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白刃の女神  作者: 大吉
21/39

第四部 決戦前夜 後編 第四部完

 部屋にドレッサーを買った。爽香の言う綺麗めな服はまだ

ない。ワンピースが一枚、かけてあるだけだ。もっとも、ハ

ンガーの数だけなら爽香にも負けはしないだろう。今に見て

いろ。全部のハンガーに服を着せてやって、それを爽香に見

せてやる。

 学校へ行く準備をしながら、そんなことを考えていた。

 明日は待ちに待ったデートだ。これで何度、ドレッサーの

なかを確認したかわからない。愁の奴、本当は好きだったの

か。そう思うと、かけてあるワンピースがとても誇らしく思

えた。明日は頼むぞ。

 「彩香? みんな来てるわよ? 早くきなさい」

 部屋でくつろいでいると、母さんがノックを無視して扉を

開けた。親父なら、蹴飛ばしていたことだろう。

 「あぁ、わかってる」

 私は慌ててドレッサーを閉めると、母さんを押しのけて玄

関に向かった。

 「彩香? 明日、楽しみね。気をつけていってらっしゃい」

 「あ……あぁ、行ってくる」

 なんだか、そんなことを母さんに言われると妙にこしょば

ゆい感じがした。

 ……気をつけていってらっしゃい、か。そんなの挨拶と同

じだって言ってた奴がいたな。確かに真に受ける奴なんて、

本当にいるのか?でも、普段聞いているその挨拶とやらは、

意外に大事なことなんだと暗闇のなかで、そう思った。

 「……はい。タオル冷やしてきたよ?」

 「おぅ、ありがとな? 首にあててやってくれるか」

 私はきっと、いま保健室にいるのだろう。窓からいい風が

入ってきてはいるが、保健室特有の匂いまでは運び出せない。

 「うん。まだ、気づかないんだ?」

 首にひんやりとした感触とともに、爽香の声が近づいてき

た。ここで目を開けても良かったのだが、なんとなくそれは

やめた。良い機会だ。良い趣味とは言えないが、爽香が好き

勝手言ってるところを聞いてやろう。

 「あぁ、寝てるみたいだけど。脈拍も落ち着いてるし(こ

こで愁のバカ、無遠慮に私の腕をつかみやがった)とりあえ

ずは、一安心かな?」

 「そう。あ、お母さん、すぐに来て下さるって」

 「おぅ、サンキューな。保険医はまだ電話?」

 「んー、なんか話し込んでた」

 「そっか、仲いいんかな?」

 「そうみたい……ふふっ」

 「どうした?」

 爽香の奴がふいに笑い出した。

 「国嶋さんて、寝顔可愛いんだね?」

 おい、よせ。寝てる演技がバレてしまうじゃないか。

 「あぁ、なんかこうしてるとお人形さんみたいだ」

 ……バカにしてるのか、こいつは。

 「ふふ、そうね(ここで一つ、大きなため息をつきやがっ

た)。もぉ、兄さん??」

 「ん?」

 「国嶋さん、線細いんだから……てか、ひ弱なんだから、

あんまり無茶しないようにいってあげなきゃダメよ?」

 「……そうだな、すまん」

 認めるのか、愁!?もう、我慢ならない。でも、飛び起

きてひっぱたいてやろうかと思ったところで、愁の奴が意

外なことを口にした。

 「……でも、良かった。今度はちゃんと運べた」

 今度は、って……なんなのだ。

 「爽香……本当にありがとう」

 「もう、いいし。そもそも、あれは兄さんが帰った後に

倒れちゃったんだから、どうしようもないでしょ?」

 「いや、酷いこと言った後だったしさ。それがなかっ」

 「もぉ。そんなことで脱水症状が起きるんだったら、私

毎日倒れてるし。涙なみだの毎日なの~」

 「爽香ぁ……」

 「ふふ、冗談よ? でも、言わないでよ? そのこと、

国嶋さんに口止めされてるんだから」

 「あぁ、わかってる。すまん」

 「どぅわーから、そんな言葉意味ないの。これからちゃ

んと、大事にしてあげて?」

 「あぁ、そうする」

 ……爽香の奴、私が愁と喧嘩した後に倒れたこと話して

やがったのか。最近、妙に私の体調を気にするかと思った

ら、やっぱり。

 「爽香、おまえ、時間は?」

 「え? あぁ、まだいいの」

 「そか……、ありがとな? おれ、ちょっと出るわ」

 「ちゃんと飲み物持ってきなよ~?」

 「おぅ、わかってる。おまえも気をつけろな」

 「はぁ~い」

 扉が開くと、廊下をかけていく音が聞こえた。廊下を走

るな、バカ愁。のっぽがこけたら痛いではないか。

 「ふぅ、そだ、うちわしてあげないと」

 ――リリン。

 どこからともなく風鈴の音が聞こえてきた。たぶん、い

まこの部屋で爽香と二人きりなのだろう。静かすぎて、小

さな音までよく聞こえる。

 ――ファサファサファサ。

 今度は何の音だ。そうだ、これはうちわだ。窓からの風だ

