第四部 決戦前夜 前編
風に揺れる午後、彩香と僕は屋上にいた。ふたりして壁に
もたれながら、何を話すでもなく、ただ一緒に時を過ごして
いた。理由もないのに、一緒にいられることがどれほど幸せ
なことなのか、僕はいまようやくそれを学んでいる。
はためく旗の音を聞きながら、僕は遠くに消えていく飛行
機を眺めていた。
「風、強いな」
ふと、彩香が片手で髪を押さえながら、僕に話しかけてき
た。彩香の唇が光に映えて、艶かしく見える。
「……あぁ、ほんとにな」
思えば、別れる前に僕らはキスをしようとしていたんだ。
つい最近の話なのに、それがいまはもう、遠い昔話のように
思える。
あのころのふたりを雲に思い浮かべながら、一歩ひいて見
ている自分が可笑しかった。まるで、いまのふたりがもう大
人みたいだ。
「なぁ、愁……明日、おまえの家に行ってもいいか」
「あぁ、いいよ」
僕はそのわけのわからない大人の気分に浸っていて、いま
何を言われたのか、そして、自分がそれに対してどう答えた
のか、把握するまでに少し暇がいった。
「……って、え!? 家!?」
僕の背中が一瞬にして壁から跳ね起きた。
「あぁ。なんだ? まずいのか」
「いや、別に……」
僕が不謹慎にもいま覚えた胸の高鳴りは、恐らく、僕だけ
のものであろうと考えて、ある種の期待を抑え込むように努
めた。
女性が男性の家を訪れることそれ即ち、とこういった短絡
的な考え方を持っている奴が身近にいたが、これは男の妄想
から出た虚しい錆だろうと僕は考えていた。
ところで、僕の引き出しには困ったことに、有事に備えて
あらゆる準備が整っていた。
僕は金曜の授業をサボった。彩香が放課後に来ることになっ
ていたので、それまでに大掃除をしたかったのだ。それが、たっ
た数時間のためだとしても。さらに、僕は綺麗にしても、結局、
明日にはまたいつもどおりにしなくてはならないことも、重々
心得ていた。
もし、そうしなければ、明日の朝、この部屋に爽香が入って
きたときに(僕の部屋からしかベランダに出られないので、爽
香は朝いつも洗濯物を干すために僕の部屋に入ってくる)、恐
らく、彼女は立ちすくむであろうから。
僕はとにかく塵一つ嫌って掃除機をかけ、雑巾がけをし、窓
を開け放って空気を入れ換えた。
それから、物の配置をあれこれ変えながら、部屋の入り口に
立って、その景観の善し悪しを何度も見極めた。
果たして、臭いはどうだろうか。これが僕の頭を一番悩ませ
た。こればかりは何度部屋に入ってみても、普段そこで生活し
ている者にはわかるはずもない。その当事者にとってすれば、
いくら他者の鼻をもごうが、そこは無臭なのである。消臭グッ
ズは昨夜のうちに使用したが、それでも臭いが気になった。
当事者でもわかるような、何か強烈な香りがないものかと思っ
て、そういえば、僕はアロマキャンドルを買ってきていたこ
とを思い出した。でも、これは最終手段でこのやり方につい
ては、僕はあまり好きではなかった。入浴せずに香水で臭い
を匂いにごまかすのと同じだ。僕は古来のあるやり方につい
て懐疑的だった。
とはいえ、部屋をまさか水浸しにするわけにもいかないの
で、そこはあきらめて、結局、クーラーをかけてキャンドル
に明かりを灯した。
――僕は一体何がしたいのだろう。暖をとりたいのか涼み
たいのか、訳が分からなかった。
この日の僕は恐らく、かなり混乱していた。下駄箱の靴は
自分のだけではなくて、爽香のまで匂いを確かめたし、シャ
ンプーをしたのも、もうこれで何度目かもわからなかった。
彼女がくるころには部屋の酸素がすっかり薄くなっている
のではないかと心配になって、急いで灯りを消して網戸にし
た。
クーラーも匂いも結局は台無しになった。
部屋の前でふいにまたされた彩香は恐らく、このバカ、頭
大丈夫か、と思ったにちがいない。
僕は彩香を部屋に案内すると、彼女にアルバムを見せた。
楓もそうだったのだが、彩香にも卒業時の写真を見せる機会
がなかったのだ。
ところで、彩香がそれを見ている間、僕は暇になった。た
だ、時々、昔の僕を見つめてくれる彼女の姿を目の当たりに
すると、もうそれだけで胸がいっぱいになった。
彩香はその後、いろいろ部屋を見回していた。僕はもう気
が気じゃなかった。まるで、部屋の清掃状況を確認されてい
るかのように感じたのだ。もし、彼女の指に埃でもつきよう
ものなら、僕は俯いてもはや何も言えなくなるだろう。
だが、彼女の目にとまったものは埃ではなく、僕の机だっ
た。
「意外だな、教科書がちゃんと整理されている。引き出し
には何が入っているのだ」
僕の胸は空高く突き抜けそうだった。そこには有事に備え
