神奈川帰還 弐
そうして歩いて麓に下山し、駅の始発を待つとそこには写真機を持った若い女性がいた。自然の風景を撮っていたと思いきや此方に歩み寄ってきた。
「少し良いかな」
「どうしましたか?」
「君、噂に聞く。努力の剣聖だよね」
「世間ではそう言われています」
「私は駅野竹沙、しがない写真家」
そう言い彼女は名刺を俺に渡す。あまり顔は暗くて見えなかったが異国の人間の様に肌が白く美しい容姿だった。
「何故貴方は所に?」
「お祖母ちゃんの家がここなの、んで寝てたら終電逃してしまってね」
「貴方も神奈川に向かうんですか」
「そう、て事は君も?」
「はい」
彼女を観察すると大人ではないと思った。服は恐らく制服。さっき写真を撮っていた時の構えがまだ少し拙かったからだ。
「貴方まだ高校生でしょう」
「ん?何でそう思ったの」
「勘です」
俺が言うと彼女の瞳孔が開いた。これで確信した。この人が高校生である事を。
「正解、私は“東桜”の学生」
「……東桜ですか」
「そうだけど、それがどうしたのかな?」
「別に何もございません」
「それなら良いけど」
電車が来る音が鳴り、駅野とは別れた。駅に乗ると車内はあまり暖かくなかった。
向かいの席は駅野がいた。駅が発車し畑の風景が駆け巡る。遂にこの地から離れる。少し風景を眺めていると駅野が喋りだす。
「君、笑わないの?」
「笑う理由がないですから」
「風景を見たら自然と微笑むものなんだよ」
「少なくても私は笑いません」
俺がそう言うと駅野は訝しむ様に俺を見つめた。自然の風家も徐々に走行速度速くなる。
「人間は感情があるの」
「不必要な感情は削ぎ落としました」
「感情は完璧に削りきれない」
「……感情が削ぎきれてない?」
俺が感情を削ぎきれていない?この女、何を言っているのだろうか。
「……何を根拠に」
「根拠なんてないよ。だって感情は目には見えないからね」
「不思議な人だ」
「よく言われる」
実際問題、感情の定義は曖昧で不明瞭なのである。だがこれは一つだけ言える。
”必ず使命を遂行する”ただそれだけだ。
例え感情が凍りつこうとこれだけは変わらない。
電車の速度に相互するように日が昇ってゆく。朝日がじんわりと肌に差し込む。窓はさっきの薄暗さとは打って変わって日光が窓に反射し橙色に輝いていた。
揺られる事三十分。
遠くに、かつて昔に良く素振りした海岸が見えた。そして俺の人生を変えられた場所、――如月市東桜町。
「如月〜如月です。四至本株式会社、東桜高等学校、青紺海岸にお越しのお客様はここでお降りください」
神奈川県の中でも指折りで都会なこの場所は田舎と混合した不思議な街だ。俺は都会側の内陸部ではなく海岸部に住んでいた。
俺は下車し、駅の改札を越えると久々に潮風が俺の鼻腔を刺した。
あぁ、戻って来たんだな。朝は早くまだビル群の会社は空いていない。一人だけこの世界に閉じ込められた様な気分だ。
そして俺は記憶を当てに実家に向かう。
足は迷わないが心が追いついていない。
歩く事二十分。青紺海岸はまだ深夜の空のままだった。潮風は依然として変わらない。そうして見覚えのある家の前に立った。俺はインターホンを押す。
ピンポーン
インターホンの音が鳴ると髪の長い女性が出てきた。その女性こそが我が姉、柊望琴だ。姉さんは一瞬俺を認識できずに呆然としていたが、俺だと気づき勢い良く抱き締めて来た。
「ただいま戻りました。姉さん」
「裕朔……おかえりなさい。会いたかった……」
泣いているのか分からないが俺を抱き締めて離さない。俺もそれに答え抱き締める。鼓動がこんなにも速いものだったのかと思い出す。人肌の温もりを感じたのはいつぶりだろうか。体温を感じる。心臓の鼓動も伝わってくる。
「今度こそ貴女から離れません」
「えぇ……これからは二人で暮らそうね」
姉さんが背中に巻いた腕を解き、家に入るよう促し俺は家へと入った。
何も変わっていなかった。まるで七年前から時が止まっていたかの様だった。
障子からは日光が差し檜の床を照らす。地面を歩くと床が軋む。経年劣化を感じるがそれが今は心地良いのだ。
リビングに着くと恐らく如月市の中学校の制服が置いてあった。
「一応転校の扱いだから明日から頑張って」
「はい承知しました」
俺が返事をすると姉さんは「朝ご飯作るから待ってて」と言い台所に行く。
そうして数十分が経ちまだ姉さんが戻って来ない。何なら少し焦げ臭い。
――これは異変だ。
台所に行くとそこには、戦場の様に悲惨な光景が広がっていた。
野菜は全て見る影もなくなっており、フライパンの中には肉だった何かがあった。
「……これは」
「どうしたの?」
あまりにも酷い有り様に……食材が悔やまられる。俺は我慢できず前に出る。
「私がやります」
「なんで?」
「天に登った生物の供養です」
「ちょっと何言ってるか分からない」