けでも十分だろうに、爽香はそれでもずっとうちわを仰いで

くれていた。なぜだか、もう、演技をしていられなくなった。

 「……おまえ、本当に爽香なのか?」

 目を開けると久しぶりに瞼を開けたからなのか、爽香が少

し揺らいで見えた。

 「なんだ、起きてたんだ? それなら、聞いていたかもし

れないけど、お母さんもうすぐ来て下さるそうだから」

 ふいに声をかけても、動じない。爽香らしいな。

 「……愁はどこへ行ったのだ?」

 「さぁ~ね、たぶん公園の自販機だと思うけど。果たして、

お母さんがここに来る前に戻ってこられるでしょうか?」

 冷や汗の出ることを、平気で言いやがった。

 「っ!? どうして、止めてくれなかったのだ!? それ

じゃ、あいつが……」

 「自分で言えばいいじゃない? 起きてるんだったら。盗

み聞きとか趣味が悪いの」

 「それは……」

 「なによ?」

 「おまえらが人のこと、人形扱いするから……」

 「ふふ、それも聞いてたんだ。もう、大丈夫なの?」

 「……あぁ、ずいぶん楽になった。どれくらいたったのだ?」

 「30分くらい……かな? じゃ、そろそろ、私もいくか

ら。先生もすぐ戻ってくると思うけど、何かあったら、呼ん

でね?」

 そう言って、爽香は扉に向かった。

 ……呆れた奴だ。それじゃ、もうとっくに授業が始まって

いるではないか。

 「爽香?」

 「ん? なに?」

 こんなところ、母さんに見られたら、きっと叱られてしま

うな。人のことを呼んでおいて、私は背を向けるように寝返

りをうった。

 「……ありがとう」

 「別にいいし。国嶋さんが元気ないと、兄さんしょげるか

ら。それだけよ? じゃ」

 爽香はそう言って、廊下へ消えていった。

 それから、私はずっと門の方を睨んでいた。愁の奴が気が

かりだ。電話してやってもいいのだが、あのバカのことだ、

自転車に乗りながらでも出そうだ。それで事故に遭っては困

る。

 私は先ほどの爽香みたいに大きなため息をつくと、今度は

天井を見上げた。心臓がいくつあっても足りやしない。

 「……あれ、起きてたんだ?」

 ふいに、思いも寄らぬ方から声が飛んできた。さっきまで

睨んでいた窓の方からだ。東門から入ってきたのか。

 「いま……起きた」

 「そうか、大丈夫か?」

 「……あぁ。おまえ、学校抜け出して、どこに行っていた

のだ?」

 「あぁ、コレコレ」

 愁はそう言って、スポーツドリンクを見せた。購買じゃ売っ

ていない、私の好きなやつだ。

 「すぐそっち行くよ」

 愁は笑っていたけど、汗まみれで完全に息が上がってい

た。今日は久しぶりの炎天下だったのだ。

 「これ、ここに置いておくな?」

 愁は保健室に入ってくると、ベッド脇にペットボトルを2

本置いて足早に出て行こうとした。恐らく、母さんと居合わ

せてはまずいと思っているのだろう。でも、そうはさせない。

 「愁、おまえ、こっちこい」

 「え? あ、おぅ」

 やはり何かをしきりに気にしながらも、渋々、愁はベッド

まで近づいてきた。

 私は愁がくれたペットボトルを2本手にとると、愁を睨ん

だ。

 「こんなことされても、少しも嬉しくない。おまえに何か

あったら、どうするのだ? 公園だってそんなに近くはない

のだぞ。とばしただろ?」

 「え……あ、いや」

 本当は嬉しいのだ。たいそうなプレゼントをもらうより、

今日のこの2本の方がきっと嬉しい。でも、その2本のため

に愁が傷つくのはごめんだ。そのときは、たかが2本だ。たっ

たの、だ。

 愁は私の顔を見て、意外にも素直に謝ってくれた。私は咎

めるのが嫌になって、顔を伏せた。その代わり、愁が出て行

かないようにシャツをつかんだ。

 「……心配しただろ」

 「ごめん、……おれも心配したくない」

 そんなことを言って、愁は私を抱き寄せた。

 「……すまない」

 「いいよ? でも、暑い日は外であんまはしゃがんように

ね?」愁はそう言って、今度は髪まで撫でやがった。いった

い誰のせいではしゃいだと思っているんだ、コイツは。そん

な文句を溜め込んでいると、ふと、あることに気がついた。

そういえば、一度起き上がったとき、背中が汗で濡れていた

な。そうでなくとも、授業で体操着は汗まみれだ。もう、そ

う思うと、いてもたってもいられない。

 私は愁を突き飛ばした。それが、想像以上に力が入ったの

か、愁は床に倒れこんでしまった。あまりにも予想外で、私

は目を疑ってしまった。

 「なんだ、おまえ、腰でも抜かしたか?」

 さすがに、愁が怒るんじゃないかと思ったが、これも意外

にも愁は顔が崩れるほど笑い出した。

 「そりゃ、抜かすよ? 彩香に押しのけられたんだから。