て僕のいやらしさが詰まっていた。
「べ、別に。特になにも入ってないよ? 空だよ、カラ」
「そうか」
彩香に大胆さがなくて助かったと思った。
彼女は巡り巡ってソファーに落ち着いた。
「あ、そうだ、何か飲み物もってくるよ? 確か、紅茶が
あったけど、それでいいか」
「ん? あぁ。ありがとう」
確か、と僕は言ったが、これは確実だった。なぜなら、昨
夜のうちに彩香が好きな紅茶を買ってきて、冷蔵庫に冷やし
ておいたのだから。
僕はもうとにかく心臓が壊れそうだったので、一目散に部
屋を飛び出した。
生きた心地がしないのはまさにあの部屋だと思った。同じ
ふたりきりでも、部屋の中だとこんなにも緊張するものなの
か。
僕はそれを知らなかった。
紅茶をグラスに注いで、部屋を開けようとしたとき、僕は
ふいに不安になった。
引き出しが開けられているのではないか、と思ったのだ。
だが、爽香じゃあるまいし、まさか彩香がそんなことしない
だろうと思いながらも、ゆっくりとドアを開けた。
「あ、すまないな。あれ? おまえの分はどうしたのだ?」
「あ……いや、おれは喉乾いてないから平気」
これは嘘だ。喉はすでに干からびていたが、すっかり自分
の分を忘れていた。
僕はまた机の椅子に腰かけた。
「おまえ、今日、学校サボっただろ」
僕は原稿用紙とペンを探した。反省文なら得意だ。
「いや、ちょっと、寝坊しちゃって」
「本当か? 爽香から、おまえが朝からなにやら騒がしく
してたって嫌味を言われたぞ」
「あ……えっと」
僕は爽香の晩ご飯に何を混ぜてやろうかとあれこれ考えた。
「まったく、何していたのだ」
「いや、なにも」
「そうか? ずいぶん部屋が綺麗だぞ」
僕は恥ずかしさでたまらなかった。
「綺麗好きなんだよ、おれ。知らんかった?」
「そうか、それは勘違いしていたな。でも、本当に悪かっ
たな? 急に来たいなんて言って」
「そんなことないって。結構、嬉しかったし。でも、なん
か凄い……緊張してるけど」
僕はもう隠すことができなかったので、ここぞとばかりに
冗談っぽく自白した。
「そうか……だから、そんなに離れているのか?」
「あ……まぁ、そう、かな?」
「私だって緊張しているのだぞ? でも、おまえが消して
くれると思ったのだがな?」
どうやら、彩香は僕に隣へ座れと言っているらしい。僕は
おぼつかない足取りで彼女の隣に座った。
それから、しばらくの間、無言が続いた。何かが変だ。会
話がなくたって、一緒にいられることに幸せを感じていたは
ずだ。昨日だって。それなのに、いまはとてつもなくきまず
い。
肩だって、彩香に当たらないように変に身体を傾かせてい
るものだから、腰の辺りは傷むし、こんな日に限ってこども
の話し声も外から届いてこないから、生唾を飲む音にだって
神経を尖らせなければならなかった。このまま一時間も続い
たら、僕は石像にでもなってしまいそうだ。
「なぁ、愁……おまえ、別れる前のこと、覚えてるか?」
助かった、と思った。情けない話、彩香がこの沈黙を破っ
てくれたから、僕はそのまま固まらずにすんだのだ。ところ
が、今度はその返答に困った。彩香は一体何を言わんとして
いるのだろう。
「あぁ」
僕は短くそう答えながらも、必死で頭の中を駆け巡ってい
た。
「おまえが朝呼び出したときのことだぞ?」
ゴールが見えた。あぁ、そのことかと、ちゃんと覚えてい
るよ、と自信を持って彩香の顔を見た瞬間、僕の身体が仰け
反った。
彩香の顔が近かったのだ。しかも、そのときの表情があま
りにもいじらしかった。
「あぁ、爽香に叱られた日だ」
僕は仰け反ったまま、そっぽを向いて答えた。恥ずかしさ
のあまり、僕はそれをごまかそうとしたのだ。
「……そうだな」
彩香の声のトーンが一気に落ちた。しまった、と思った。
慌てて釈明しようと彩香の方を見ると、彼女は僕よりも早く、
言葉を続けた。
「おまえ、キス……したかったのか?」
彩香の凍えそうな表情の向こうに、あの日、しっかりと答
えられなかった自分が見えた。
「あぁ、だから、そのために行ったんだ」
「そうか……」
彩香はそれを聞くと、俯いてしまった。
「校舎裏じゃないとおまえ、嫌か?」
再び長い沈黙のあと、ふと彩香がそんなことを言った。
僕は相変わらず何を言われているのか分からずに、ただ、
彩香を見据えることしかできなかった。
「……初めてだろ? あまり、外ではしたくないのだ。最
初は……できれば、おまえの部屋が良い」
僕はソファから転げ落ちた。
「な、どうした、愁!? 大丈夫か!?」
彩香に支えられてなんとか起き上がってみたものの、動悸
が激しくて窒息しそうだった。
「彩香……だよな? 本当に?」
「なんだ!それは。他に誰がいる!?」
