特任指南役 壱
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・施設等とは一切関係ありません。
高校の帰り、固定電話に着信履歴が残っていた。番号を確認すると、剣道協会からだった。
仕事でもなければ電話をかける相手じゃない。折り返し電話をかけると直ぐに繋がった。
『はい。全日本剣道協会です』
「もしもし、柊裕朔です」
『あぁ、はい柊様ですね。日中の件のことでしょうか』
「えぇ、その件です。担当者はいらっしゃいますか?」
『はい少々お待ちください』
約一分ほど保留音が流れた後、担当者に変わった。
『もしもしお電話は変わりました。担当の真柄です』
「ご要件をお伺いしても宜しいですか?」
『はい。会長が柊様に直接お会いしたいとのことです』
面倒事になる未来しか想像できない。嫌な予感が脳裏を巡った。
『お手数をかけますが柊様のご都合に合う日に来てもらって構いませんかね?』
「では今週の土曜日にお伺いしても構いませんか?」
『はいでは今週の土曜日に全日本剣道協会に来てください。では失礼いたします』
さて、仕事なら良いのだがこれが別件なら面倒だ。今日はゆっくりと休めたい気分だ。朝に作っておいた出汁で茶碗蒸しと味噌汁でも作るとしよう。
キッチンの棚から蒸し器を用意しこの際、鍋に水をたっぷりと注ぐ。沸騰させたら蓋に布巾で包み、結び目を上にしておく。
今回の茶碗蒸しは椎茸と蒲鉾にする。椎茸は石づきを切り落とし、蒲鉾も薄切りにする。
卵と出汁を溶き先程切った椎茸と蒲鉾を先に入れ静かに卵液を注ぐ。表面を荒らせば口当たりが悪くなってしまう。剣術ならその小さな失敗が命取りだ。
下の鍋から湯気が上がったら卵液を注いだ器を上の蒸し器に並べる。蓋をきっちりと閉めて強火で二分待つ。
蒸気の匂いと混じって、面倒事の予感だけは消えなかった。
二分ほど経つと弱火に落とし蓋を箸一本ほどずらし十二分蒸す。十二分ほど蒸したら火を止めて余熱で四分ぐらい置けば完成だ。
ちょうど茶碗蒸しができたのと同時に家の扉が開く。
「ただいま」
「おかえりなさい姉さん」
「茶碗蒸しじゃん。嬉しいなぁ」
「まだ他のご飯ができていませんので茶碗蒸しをつまんでおいてください」
「は〜い」
姉は茶碗蒸しを手にして嬉しそうに食卓へと向かった。次は味噌汁だ。丁度いい時に昨日、魚屋の店長から鯖をもらったところだ。
今回は無塩の生鯖だったので先に切り身にして塩を振っておいた。十分ほど置いてたら鯖から出た水分をキッチンペーパーで拭き取る。
冷めたフライパンに油をしき皮を下にして並べ中火に焼く。皮目に焼き色がついたら裏返し蓋を被せ弱火で五分、蒸し焼きにして完成だ。
味噌は江戸前味噌と信州味噌を配合した味噌だ。この配合だけは師匠から厳しく教え込まれた。
『料理も戦さも最後は加減じゃ』
あの言葉は今でも残り続けている。
鍋に水と出汁を注ぎ、中火にかける。沸騰したら先に切った野菜を入れ、野菜が柔らかくなったら一センチに切った豆腐を鍋に入れる。
味噌を溶く時は極弱火にして鍋から出汁を少しすくい味噌とよく溶き合わせる。仕上げに味醂を小さじ一ほど加えて沸騰寸前で止めたら完成だ。
「姉さん夕飯の準備ができました。食卓へ来てください」
「は〜い」
食卓に味噌汁と鯖を置き手を合わせて味噌汁を飲む。
「……美味い」
やはり修行時代を思い出す味である。師匠が俺に唯一教えてくれた料理だ。
「やっぱ、裕朔の味噌汁美味いよね。どこで教わったの?」
「師匠に教わりました」
本題を切り出そうと姉の様子を伺うように話を切り出す。
「姉さん」
「ん?なに」
「実は剣道協会から呼ばれまして。もしかしたら仕事が入るかもしれません」
「そうなの?別に良いじゃん仕ことしてきたら。お姉ちゃんはそのぐらいで怒らない」
そう頬を膨らませて少し不服そうにしていた。
「なので今週の土曜日、東京へ行きます」
「いってらっしゃい。なにかあったらお姉ちゃんに電話をかけるんだよ」
その後は談話し食事を終えいつも通り生活して土曜日となった。昇段試験の時ぶりだろうか東京に来るなんて、剣道協会のある八代田区に訪れた。
協会に入るやいなやもう既に視線が突き刺さる。受け付けへとあの日のように尋ねる。
「柊裕朔です」
「はい、柊様ですね。会長室は当ビルの六階を右手に進んでもらえればございます」
「承知しました」
案内通り階段で六階まで上がり会長室の前に立った。ノックをし『入って』と聞こえたので入室する。
「失礼します」
「待っていたよ。柊君」
その一言だけで部屋の空気を張り詰めさせる。会長の穏やかなさとは裏腹に身体を切り裂くのような鋭さを帯びており、ここに来て視線だけで何度か斬りつけられた感覚がする。例えるならば人を殺してきた大蛇のようだ。