……ハハ、ショックでさ?」

 笑顔で何を言ってるんだ、コイツは。

 「おまえ、早く戻れ」

 ブランケットを乱暴にかぶると、愁に背を向けて寝転がっ

た。

 「母さんが来るぞ?」

 「あぁ。それと……明日は延期な? また、今度にしよう」

 愁は帰り際にとんでもないことを言い残していった。

 「おまえ、何言ってるんだ!? 別にもうなんともない。

ちょっと、熱射病になっただけじゃないか。明日は元気だ」

 起き上がって猛抗議してやったが、やっぱりコイツは爽香

の兄貴だ。

 「心配させるなって言ったの、どなたさんだっけ? 彩香

の都合のつく時間に絶対合わせるから。な?」

 「おまえ……酷い奴だ」

 「最近、それよく言われちゃうな。そろそろ、愛想つかさ

れちまう……かもしれん?」

 「おまえ、ほんと、酷い奴だ……」

 今度こそ寝転がると愁を完全に無視した。わかっているく

せして、コイツは……。

 「愁?」

 「……ん?」

 でも、一つだけは訂正しておいてやろう。

 「突き飛ばして悪かったな。別に、おまえが嫌いなわけじゃ

ない。その……いまはな」

 「そっか、ありがと」

 愁は含み笑みを残して出て行った。

 それから母さんが来るまでも、自宅に戻ってからも、愁に

なんて抗議文を送りつけてやろうかとあれこれずっと考えた。

前日にドタキャンなんて絶対に許すもんか。


―――――――――――――――――――――――――――


 昨日とはうって変わって、今日はあまり気温が上がらなかっ

た。半袖では肌寒く、おまけに雨まで降り出す始末だ。おま

え、どうしたんだよ?雲でいっこうに姿を現さない太陽を見

上げて、僕は愚痴った。

 本当なら、今日はデートだった。個人的な話であれば、僕

は大雨であろうと、台風であろうと、猛暑であろうと、とに

かく、何であろうともデートに行きたい。でも、それだと、

隣にいる彩香が心配だ。僕は昨日のこともあって、彩香にデー

ト日の変更を願い出た。

 彩香にはそれについて、朝からずっと抗議されっぱなしだっ

た。行くと言ったら、聞かない子だから。

 僕はカーテンを閉めると、本を一つ持ち出してソファーに

寝転がった。そして、大急ぎで主人公が女性を連れ出すシー

ンを探し当てて、読み始めた。

 でも、困ったことにアクリー(10)に話しかけられてい

るみたいに、同じ文章を何度読み返しても、内容がまったく

頭に入ってこなかった。

 要は僕の内心も、外の天気よろしく、大荒れだった。なに

せ、初めてのデートだ。「明日に望みを託して」(11)と

言われたところでおいそれと引き下がれるものでもない。

 開いたままの本を顔にのせると、雨音が子守唄になった。

デートに誘ってからというもの、僕はあまり寝付けていなかっ

た。

 「こっちみ~て、こっちみ~て、に~いさん?」

 それからどれくらいたったのだろうか。近くからわけのわ

からない歌が聞こえてきた。

 「……2番。こっちみ~て、こっちみ~て、に~いさん?」

 続いて、頬を指先で押された。爽香の悪ふざけだ。

 「……3番。こっちみ~」

 「……参った。もう、わかったよ? てか、それどんな曲

だよ? 全然歌詞かわんねぇし」

 「ふふ、即興のこっちみて兄さんでした。振り向くと歌詞

が変わるのよ? 聞いてみる?」

 「いいっての。それより、どしたん?」

 僕は本をどけて起き上がると、時計を確認した。17時半

を回っていた。

 「あ、うん、なんかちょっと頭が痛くて」

 「熱は?」

 「それが、体温計が見当たらないの。兄さん、知ってる?」

 「さぁーな。先に暖気してっから、準備できたらこいよ?」

 「ん、ありがとう」

 ガレージを開けて、車の暖気をしていると僕は不謹慎にも

自分が喜んでいることに気がついた。外に出かける。気分を

晴らすには雨だろうと、そうした方がいいのかもしれない。

そもそも、僕の場合、雨の日こそ良いことが起こりそうだか

ら。

 「お待たせ~」

 ラジオをつけて、バカ話を聞いていると爽香が入ってきた。

 「はい、兄さんの診察券も持ってきてあげたよ?」

 爽香はそう言って、僕に診察券を手渡した。僕は意味もな

くその裏表を確かめた。

 「……おれ、どこも悪くねぇぞ?」

 「そう? 珍しくお家にいたから、お風邪でもひいたのか

と思って」

 彩香のデートを断っておきながら、出かけられるはずもな

い。それを知っていながら、爽香はそんなことを言った。

 「毎週、出かけるほど放浪癖じゃねぇよ。おまえこそ、彩

香のこと笑っときながら、しっかり風邪ひいてるじゃねぇか」

 負けじと僕も言い返した。

 「なによ~? 明日がデートなら、別にひいてないし」

 爽香のむくれる顔が可笑しかった。