「いや、ごめん。だって、彩香がそんなふうに言ってくれ
るなんて」
彩香も相当恥ずかしかったのか、僕がそう言うと、そっぽ
を向いて拗ねてしまった。
「悪かったな。おまえの幻聴だろ? 忘れたらいい」
その言葉に、ようやくいつもの雰囲気が戻ってきた。いつ
までも彩香ばかりに頼っていては不甲斐ないばかりだ。僕は
彩香の両肩をつかむと、身体を僕の正面に向けさせた。
「な、なんだ!?」
「……していい?」
「好きにすればいいだろ……」
でも、困ったことに僕は突然変われたりはしなかった。
キスをするとき、僕は必ず女性が目を閉じるものだと思い込
んでいた。ところで、彩香は顔を近づけても、目を一向に閉
じなかった。
「えっと……彩香、さん?」
「なんだ!?」
「いや、目を閉じてくれると嬉しいんだけど……」
「どうしてだ? なんで目を閉じなくちゃいけないんだ。
それじゃ、待ってる間バカみたいだろ?」
「……いや、可愛いと思うけど」
「うるさい!早くしろ!」
なんだか、ムードもへったくれもない状況に僕は少し笑っ
てしまった。
「……なんだ? しないのか?」
不満たっぷりの彩香の唇に、僕は始めてキスをした。
しかして、ドラマみたいに現実は上手くいかないものだと
思った。
僕は彩香にキスをしたはずなのに、唇の感触はあまりなく
て、なぜだか鼻に感触が強く残っていた。要はキスをすると
きに、鼻を彩香のそれに押し当ててしまったらしいのだ。
「……へたくそ」
彩香はそう言うと、少し笑った。
「ごめん……」
「良い、初めてなんだろ? でも、おまえ、今度までには
練習しておけ。鏡の前でだぞ」
想像しただけでも可笑しかった。そんな意地悪をしてくる
彩香を、僕はそのまま抱きしめた。
「な、おい!なにをする!?」
彼女の耳元に、僕は気持ちを届けた。すると、彩香は大人
しくしくなって、僕の背中にも手を回してくれた。
――そのときだった。
「ただいまぁ~」
階下から爽香の声が聞こえてきた。僕らはお互いの顔を見
合わせると、苦笑いを浮かべた。
「お帰り」
階段を下りてリビングに向かうと、爽香はソファに寝転がっ
ていた。
「ただいま」
爽香は洋菓子を片手にテレビをつけると、映画を見始めた。
「爽香、お邪魔してるぞ?」
「知ってるわよ? でも、来るなら土日に来てね? 兄さ
ん、サボるから」
「……あぁ、すまない」
僕も彩香に続いて、爽香に謝った。その後、爽香にも小声
で謝罪をした。
「兄さん? ところで、消臭剤の匂いが凄いするんすけど?」
「あぁ、えぇっと……」
爽香の指摘に僕は彩香と下りて来たことを後悔し始めてい
た。さて、どうやってごまかそうか。まさか、本人の前で、
臭いを消そうと靴にふりかけた、なんて、とても言えない。
僕がしどろもどろになっていると、爽香がテレビ画面から
こちらに視線を投げかけてきた。
「もしかして、私の靴にもかけたの?」
「あ、いや、爽香のは別に臭わなかっ……」
僕の言葉とともに、爽香の表情が止まった。洋菓子が床に
転がり落ちていく。映画から聞こえてくる音声だけが、いま
は時の流れを告げていた。でも、それも、すぐ爽香によって
消されてしまった。残るのは隣から聞こえてくる、彩香の笑
い声だけだった。
「ちょっと!私の靴、かいだの!?」
彩香の笑い声がより一層、大きくなった。
「もぉ!信じらんない!!」
そこからはすべてがスローモーションだった。爽香がクッ
ションをつかんで僕に詰め寄ってくる。そこから、何度もクッ
ションが僕に向かって寄せては返し、寄せては返しを繰り返
し、結局、僕はその波に飲まれてしまった。
「いてっ!いたいっての!落ち着け!違うんだって!」
「なにが違うのよ!このド変態!!」
「誰がへんたっ……」
それ以上はもう波が凄くて、言葉が出せなかった。
せめてもの救いは僕が彩香を自宅付近に送るまで、始終、
彩香が笑ってくれたことだ。酷い点数を取ってしまったこど
ものように、僕はそこから自分の家に戻るのがどうにも億劫
だった。
ただ、彩香があまりにも笑うので、僕もとうとう最後には
笑い出してしまった。そうして、ふたりして笑い合ったあと
で彩香は僕のTシャツを引っ張って、キスを返してくれた。
「ここ、外だぞ?」
「いいのだ。これは、二回目だろ?」
「あぁ……確かに」
よし、それならばと、僕ももう一度しようとしたのだが、
それは彩香に避けられてしまった。
「よせ、おまえは練習が必要だ。また今度だ」
彩香はそう言って笑うと、十字路に消えていった。……か
と、思ったら、もう一度戻ってきた。
「今日はすまなかったな? もう、休むなよ」
「いや、こっちこそ悪かった。普段から綺麗にしとくよ?」