「取り敢えず台所に立たないでください」
取り敢えず冷蔵庫を覗くとこれまた酷い有り様で消費期限が過ぎた生姜のチューブ、チルド室の肉は焼いていないのに茶色い。
冷蔵庫の衛生観念が終わっている。俺が出た七年間、本当にどうして来たのだろう。
「確か姉さんは与那嶺の叔母にお世話になったんですよね?」
「そうだけどそれがどうしたの?」
「その……お料理の方は教わらなかったんですか?」
「教わったよ。よく分からないけど叔母さんが『もういいよ。ウチが間違えたは〜』とか言って教えるのやめたよ」
俺は思わず頭を抱えた。叔母さんが匙を投げたのも納得だ。取り敢えず買い出しに行くしかない。
「取り敢えず買い出しに出かけます」
「なんで?」
「冷蔵庫の中身がおぞましいからです」
「分かったよ。じゃ私、行ってくるから」
俺は姉が買ってくる食材を予想するが、珍味しか買ってこなさそう。
その時、姉が出ようとして玄関に立つ。俺は走り姉さんの元へ駆け抜けるがもう遅かった様で鍵を閉められた。
「終わった……」
終わった理由はただ一つ家の合鍵を持っていない為、家の戸締まりが出来ない。
その為、俺はこの家を出ることが出来ない。
……覚悟を決めるしかないか。
三十分後、家の扉が開く音がして、リビングに姉が戻って来た。手提げ袋の中には鮪が見えた。
「……何故鮪と葱?」
「ねぎトロが食べたくて」
「承知しました。早速取り掛かります」
まず最初にフライパンに、酒、醤油、味醂を煮立たせ小皿に入れ冷やし、まな板を用意しネギを刻む。
ネギを別の皿に移し鮪を置き、包丁の峰で叩く。そうしてご飯を丼によそいで叩いた鮪を乗せ刻みネギを入れ冷やしたタレをかけて完成だ。
「凄い……私より色がある」
「普通は色があります」
ねぎトロ丼を食卓に運び手を合わせ姉が箸を口に運ぶ。
少しの沈黙が流れた。
……口に合わなかったのだろうか?
「……美味しぃ」
「良かったです」
後は他愛もない話をしていた。山修行の生活はどうだったとか、勉強はしていたのかとか、様座な事を聞かれ答える。
これがただの日常なのだろうか。
日が暮れ姉が「夕飯は何処に外食しよう」と言い。地元の定食屋に行く事になった。
「大将さん裕朔、帰ってきたよ」
「おぉ!!朔坊、デカくなりよって」
「お久しぶりです。大将」
「よぉ〜し、今回はお代はいらねぇ。戻って来た祝にな!!」
「では……お言葉に甘えさせて頂きます」
あの時、養老が言っていた。『奢られる時は奢られるのが暗黙の了解』だと。
大将はにこやかに「あいよ!!」と元気良く言う。
台所はシャキシャキと葉物野菜を切る音が聞こえ、香味野菜の匂いが鼻腔を突き抜ける。台所はやけに騒がしい。こんな日もあってもいいだろう。
「お上がりよ!!」
置かれた料理は、親子丼にトンカツ、そして”オムライス”だ。
「……何故、オムライスを?」
「んぁ?朔坊、良く『お母さんのオムライスが好きなんだ』と言ってたから、好きなのかと思ったんだが」
『母さんのオムライスが好きなんだ』
……遠い記憶だが、確かに母のオムライスが好きだった。
置かれたオムライスはあの時の様にバターライスにケチャップがかかっていない。
……母が作っていたものと同じだった。
「……えぇ、好きですよ」
「ならよかった」
これ俺はオムライスを食べ終え他の料理を食べようと視線を移すと、置いてあった料理の半分が消えていた。跡形もなく、そこに何も無かったかの様に。
「姉さん、ここにあった料理は何処へ」
「……ん?私が食べた」
「あの量を?」
「うん」
この量を一人で平らげたのか……
明らかに二人前以上はあったのに、これは家計に響きそうだ。
そうして夜が更け自分の部屋となる所へと向かう。そこは俺が成長したらくれてやると言っていた空き部屋だ。
俺は入る事なく山へ行ったので内装はまだ知らない。
扉を開けるとそこには、檜の床が約五畳の剣道の鍛錬が出来るスペースがあり、一段上がれば書斎が設けられており大正時代を思わせる様な和室がある。
「……父さん」
父はきっと俺の未来を思って部屋を設計してくれたのだろう。
今、両親が生きていたとすればどうなっていたのだろう。
ふと、窓を開けると潮風が優しく頬を撫でた。
外は星々が輝き、細波の音が耳に届く。
埠頭の方向を見ると貨物船や遊覧船が並ぶ。街灯は、橙色の眩い光を放っていた。
こう言う景色は嫌いではない。少し寒くなり窓を閉め、布団を敷き眠りにつく。
翌日になり転校先に行く事になった。
かと言う中学校の生活も変わらず俺も三年生だったのでとっくの前に剣道部は引退している時期だ。
そして東桜の推薦者は面接だけが入学採用の様で面接も予想できる事ばかりですんなり終わった。
そうして結果――採用。
ここからが戦場の始まりだ。
だが、俺はもうすでに嫌な予感がする。