 車を動かす前に、僕の頭の上に鞄の雨が振った。

 診察まではすんなりといったので、僕は雑誌を読む機会を

失ってしまった。

 「どうだった?」

 「ん、軽いお風邪? 喉がちょっと赤くなってたみたい。

吸入してもらったから、だいぶ楽になった」

 「そっか、よかったな?」

 雑誌を閉じると元の場所に戻して、会計を済ませた。外に

出るころにはもう、小雨になっていた。

 「薬局って、この後ろだったよな?」

 「そうそう。……って、毎回聞かないで」

 怪訝そうな顔をした爽香に、上着をかぶせた。爽香も身体

があまり強くない。時間割から体育を消してやりたいくらい

だ。

 「あ、ありがとう」

 「おぅ、ここ最近、夕方になると冷えるな? 昨日だけ夏

だったけど」

 「ね~、ちょっとまずいよね?」

 「あぁ、冷夏だなぁ」

 「……このまま零下になっちゃったりして?」

 「……さむっ」

 「なによぉ~?」

 爽香は鞄の角を僕のわき腹に押し当ててきた。

 「ハハ、痛いっての。それ、いろんな意味で笑えないし」

 「ふんっ。もぉ、いいのぉ~。冷菓買って?」

 爽香はすっかり意固地になっていた。

 「それ、アイスのことか?」

 「そうよ~? 良くお分かりじゃない」

 「やめとけ」

 「意地悪……」

 「おまえ、風邪だろ? 大人しくしてろ」

 「……あい」

 爽香は俯くと、小石を蹴飛ばした。

 「桜さん?」

 「あ、はい」

 当然、薬局も空いていたので、今度はテレビを見る機会を

失ってしまった。僕は爽香を座らせてその後ろに立つと、薬

の説明を一緒に受けた。でも、その説明を聞こうと思うのだ

が、用紙に書いてあるわけのわからない単語の方に興味がひ

かれて困る。たとえば、マオウ……。

 そうこうしているうちに、薬の説明が終わってしまった。

 「なんか、いるか?」

 「あ、うん。あののど飴が欲しい」

 僕はそののど飴を取ると、いっしょに会計を済ませた。

 「ふぅー、やっぱ、夏は人いねぇんだな? 冬もこうだと

嬉しいんだけどな」

 薬局を出て、来た道を戻ると僕はいくらか気分が上向いて

いた。病院にいる間というのは、どうも落ち着かない。

 「ふふ、そうね。冬のお医者さんはまるで遊園地みたい?」

 むくれていた爽香にも笑顔が戻っていた。

 「待ってても全然ウキウキしねぇな、それ」

 「そう? スリル満点のお注射はお嫌いですか?」

 なぜか、爽香は手を銃の形に変えて僕に尋ねてきた。

 「そんなアトラクション絶対行きたくねぇよ」

 「ふふ、よわむしぃ」

 「るせー」

 「あっ……」

 ふいに、爽香が立ち止まったので、僕は前のめりになった。

 「どうした?」

 「バイキュンマン(12)だ?」

 「誰がバイキュンマンやアホ!」

 僕が確認するよりも早く、隣から声が聞こえてきた。柊だ。

 ちょうど、病院から出てくるところだったらしい。

 「ふふ、だって、世界制服する気でしょ?」

 「横断や、横断。わざと間違えんといてや」

 「そんなの知らないの~」

 僕は爽香の袖を引っ張ると、反対の手で柊に謝った。

 「ええで、ええで。いつものことやで」

 「わりぃーな。てか、おまえも体調悪いんか?」

 「そうなんや、なんか最近ようわからへん天候やろ? そ

れでバテ気味なんや」

 「昨日、ようやく夏になったかと思ったのにな?」

 「ほんまにな。なんかどこぞの金持ちが町全体キンキンに

クーラーかけてるんやないか思うわ。自分も気ぃつけろや?」

 柊は僕が持っている薬袋を見て、そう言った。

 「あぁ、これ、爽香の」

 「なんや、まぁ、そらせやな。夏風邪なんてアホしかひか

へんからな」

 今度は爽香が僕の袖をつかんだ。

 「……兄さん、この人いじめてくる」

 「意地悪いこと言うからだろ? ほら、帰るぞ? じゃぁ

な、柊」

 「おぅ、ほななぁ」

 柊と別れて、車に向かうと爽香はまだ止まったままだった。

 「……ドバカ」

 鍵を開ける手が滑った。

 「誰がやで?」

 「ふふ、バ~イバ~イキューン(13)?」

 「なんやそら!」

 まったくもってのいつもの言い合いだった。お互い病人な

のに、休みはないらしい。

 爽香は別れの挨拶をすませると、足早にこちらに向かって

きた。

 「おい、爽香? 走るな。熱上がるぞ?」

 「いまので下がった」

 「ホントおまえ、ひんまがってんなぁ」

 助手席を開けると、早々に爽香を乗せた。

 「だって、あの人、兄さん殴ったし」

 「いつの話してるんだよ? ありゃ、おれも悪かったんだ、

そうだろ?」

 「兄さんは別に悪くないし。いつもそう思う」

 「じゃぁ、爽香が性格ひんまがってんのも?」