「あぁ、そうしろ。……でも、今日は良い思い出になった
な?」
彩香がまた先ほどと同じような笑顔をするものだから、僕
は笑いながら言わないでくれと少し拗ねた。
彩香が笑ってくれて、本当に助かった。何かに熱中すると、
周りが見えなくなる。僕のダメなところだ。
爽香の機嫌をなんとか直さないと……。
僕は彩香に手をふると、頭の痛い帰路へと向かった。
―――――――――――――――――――――――――――
冬になると、帰宅と夕飯の間に暇ができるので、それを利
用してテラスで絵を描くことが私は好きだ。風邪をひきやす
いから、母さんの心配そうな顔がお化けみたいによく窓辺に
映るのが困るが。
でも、いまは夏だ。私は手にした筆をおもいっきりのばす
と、片目を閉じた。こどもっぽいとは思うが、なんだか浮つ
いていて、自分でもよくわからない状態だった。
「彩香? どうかしたの? ふふ、ずいぶんとご機嫌ね?」
母さんがテラスに入ってきた。
「あぁ、今日は早めに部活がおわったからな」
「それだけじゃないでしょ? 鼻歌なんてしちゃって」
「あぁ……」
私はたまらず視線を逸らした。そうだ、思い出した。
「ようやくあのバカがデートに誘ってきたのだ」
本当にようやく、だ。まったく……そういうところが奥手っ
てどうなのだ。
「あらあら、大変ね」
「どうしてだ?」
「だって、彩香。あなた、デートに着ていくお洋服なんて
持っていたかしら?」
私は持ち上げた筆を落としてしまった。そうだ。私は肝心
なことをすっかりと忘れていた。服がないのだ。愁の奴を責
めたけど、でも、私だって本当はそんな準備していなかった
のだ。弱った……あっても、せいぜいTシャツにジーンズぐ
らいしかない。だいたい、遊ぶのもたいてい制服だったし、
ジャージとサンダルがあれば平気だったのだ。
愁の奴、私がデートにジャージを着ていったら、幻滅する
だろうか。いや、そもそも、それは私が嫌だ。なんだか、恥
ずかしい気がする。
でも、私はファッション雑誌なんて読んだことがない。友
達に一緒に服を買いに行こうなんて言ったら、どれほど茶化
される目にみえて嫌になる。
あれこれつてをさぐってみたが、その最終的にたどり着い
た人物にさえ、私は目を覆いたくなった。
でも、考えてみたら、初めからそいつほどの適任者は他に
おいていやしなかったのだ。
望みの綱まであともう少しというところで、私の足が止まっ
ていた。せめて、このため息が指の代わりにあの忌々しい呼
び鈴を押してくれないものだろうか。
大丈夫に決まっている、だいたい、いまは日曜の朝だ。愁
は寝ている。きっと、出てくるのはあの垂れ目だ。だけど……。
さっきからこの問答劇の繰り返しだ。いいかげんメモリも焼
ききれるのが道理ってものだろう。私はもう嫌になって、ハー
ドディスクごと投げた。そいつが戻ってくる前に私は何も
考えずに呼び鈴を押した。
――ピンポーン。
この音に驚いたのは爽香じゃなくて、きっと私の方だ。愁
のバカ、起きないといいのだが……。
――ガチャ。
鍵が開いた。ドア越しにも人の姿が見えないので、私はこ
の瞬間に一度心臓を大きくして止まった。まるで、心電図だ。
「あ、国嶋さん、どうしたの? 兄さんならお二階にいる
けど?」
よかった、垂れ目が来てくれた。
「いや、呼ばないでくれ」
「そう? 別に頼まれても呼ばないけど」
「……おまえ、あいかわらずバラみたいな奴だな。今度か
らローズって呼んでやる」
「なによ、会うなり、ひとのこと外国人さんみたいに呼ん
で。野球とかしないし」
こいつは何を言っているのだ。
「兄さんに用がないなら、な~に?」
「あ、その……ひとつ頼みがあるのだ」
――ガチャ。
一瞬、意味がわからなかった。扉が閉まったのだ。
「んっ……」
常識がないのかこのバカは。話の途中で戸を閉めるってど
ういうバカなのだ。
――ピンポーン。
私は今度こそ、ためらわずに呼び鈴をつついた。こうなっ
たら、あいつがうんと言うまで袖を引っ張り続けてやる。
――ガチャ。
「……なによ? 押し売り?」
「おまえ、話ぐらい聞いたらどうなんだ?」
「なによ、話って。どうせ、私を困らせるようなことなん
でしょ?」
「……そ、そうかもしれないが。おまえにしか頼めないの
だ。頼む」
爽香は玄関から出てきて、そっとドアを閉めた。ちょっと
は空気を読んでくれたらしい。
「……そう。で、どうしたの?」
「今度、その……服を一緒に買いに行ってほしいのだ」
「服?」
「そうだ」
「な~んで、私なのよ? そんなの友達と行けばいいじゃ
ない」
爽香は腕を組んで、あからさまに嫌そうな態度をとった。
「そんなに嫌がることないだろ。だって、恥ずかしいだろ!?
