかしたら、僕

の言うことは聞いてくれるかもしれない。この傲慢さがさら

に僕を苦しめた。彩香は僕のつかもうとした手を思い切り払

いのけたのだ。僕は唖然として彼女の顔を見上げた。その表

情は今度こそ、怒りに満ち満ちていた。

 僕は何も言えなかった。彩香も何も言わなかった。ただ、バ

ツが悪そうに彩香はそっぽを向いた。

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