 「誰がよ? ……いじわる。曲がってないし。むしろ、真っ

すぐだし」

 「ハハ。じゃぁ、今度会ったら謝っとけよ?……な?」

 「覚えていたら、そうする……心構えでいたいです」

 「……なんなんだよ、その願望は」

 僕はドアを閉めると、運転席に向かった。

 雨はまだ止まないらしい。彩香は風邪をひいていないだろ

うか。車の跳ね上げる水音に、僕はなぜだか寂しくなった。

 雨が止んでしまったら、今度は僕が病みそうだ。

 「……さぶっ」

 爽香の何気ない言葉に僕は恥ずかしくなった。

 「なによ?」

 「いや……おまえの冷夏の話、結構笑えたなと思って」

 車を動かす前に、また僕の頭上では鞄の雨が降った。


―――――――――――――――――――――――――――


 「愁、顧問が呼んでんぞ?」

 久しぶりに昼休みを利用してバスケをしていると、真吾が

いらない伝言を届けにきた。

 「伝えたからな?」

 一緒にいた大吾が口笛で僕らを冷やかすと、彼らはどこか

へ行ってしまった。

 「……愁、おまえ、なにかしでかしたのか?」

 「いや、全然覚えないけど」

 「そうか、付き添ってやろうか?」

 僕の晴れない心情を察したのか、彩香はそんな冗談を口に

した。

 「ハハ、なんでだよ?」

 「知らなかったのか? 校舎内では、おまえの保護者のつ

もりだ」

 僕は床に落ちていたボールを拾って彩香に軽く放ると、し

ばらく、その冗談に乗ることにした。

 「そっか。実はおれもなんだ。だから……そうだな、今度

の身体測定、ずっと彩香のそばで見守ってようかなぁ」

 ――シュッ。

 彩香は一瞬押し黙ったかと思ったら、勢い良くボールを僕

に投げ返してきた。

 「おわっ!? あっぶな。いま、本気だったろ?」

 「ふんっ、それくらい取れないでどうする?」

 じんわりとした手に苦笑いを浮かべながら、僕はそのまま

シュートを放った。

 ――シュッ……スパッ。

 「相変わらず、上まで上がるな」

 「そりゃ~な。それで彩香に抜かれても困るし」

 「どうしてだ? 男のメンツか?」

 「からかうなよ? 一応、背が彩香より20cmもあんの

に負けたら笑えないだろ?」

 「20もないだろう!?……ふん、見ていろ。今度の身体

測定で5cmくらいまで縮めてやるからな。おまえ、驚いて、

5cmぐらい縮むといい」

 僕は笑って、ボールを取りに歩いた。

 「髪あげるなら、名古屋巻きがいいもしれんよ?」

 「うるさい! おまえなんか、さっさと怒られてこい!」

 背中越しの声が、体育館ではやけに大きく響いた。

 「りょーかい」

 僕はボールを拾うと、ワンバウンドさせて彩香に放った。

 職員室へはもう、ずいぶんと入っていない。部屋の配置も、

記憶の隅にさえもう残っていないだろう。

 「おやおや、もう来てくれたのですか?」

 ドアに手をかけたところで、横から顧問が声をかけてきた。

 「何か用ですか?」

 「えぇ、大事なお話ですから、どうぞ、中へ」

 有無を言わせずに顧問は職員室の中へと入っていった。仕

方なく、僕もそれに続いた。幼いとは思ったが、ここではマ

ナーを割愛した。ただ、顧問の前では礼に習うことにした。

 「どうぞ、お掛けください」

 恐らくはこの人の話し方のせいだろう。

 「失礼します」

 顧問はB5ほどの封筒を机の端に置くと、両手を握って僕

を見据えた。

 「実は姉妹校の橘さんから爽香さんに転入要望がきていま

す」

 「……橘から?」

 これは意外な内容だった。僕を呼び出したはずなのに、話

題の内容が爽香だ。それに、橘って……。

 「えぇ、そうです」

 「どうして?」

 「テニス部にぜひ、爽香さんが欲しいとのお申し出です。

こちらの封筒に学校案内が入っていますので、爽香さんに渡

して頂けませんか?」

 僕は手渡された封筒を横に退けた。

 「どうして、おれに?」

 「爽香さんに渡しても、彼女は恐らくそのままゴミ箱に入

れてしまうでしょうから。そうならないためにも、貴方から

手渡して頂きたいのです」

 僕は一度目を閉じて、静かにため息をついた。

 「アンタ、何考えてるんだよ?」

 顧問は一度目を見開いたかと思うと、妙に陰気くさい笑み

を浮かべた。

 「自由の心でどうかご判断頂きたいものですから」

 遠くでお湯が沸く音がした。そういえば、通されたこの一

室は給湯室になっていた。

 顧問はコーヒーを作ると、アイスにして僕に差し出した。

僕はそれを流し込むように一気に飲んだ。

 「あいつはおれに遠慮して自分のこと曲げるような奴じゃ

ないですよ? 封筒は直接、爽香に渡してください」

 僕は最後にコーヒーのお礼を言うと、部屋を後にした。

 ――ガララッ。