今さら服買いに行こう、なんて。それに、おまえ、そういう
の詳しいだろ?」
「別にそんなに詳しくないわよ。毎日遊んでるわけじゃな
いし、国嶋さんと一緒で、ちゃんと部活に勤しんでるもの」
――意外だ。
「……そうなのか?」
「ちょっと!なによ!? アナタって人はほんっとに、もぉ!!
なに、じゃ私のこと遊び人とでも思ってたわけ?」
言葉とともに爽香がにじり寄って来た。
「……ちがうのか?」
「もぉ!あったまきた。いいわ、私もちょうど夏物買い足し
たかったし。けど、いい? 私に見立ててほしいなら、拒否権
とかないから?」
「……き、厳しいのだな」
「当たり前よ? じゃ、ちょっと待って。メアド渡すから」
爽香はそう言って、手際よくメモを書いて渡してくれた。
「はい、これ。部活空いてる日、あとでメールしてね?」
――ヘンてこなアドレスだな。
「……すまない」
「いいわよ。別に国嶋さんのためじゃないし。兄さんが変
な服装の子といるの見られたくないだけよ? ……って、あ
れ、でも、そういえば、国嶋さんて普段どんな服装している
の? 制服しか見たことなかったけど」
余計なことを聞きやがって。でも、今更隠したところで、
仕方がない。
「ジャージだ」
「ん?」
「だから、ジャージしか買ったことがないのだ」
「……そう、意外ね。国嶋さんなら結構、綺麗めな服持っ
てそうだけど?」
「……持ってない」
「そっか、ま、部活バカだもんね? らしいっていったら、
らしいかも」
「バカは余分だ!」
「ふふ、でも、いいの? 私に頼んだら、もしからしたら、
兄さんの好まない服装とかにしちゃうかもよ?」
「そんなことはない」
こんなの歯がゆいけど、でも、爽香は愁の気持ちが変わら
ない限り、きっと、私の一番の味方だ。
「どうして?」
「おまえ、根は悪いが、人を貶めるようなことはしないだ
ろ? おまえを見ていて、そう思う」
「……嬉しくないんですけど? それ、普通、根は良い奴っ
て言わない?」
「根は悪いだろ?」
「あったまきた!帰って!」
「あ、おい、押すな!」
「もぉ!メールは22時までしか返さないから!わかった?」
爽香はそう言うと、私を道ばたに放り出した。
それにしても愁の奴……、22時までって、そんなことあ
いつに守らせているのか。あいつも、ほんと従順なやつだ。
―――――――――――――――――――――――――――
面白くない日がやってきた。今日は国嶋さんとお洋服を買
いに出かける日。目覚めも悪くて、アラームがまだ頭に鳴り
響いている。
ほんと、よくもこんなこと私に頼めるものね。信じられな
い。天井に文句をぶつけて、私は部屋を出た。
下に降りる途中、兄さんの部屋が開けっ放しになっている
ことに気がついた。……布団がぐちゃぐちゃね。これは意外
だった。出ていくとき、たいてい綺麗にして出かけるのに。
やっぱり、私が起こしてあげればよかったのかな。
布団をたたんでドアを閉めると、少しにやけてしまった。
今日は兄さん、補習だった。ずいぶんと真面目になったこと。
ドアノブにかけられた虎さん(昔、私があげたの)をくすぐっ
て、一階に下りた。
テレビをつけて、ご飯を食べていると、門の前で人影がう
ろうろしているのが見えた。まさかと思って時間を確認した
けど、国嶋さんがくるにしてはまだずいぶんと時間があった。
玄関を少しあけて覗いてみると、あきれた、あの子だった。
「……整理券とか配ってないんですけど?」
「な、なんの話だ?」
「その時計、壊れてるの?」
「……すまない。ちょっと早く出すぎてしまったのだ」
ちょっと、って一時間がちょっとなのかしら。でも、私は
それを咎めるよりも国嶋さんの服装に思わず笑ってしまった。
いつもはあんなに気の強い女の子に見えるのに、今日はと
ても可愛く見えた。それもそうね、国嶋さんが着ている服、
ピンク色のジャージなんだもの。おまけに子猫ちゃんのワン
ポイント刺繍までしてあるし。なんて、シュールな子。性格
と逆行してるわ。
「ふふ、こども~。むしろ、どこぞの不良~」
「なっ!? なにを言っているのだ!? 彩香だぞ? 大
人だ!良い子だろ?」
「自分でよく言う~」
「ふん、自慢じゃないが、4より下はとったことがない」
「でも、コメント欄にちゃんと書いてあったでしょ?」
「何がだ?」
「口が悪くて、時計の読めないドバカな子って」
「おまえ……だから、すまなかったと言っているだろ?い
い。門の前で待ってるから、時間になったらきてくれ」