「はじめまして。警視監兼剣道協会会長の栄永志郎と申します」
差し伸べられた手を握る。その手は確かに剣士の手だ。
掌には竹刀だけではつかない厚い胼胝があった。真剣を振り続けた者の手だ。
「朽葉流免許皆伝者、柊裕朔です」
朽葉流、そう口に出すと目が僅かに見開かれた。少し握る手が強く感じる。
だが観察すると少し妙だ。掌にはファンデーションでは隠しきれない傷跡がある。
一目見れば分かるこれは刀傷だ。
左目にも同じような傷が走っている。なにかのこと件に巻き込まれていたのは明らかだろう。
「まぁ座ってよ」
重厚感のある革製のソファーに座り、会長は秘書を呼び紅茶を注いでくれた。
「まず遅れたけれど昇段おめでとう。動画で見たが見ことだった」
「いえ、試験を設けていただいた会長のおかげです」
呼吸の音が聞こえるほどに静寂に包まれている。会長は紅茶を一口飲み含み、静かにカップを置く。
「……君を“特任指南役”に据えたい」
森閑とする部屋にその言葉だけが残った。特任指南役なんぞ聞いたことがない。
「特任指南役とはどういったことを行うのですか?」
「通常の剣道や居合の指導ではない。特殊部隊や自衛隊に実戦を前提とした武術指導を行う役だ」
「ですが何故私を選定なされたのですか?私以外にも剣術家、剣道家は数多くおられます」
「私の見解としてはだね。柊裕朔だからこそ意味があると思うのだ」
言っていることは分からないことではない。だが別に俺である理由はあまり理解できないが、昇段させて頂いた恩もある。
「私はね。年齢より実力で選びたいんだ」
「お言葉ですが経験を積んでいらっしゃるお師匠さん達の方がよろしいかと」
「謙遜は要らないよ。それなりの対価も君の都合に合わせる。それに君は剣道家では七段の資格者、剣術家としては朽葉流の資格者でもあるじゃないか?」
鋭い眼差しで目を合わせてくる。だが何故か既視感を感じる。
「実戦を知る者はいない」
「私は戦場を知りません」
「今の剣道家は剣を知っている。しかし剣を使うことは知らない」
「まずそれ以前の問題で学生の身分で警察特殊部隊や自衛隊に剣術を教えなければならないのですか」
会話を試みるも理由をつけて俺に任命を申し込んでくる。そこには確かな意地を感じた。
「君の父ならば受け入れてくれただろう」
「……父、颯迅を知っているのですか?」
「兄弟みたいなものだったよ」
「少しお伺いしてもよろしいでしょうか」
「彼が今の私の礎を作ったのだ」
「どういう意味ですか?」
「その件はまた別の機会で話そう」
会長はどこか遠い目をしていた。
「柊は自分の身を呈して、人を守る素晴らしい刑事だった」
どうやら話を聞くと会長と父は元々は配属先の先輩後輩の存在だったらしく、二人で動くことが多かったらしい。
「少々昔話が長くなったな」
「いえ、私が聞いたものですから」
「それで特任指南役の件は引き受けてくれるかな?」
父の同僚だったと言うことは多少なりとも恩義があるはずだ。他にも昇段の許可したお人だ。
父さんならば……
「特任指南役、謹んでお受けしますが、しかし一つの条件を聞き入れてくださるならば」
「ほう、聞こうじゃないかその条件を」
「一つは私にも生活があるので特任指南役になった暁にはご内密にお願いします」
沈黙が少しだけ流れた。受け入れてもらえなかったのか……
「条件、聞き受けた。それは助かるよ流石は柊の子だ。書類を渡しておくからまた書類を郵送しておいてほしい」
「あと、この件は他言無用で頼むよ」
「承知しました」
書類を手渡され去り際に栄永さんの机に飾られた写真へ目が留まる。中央に会長が立っている。そして父さんのその隣の男性の顔面を黒く塗りつぶされている。……妙な写真だ。
一瞬だけ気になったが今は関係ない話だろう。
家に帰り書類を確認すると保護者と後見人の署名がいるようだ。
後見人はたしか、叔母と剣術修行をする為に師匠、あと一人誰かいた記憶がある。
師匠を訪ねるのも気が引ける。叔母も遠方だ。
……どうしたものか。
とりあえず姉さんの帰りを待とう。そうしていつものように家ことを終えて食ことを済ませて皿洗いをしている途中のことだった。
「そう言えば今日の件どうだったの?」
「その件なんですが、後見人の署名がいるようでして」
「え、後見人の署名も、保護者だけじゃない普通?」
「えぇそうなんですが書類を私の部屋に置いてあります」
「うん見てくるよ」
階段を上がり書類を持って食卓で広げ、そこにはたしかに二つの署名欄がある。
「本当だね。最近は全然会えてないけど……“武蔵野さん”なら署名してくれると思うよ」
「武蔵野……さん?」
名前を聞いても顔すら思い浮かべず、どの記憶を探しても思い出せない。