 職員室のドアを開けると、そこには目を丸くした爽香がい

た。

 「お、よぉ?」

 爽香は僕の顔を見たまま、何も言わなかった。

 「……なに、なんかついてるか?」

 もしかして、爽香はもう橘のオファーについて知っている

のだろうか。

 「……ダメよ? こんなとこで暴れちゃ」

 でも、どうやら、知らないようだった。

 「おまえなぁ、暴れるかよ」

 僕は爽香の頭に手をのせて、軽く揺らした。

 「ちょ、ちょっと」

 「……あぁ、そうだ。そこの奥にいる公園のひとがおまえ

に用があるってさ」

 「へ?」

 「話だけでも聞いてやったら?」

 「あ……うん」

 怪訝そうな爽香の肩を優しく叩くと、僕は廊下に出た。

 自宅に戻ってからというもの、僕は橘について調べていた。

楓にも電話しようと思ったのだが、苦い思い出がそれをさせ

なかった。

 ――それに、楓は寮じゃないんだよなぁ。

 モニターにため息を吐きかけて、そのまま机に突っ伏した。

昼休みから、爽香とは話していない。爽香はどうするのだろ

う。封筒を持って教室に入ってきた爽香を、僕はちゃんと見

れなかった。

 爽香がテニスを選んだきっかけは分からない。でも、雑誌

を買ったりテレビ観戦もしているくらいだから、それなりに

思い入れはあるのだろう。

頭にはラケットのテープを巻き替えている、爽香の姿が浮

かんだ。

 自由の心……か。いま僕がどうこう考えたって、意味はな

いか。爽香の意向を尊重しよう。

 僕はパソコンを落として、冷凍庫を探った。そこには、一

つ三百円近くするアイスが保管してあった。

 「ただいまぁ~」

 「おぅ、お帰り」

 リビングに入ってくる爽香も気にせずに、僕はひたらすら

冷凍庫を探っていた。先ほどまで悩んでいたのに、僕はどう

やら一つのことにしか集中ができないらしい。

 「なにしてるの? 窃盗犯?」

 「なんでだよ。ここに昨日アイス買って入れといたんだけ

ど、見当たらねぇんだ。爽香、知らねぇ?」

 「え?……あぁ、それね?えっと、……ねこにゃ~にゃ?」

 爽香はそう言ってわけのわからない動きをした。

 「なにやってんだ、おまえ。懐かしいけど、それ、てじな~

にゃ(14)だろ?……って、おまえ、まさか!?」

 冷凍庫に突っ込んだ手よりも、背筋が冷たくなった。

 「不思議なの。いつのまにか、冷凍庫から私のお口に消え

ていったの」

 「食ったんじゃねぇーか!」

 僕はたまらず、爽香の頬を両手でつまんだ。

 「いひゃっ!いひゃい!はひふんほほぉー!」

 「るせー!マジックなら元に戻せるだろ!出せ!」

 爽香も負けじと僕の腕を振りほどいた。

 「もぉ、ムチャ言わないで。マジシャンは種明かしとかし

ないの~。だから、ね? はい。ねこにゃ~にゃ?御代はい

らないの~」

 「おまえ!?」

 「なによ!? 普通、可愛いとか言って許してくれると思う

んだけど? 可愛くないんだ?」

 わけのわからないことを言い出して、爽香が反撃してきた。

こうなると、僕にはもう手がおえなかった。可笑しくなって、

つい笑ってしまう。

 「なんだよ、それ。わけわかんねぇ」

 「ふふ、ごめんね? 昨日、お風呂上りに食べちゃったの。

明日、買ってくる」

 「いいよ。それより、コーヒーでも飲むか?」

 僕は冷凍庫を閉じて、変わりに冷蔵庫を開けた。そこには

無糖のコーヒーがあった。

 「いい、お昼もコーヒー飲んだし」

 爽香の何気ない一言に、僕の手が止まった。

 「……そっか」

 グラスをひとつとって、コーヒーを注ぐ間、やけに周りが

静かになった。

 そうなんだ。いまみたいなバカなことも、爽香が出て行っ

てしまったら、もう、出来なくなるんだ。

 親がいなくたって、僕は十分幸せだったんだ。その思いを

流し込むように、僕はまた一気にコーヒーを飲み干した。

 ……とはいえ、僕はまだそれを受け入れる自信はなかった。

 振り返ると、爽香はソファーで何やら本を読んでいた。

僕は声をかけようかと思ったのだが、それはのど元につっ

かえて声にならなかった。

 結局、僕は自室に戻って寝転んだ。

 爽香がいない家……僕はいまのいままで、そんなこと考え

たことがなかった。


―――――――――――――――――――――――――――


 ずっと、不安なことがあったの。兄さんが国嶋さんと付き

合ってしまったら、私はきっと、どんどん一人になってしま

うんじゃないかって。

 兄さんと国嶋さんとの時間が増えていって、私はただ一人

ぽつんと取り残されていく。そのうち、兄さんの邪魔者に……。

ボールをお空に投げて、ラケットを振った。こんな焦燥感

なんて、いらないの。どこか遠くに放り出したかった。兄さ

んが幸せなら別に……。