そう言って本当に私に背を向けてしまったので、私は国嶋
さんの手を慌ててつかんだ。
「なに言ってるのよ? そんなことしたら兄さんにほっぺ
つままれるわ。早く入って。……それと、いますぐ着替えて」
「な、どうしてだ?」
「当たり前でしょ? フィットネスにでも行くき? 私の
部屋にドレッサーがあるから、適当に着てきて。お二階上がっ
てすぐ右手だから」
「あ、あぁ」
「いい? まちがっても、兄さんの部屋に入らないでね。
入ったら警察呼ぶから」
「……なんだ、それ。家に入れたのはおまえだろ?」
「そうね。でも、誰かさんがちゃんと文字盤読めたら、入
れてなかったわ」
国嶋さんにしては珍しくしおれて階段を上がっていった。
いじわるはいじわるで返す子なのに。変ね、今日は少し従順
そう。
欠伸をしながらソファーに座ると、ご飯の続きをした。眠
い……っとと、こぼさないようにしなきゃ。ここで食べたの
が兄さんにみつかったら、あとが大変。
そうこうしていると、すぐに国嶋さんが入ってきた。
「爽香、ベルトが見あたらないのだが?」
そう言って、国嶋さんはスカートが落ちないように手で押
さえている」
私は思わずクッションを投げた。私もそれなりに細いはず
なのに、なんなのこの子は。
しかも、ボーイッシュな服しか似合わないと思ってたのに。
「……なにをするのだ?」
「持ってくるから少し待ってて」
国嶋さんにベルトを渡してあげると、ソファに座って、中
断していたご飯を取り直した。ところが、私がお箸を握って
まもなく、国嶋さんがそわそわし始めた。
「……爽香、まだか?」
「時計直してあげましょうか?」
「ん? 9時だ。ちゃんと合っているぞ?」
「ほんっといやな子。だいたい約束の時間は10時よ。ご
飯は食べてきたの?」
「あぁ、食べてきた。爽香、それ、美味しそうだな? お
まえが作ったのか?」
そう言って、国嶋さんは私の前にやってきた。ちょっと、
テレビが見えないんですけど。
「違うわよ。兄さん」
「そうか、あいつが……」
手で合図して国嶋さんにテレビの前からどいてもらうと、
今度は後ろにある机(いつもご飯を食べているところなの)
に歩き出した。
「ん? このメモ書きは愁のか? 爽香へ、朝ご飯冷蔵庫
にあるから食べ……」
「ちょっと、少しは落ち着いたらどうなの? じっとして
て」
「あ……あぁ、すまない、愁の家だと思うと、なんか」
身悶えるような姿がもの凄く不快。ここ、私たちのお家な
んですけど。せっかくの兄さんのご飯がだいなしだわ。こん
なこと、さっさとすませなきゃ。
結局、私たちは予定よりも30分も早く家をあとにした。
―――――――――――――――――――――――――――
私は爽香をすっかりとみくびっていた。買い物は部活より
もしんどいものなのか。そもそも、てっきり、一軒見て決め
るものだと思い込んでいたのだが、ファストファッションの
店を三軒も歩いて回る羽目になった。
爽香の奴、どこからそんな元気が出てくるのだ。途中で食
べるクレープが、どうやらそのエネルギー源らしい。
「ふふ、美味しい~」
爽香は紙袋を片手に、器用にそれを食べていた。
「おまえ、買いすぎじゃないのか?」
「なによ? お洋服買いに来たのよ? 国嶋さんこそ、ちゃ
んと買ったら」
「次の店で買う。初めから、そう言ったろ?」
爽香とは出かける前に予め行く店を決めていた。愁の奴が
よく買いに行く店に連れて行けと言ったはずなのに、コイツ
は……。
「ふふ、ちょっと前に生まれてたら、ペアルックとか着て
た?」
爽香はそう言ってハンカチを取り出すと、私の口元を撫で
た。
「おまえ、バカにしてるのか?」
「別に~。でも、私、本当のこと言うと、あまりあそこに
は行きたくないの。兄さんも連れてきたがらないし。国嶋さ
んも気をつけてね?」
「……何がだ? いまから行くのは服屋だろ? 何がそん
なに危険なのだ?」
「あれよあれ!螺旋階段になってるんだけど、下から覗け
るのよ? 変にスペースがあってね。しかも、それ全体が真っ
白だから、色がよく映えるってドバカが言ってた」
なんだ、そんなことかと思った。スカートさえ穿いていな
かったら、何も問題ないではないか。
ところで、私は今日スカートだった。しかも、爽香のミニ
だ。制服よりも丈が短い。
「ふざけるな!早く言え!」
「なによ~? 行きたいって言ったのは国嶋さんでしょ?」
「それはそうだが……それより、そのドバカって誰だ!?