 でも、今度だけはどんなに自分に言い聞かせたってダメ。

私の醜い気持ちがどんどん溢れてくるの。ずっと、二人で過

ごしてきたのに……それなのに、兄さんは私の肩を押すんだ。

「おい、爽香?」

 たったいま嫌な思いを打ち飛ばしてあげたのに、でも、そ

れはすぐに姿を変えて私のもとへと帰ってきた。

 テニスコートの外に国嶋さんが立っていた。

 「……これはこれは、迷子の迷子の子猫さん?」

 「誰がだ? 学校で迷うか、バカもの」

 「えぇっと、お家を聞いてもわからないんだっけ? 名前~

を……」

 「彩香だ!いったい、何度、自己紹介をさせたら気がすむ

のだ、おまえは」

 国嶋さんはそう言って、フェンスの網目を乱暴に握り締め

た。いまにも襲い掛かって気そう。でも、それがいいかも。

 「そんなの知らないの~。で、なによ? 何かご用?」

 「……あぁ、おおありだ。おまえ、バスケ部に来い」

 話半分にサーブの続きをしようとしていたら、ラケットを

落としてしまった。何を言われたのか、分からない。

 「いいだろ? おまえが入ってくれるなら、試合でもう少

しシュートを打てる機会が増えると思うんだ」

 「……や~よ、そんなの」

 私は落としてしまったラケットを拾うと、国嶋さんを見な

いで答えた。まったく……私がバスケ嫌いなこと一番良く知っ

てるくせして、どういうつもりなのかしら。

 「愁から聞いたぞ? お前、橘にスカウトされてるだろ?」

 なんでアナタが知っているのよ……。なによ、兄さん。そ

んなに私のこと……。

 「あいつはおまえが決めることだって言ってたけど、行っ

て欲しくないことぐらい顔に書いてある」

 私はまたラケットを落としてしまった。もう、握力がない

の。でも、そうだとしても、きっとこれはいい機会……国嶋

さんだって、本当は私がいること、嫌だろうから。

 「なぁ、おい、爽香?」

 この子もきっと、私と同じ。兄さんの顔が曇るの、嫌なん

だ。国嶋さんはいつのまにか無遠慮にコートに入ってきてい

た。みんなが来る前に帰してあげないと(他所の部活動生は

出入り厳禁なの)。

 「……ちょっと、いまから練習するんですけど?」

 「そんなの知らない。それより、職員室に行くぞ?」

 国嶋さんはいよいよ、私の目の前までやってきた。

 「……あきれた子ね、ホントに。玉入れ競争なんて運動会

で十分よ? お腹一杯なの」

 「おまえ、それ全然違うだろ!私が言ってるのはバスケだ!」

 「……そう? 私にはいっしょに見えるけど」

 「あっちはレクリエーションだろ? こどもの遊びと同じ

にするな!」

 なんだか、漫画のワンシーンみたい。

 「だいたい、テニスの方が下衆じゃないか」

 「……ちょっと!なによ? それどういう意味?」

 「あんなものスポーツじゃない。ただのパンチラ競技だろ?」

 パンチラって……女の子が使う言葉じゃないわ。

 「っあったまきた!なによそれ!? ふざけないで!」

 「……違うのか?」

 「違うわよ!もぉ、許さない。そんなにバカにするんだっ

たら、一本でも私に返してみせたら?」

 「あぁ、いいだろ。何本だって返してやる」

 「……そう?じゃぁ、ワンゲームマッチ。いい? 1ゲーム

で一本でも返せたら、あなたの言うこと認めてあげるし、バス

ケ部にでも入ってあげるわよ」

 悲しいくらいに分かってた。私は絶対に負けない。大会成績

を抜いたって、国嶋さん素人なんだから。

 「あぁ、いいだろう。受けてやる」

 「そう? その代わり、私が勝ったらとっとと出てって」

 ベンチから予備のラケットをとって国嶋さんに手渡すと、規

定の位置に着くまで待った。

 「いいぞ? いつでも打て」

 「……たいした自信だわ」

 私は二回ボールを弾ませると、サーブの姿勢に入った。

 ――スパンッ!……タンタンタン。

 角際に入ったボールに国嶋さんは一歩も動かなかった。

 「なにつったってるのよ?」

 「う、うるさい! 一本目は様子見だ」

 「そ? じゃぁ、次は返してね?」

 行き場のない怒りが知らず知らずのうちに、国嶋さんに向

かっていた。私はまた二回ボールを遊ばせると、サーブの姿

勢に入った。

 ――スパンッ!……タンタンタン。

 今度は国嶋さん、空振りだった。

 「ツーストライク?」

 「なっ!? バカにするな!スウィングじゃない!」

 「そう? 競技間違えてるのかと思った」

 「ほんと減らず口の頭にくるやつだ」

 国嶋さんはそう言いながら、構えた。

 「言葉じゃなくて、ボールを返してね?」

 「うるさい!さっさと打ったらどうなんだ!?」

 今度はボールを四回遊ばせた。今度は角際じゃなくて、国

嶋さんの真正面を狙って打った。

 ――スパンッ!……パコン!

 驚いたことにボールが私のコートに帰ってきた。でも、コー

スも甘いし球速もなかった。それなのに、少し横に移動して

構えたら、目の前が急に真っ白になった。

 私はラケットを手放して膝まづくとボールを両手で捕まえ

ていた。

 ……どうして、この子はこうも私につっかかってくるの。

兄さんと二人でいられたなら、それでよかったのに。……本

当に?おかしい。でも、この子がかまってくるたびに私はど

こか嬉しかった。

 ……どうして。私は国嶋さんに本当はどうして欲しかった

の。

 「おい、爽香? ふざけてるのか!?」

 国嶋さんの声が遠くで聞こえた。その代わり、真っ白な頭

のなかで懐かしい光景が次々に浮かんできた。

 そうだ、転入したばかりのころ、私は国嶋さんのことが好

きだったんだ。明るくて元気で裏表がなくて、見ていると暖

かくなるひとだった。

 だから、私はお友達になりたかった。でも、国嶋さん人気

ものだったから、新入りの私は中々そこに入っていけなかっ

た。それでも、国嶋さんはいつも私のことを気にかけてくれ

たの。

 部活が終わっても兄さん遊びほうけてて、私が一人門で待っ

ていたら、私のこと送ってくれたっけ。方向も全然違うのに。

その後、頬をさすって帰って来た兄さん、今思えば、あれは

柊じゃなくて、きっと国嶋さんだったんだ。

 本当は友達でいたかった。仲良くなりたかった。もっと、

国嶋さんに近づきたかった。でも、兄さんのこと好きになり

始めて、それから、国嶋さんもそうなんだって知ったら、も

う、何がなんだかわからなくなった。兄さんも、きっと、国

嶋さんのことが好きなんだって気がついたら、目の前が真っ

暗になった。

 私はどこにいたらいいの? 兄さんも国嶋さんも近づきた

いのに、でも、どちらかは遠く離れていって欲しい。二人が

一緒にいちゃダメだから。そうしたら、二人して遠くに行っ

てしまうから。

 だから、どちらか一人は離れていって欲しいのに、でも、

兄さんも国嶋さんも私の手を握っていて欲しかった。どうし

たらいいのかわからなくて、そんな風に苦しめる国嶋さんの

ことが次第に憎くなっていった。

 好きだった国嶋さんの笑顔が、私の心を蹴飛ばした。

 「おい、爽香!? 聞いているのか!?」

 「なによ? 私のパスがそんなに必要?」

 「じゃなかったら、ここまで来ないだろ?」

 違うの。やっぱり、国嶋さんは私とは違うの。兄さんのた

めに、そんなまどろっこしい演技なんてしない。分かりやす

い子だから。

 「それより、おまえ、反則だぞ?」

 それじゃぁ、この子は本当に……。

 「早くしろ。橘になんか、行かせるもんか」

 ……国嶋さんのそばにいても、いいんだ。兄さんを抜きに

しても、私……必要とされてるんだ。

 ずっと塞ぎこんでいた、黒い思いが汲み出されていくよう

な気がした。……でも、ダメね。私は欲深かった。

 「もう、いいわよ。やり直しなんてしないの。私の負けだ

から。でも、いいの? あんなに重たいボール、私ずっと持っ

たことないし。国嶋さんに投げる前に落としちゃうかもよ?」

 「そんなの知らない」

 「知らないって……パス通らなかったらどうするのよ?」

 「笑ってやる」

 「……なによ、それ」

 「おまえとまた一緒にバスケがしたいだけだ。だいたい、

手首が痛むぞ? おまえ、どうしてくれるんだ?」

 ようやく、あの笑顔が私に返ってきた。ううん、私はそれ

をまた暖かいものとして感じることができるようになったん

だ。

 夏のせいかしら、地面が揺らめいて見える。それが国嶋さ

んに気づかれないように、私はコートに背を向けた。

 「おい、爽香!? 」

 「来ないで。今日は私、もう、帰るから」

 「約束だぞ? 爽香」

 背後から聞こえてくる声が、妙に幼く聞こえた。コート

を出て校舎裏の陰にまぎれると、私は座って、お空にため息

をあげた。

 いまが冬なら、きっと立派な雲になるわ。今夜はきっと、

大雨ね。

 ポケットにしまったボールをそっと、両手に包み込んだ。

 そうよ、私は国嶋さんが打ったボールを……ただ、ただ

遠くへ飛ばしたくなかったの。



(10)『ライ麦畑でつかまえて』に登場する人物。

    J.Dサリンジャー (1984)『ライムギ畑でつかまえて』

    野崎孝訳、白水社

(11)1939年に公開された、ヴィクター・フレミング

    監督の映画作品『風と共に去りぬ』の作品内で、

    スカーレット・オハラ役のヴィヴィアン・リーが

    語る台詞。

(12)正しくは「ばいきんまん」

    やなせたかし作の絵本『アンパンマン』に登場

    するキャラクター。

(13)正しくは「バ~イバ~イキ~ン!」

    ばいきんまんが退散するときに言う捨て台詞。

(14)イリュージョニストの山上兄弟が演出時に用いる、

    掛け声。

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