愁か!?」
「よして。教えてくれたのは柊よ?」
「あいつ、愁から引き離すべきだ!」
「そんなのムリ~。あんなでも兄さんの親友だもん。ほら、
行くなら早く行こう? こんなところで、止まってられない
の」
あぁ、そうだ。こっちだって、ここまで来て買わずに帰れ
ない。それにも関わらず、店に入っても頭には一向に柊の顔
ばかり浮かんで、私は何度も蹴飛ばしていた。
柊の奴、軽薄だと前々から思っていたが、犯罪者ではない
か。今日、愁が帰ってきたら、みっちりと徳を説いてやろう。
とはいえ、やはり、爽香も中々の強敵だった。拒否権がな
いなんて言って、私に何度も恥ずかしい服を試着させた。し
かも、ワンピースばかりだ。ベアトップだかなんだか知らな
いが、私は南国の少女じゃないのだぞ?フェミニンだかなん
だか知らないが、別にパーティに行くわけじゃないのだぞ?
サテンだかラテンだか知らないが、胸元が開きすぎだ。
できれば、薄手のジャケットとかを買いたかったのだが、
結局、私が買ったのはワンピースだった。
本当に愁の奴、こういうのが好きなのか。まぁ、いい。あ
いつの驚く顔を想像すると早く着て見せてやりたくなった。
それから、爽香と靴を選んで、ようやく長い買い物が終わっ
た。こんなに長時間、人ごみのなかにいたのは恐らく、初め
てだ。
「大丈夫?」
「あぁ、平気だ。おまえ、いつもこんなに歩き回っている
のか?」
「なに言っちゃってるの。いつもならまだ回るし」
爽香の真顔に眩暈がした。愁の奴、爽香と行きたがらなかっ
た理由は他にもきっとあるのだろうな。
地元の駅に帰るころには、もううっすらと暗くなり始めて
いた。
「……な、なんや!? ふたりして!?」
その声に、忘れていた分を取り戻すかのように、一気に頭
に血が上り始めた。
「自分らまさか、なかよぅ~買い物でも……いや、ありえ
へんよな」
「ありえないのはおまえだろ、柊。おまえ、自首したらど
うなんだ?」
「自首? 何を言うとんねん、国嶋」
惚ける柊に爽香が冷や水をかけた。
「お洋服買いに行ってたの。あの店で教えてもらったこと、
国嶋さんにも話してやったのぉ~。階段が白くてよく映えるっ
て?」
いいぞ、爽香。
「アホ、冗談やろが? よりによって、なんで通じへん奴
に」
「どうだかな……おまえ、どうせ下で張ってたんだろ?」
「ふふ、パンチラ刑事ぃ~」
「変な呼び方すな、アホ!」
「それなら、おまえ、ケータイ見せてみたらどうなんだ?」
ここまでくると、もう、目的が変わりつつあった。
「柊、ドバカとは思ってたけど、まさか……」
「撮ってへんし!」
爽香が悪乗りをしている間に、良いことを思いついたのだ。
「本当だろうな?」
「疑い深い奴やなぁ。ほれ、見てみぃ」
柊はそう言って、私にケータイを差し出した。まんまと私
の思惑にはまってくれた。
「ど~? 証拠物件あった?」
「いや、確かにそれらしいのはないな?」
私はそう言いながらも、満足していた。探していたものは
もっと他にあったのだ。
「そうやろ? ただ注意したっただけなのに」
「ふふ、そんなの知らないのぉ~」
「ホンマ、ドクサレ女やなぁ」
「なによぉ?」
「おい、柊?」
「ん? なんや?」
「おまえ、これ愁の写真も結構入ってるな」
「あぁ、そらそうや。遠出したときに、たいがいそれで撮
るさかい」
「そうか。……おまえ、この写真あとで私に送れ」
「なんでや?」
一瞬、沈黙になった。なんなのだ、この間は。
「いいだろ!?」
「い、いや、まぁ、ええけど、あいつもカッコ悪いの見ら
れたないやろうし、直接、あいつに聞いてみた方が」
そう言いかけたところで、柊が私に小声で話しかけてきた。
「何よりな……」
「却下、送信不可です」
言葉を待たずに、爽香が口を挟んだ。
「な? おれも命が惜しいんや」
「どうしていけないんだ? いいだろ?」
「いいわけないでしょ? なーんで、兄さんのプライベート
写真まで国嶋さんに提供しなきゃいけないのよ? スポンサー
とか無理ぃ~」
「無理じゃないだろう? ボタン一つだ。だいたい、爽香に
断られることじゃない。柊、愁に聞いてみてくれ」
「なんやで、そないにすぐ欲しいのか?」
「おまえのことだ。消すかもしれないだろ?すぐじゃなきゃ
だめだ」
「そうか、まぁ、確かに最近ちょいと量多うなりすぎた思う
とったとこやけど」
「ちょっと。柊? 何してるの?」
電話をかけようとした柊の手が止まった。爽香と少し見合っ
たあとで、柊は急いでケータイをポケットに押し込んだ。
「すまん、国嶋!おれ、あいつの番号知らへんねん」
「見え透いた嘘をつくな!」
「あかん、あかんのや。見てみぃ? 桜の顔!めっちゃこ
わっ」
「ちょっとなによ、それ!?」
少し焦りすぎてしまったのかもしれない。爽香が帰ってか
ら、問い合わせてやればよかったのだ。柊のケータイには、
私の知らない愁がいっぱい詰まっていた。
―――――――――――――――――――――――――――
「写真?」
学校から戻ってくると、彩香が家にいた。しかも、なぜだ
か、学校のジャージを着ている。でも、変だ。僕や爽香のジャ
ージみたいに、名札がそこには縫い付けられていなかった。
「そうだ、写真だ。柊のケータイに入ってるだろ? あれ
を貰ってもいいか?」
「あぁ、そんなの……」
と、言いかけたところで、リビングに置かれたビニール袋
が目に留まった。洋服のブランド名が書かれている。爽香だ
ろうか。いや、そうではないだろう。そのブランドは僕と違っ
て爽香はほとんど買っていない。となると、あの袋は……。
「服買ってきたんだ?」
「あ、いや……違う」
「今度、遊ぶときに見せてくれると嬉しいんだけどなぁ。
あ、でも、その前に今日ちょっと見せてくれないか?」
「だから、違うって言ってるだろ? あれは、爽香の……
だ!私のじゃない」
あくまでもごまかそうとしたので、僕は少し意地悪をして
みたくなった。
「そのジャージのこと? 着て見せてくれたら、全部あげ
る」
彩香は眉を潜めて、僕を少し睨んだ。
「おまえ……酷い奴だ」
僕は笑って冗談だと言うと、ケータイを取り出して柊に電
話をかけた。すると、彩香が手を伸ばして僕のケータイを奪
うと、それを切ってしまった。
「約束だぞ? でも……似合わないって文句言ったら、お
まえ、蹴飛ばすからな」
彩香はそう言って袋をつかむと、足早に2階へと上がって
しまった。
その後、爽香の部屋が何か賑やかになった。恐らく、部屋
には爽香がいるのだろう。ふと、爽香の前で彩香が着替えを
しているのかと思うと、少し爽香が羨ましくなった。
柱に頭をぶつけてバカな煩悩を振り落とすと、棚からグラ
スを3つり出して、それに紅茶を注いだ。
やがて、2階に静けさが戻るとこの部屋の時刻を告げる針
の音が、妙に大きく響いた。まるで、迫ってくるかのように。
そこで、振り返ってみると時計の針はもうまもなく20時
を通過するところだった。早めに帰さないと、彩香の両親も
心配するだろう。
でも、中々彼女が下りてくる気配はなかった。
僕のグラスだけがすっかりと空になってしまった。
ところが、ふと、階段へ出る扉の方を見ると、何やら人影
が映って見える。恐らくは、彩香だ。
「彩香? もう着替えたん?」
僕がその人知れぬ影に問いかけると、少しその影は跳ね上
がって見えた。
「な、なんだおまえ……いたのか」
「そりゃ、首を長くして待ってたからな。開けていいか?」
そう言って、僕が扉に手をかけると、彩香はそれが開かな
いように抵抗した。
「よせ!早まるな!私が開ける!」
僕は了解して、扉から少し離れた。それから、扉は少しず
つ横へ流れていき、まず彩香は顔を覗かせた。その表情だけ
で十分、満足してしまいそうだった。
とはいえ、そうは言っても、ちゃんと全部が見たい。徐々
にスライドしていく扉がもどかしくて、もういっそのこと扉
をとっぱらってしまいたかった。でも、そんな乱暴なことは
できない。
「……どうした? 変か?」
我慢して我慢してやっといま、彩香の容姿を確認できた。
でも、困ったことにハッキリと見えない。高ぶった感情が
急に目の前を点滅させていく。言葉よりも早く、あと少しで、
彩香に抱きついてしまうところだった。
「いや、今までそんなの見たことなかったし、凄く新鮮で」
「……なんだ、やっぱり似合わないか?」
「違うよ? 可愛いと思う。……でも、それだけじゃ何か
足らなくて、戸惑ってる」
「……そ、そうか」
せっかくの私服姿の彩香が、そっぽを向いてしまった。
「まぁ、おまえの好きな格好だしな」
今度は意外な言葉を聞いて、僕の声が困ってしまった。
「……へ?」
「好きなんだろ? ワンピース。爽香が言ってた」
「あぁ……いや、あいつには着るなとは頼んだけど」
僕はまた大失態をしでかした。彩香は顔を赤らめると、一
気に階段を駆け上がっていった。
「爽香ぁ!!」
階段に響き渡る声に、僕は苦笑してしまった。
彩香は爽香に騙されたと思ったのだろう。でも、あながち
そうとも言えない。僕が爽香に着るなと願い出たのは、街中
を歩いていて変に色目で見られたくなかった(爽香の着てい
たワンピースは胸元が大きく開いていた)からだ。
外部の目を気にしなかったら、確かにあの服装は大好きだ。
純粋に可愛いと思うし、色目で見てもたまらない。疑いよう
もなく、爽香はそれに気づいていたのだろう。
テーブルから、グラスの氷が解けて動く音がした。
……爽香にしてやられたと思った。




