神奈川帰還 壱
推薦証を目を細めもう一度目を通す。
姉がいる神奈川へと戻らなければならない。この道場を去るということは師匠が独り身になってしまう。それが一番気がかりだ。
師匠も御歳、八十三歳だ。彼には孤独死なんてさせたくない気持ちはある。
少し困っていると後ろから声が聞こえる。
「どうした。柊よ」
「……い、いえ何もございません」
俺は手に持った推薦証を一瞬で隠した。
そう思ったがやはり師匠には見透かされているようで真剣な面持ちな表情になった。
「嘘じゃな、ちゃんと言え」
「神奈川の高校から推薦が届きました」
俺は正直に言った。そうすると師匠は真剣な顔から普通の表情に戻った。
「では明日から神奈川に行くといい」
「ですが――」
「お主のことだからきっと儂のことを心配しているのだろう」
「はい」
「どうせ老い先短いんじゃ、お主の七年間以上の生活と比べたら短い。じゃから行ってこい」
俺はどうしたらのだろう。だが師匠の気持ちを無碍にはできない。結局俺が出した結論は――
「承知しました」
俺はこの山梨の山奥から出ることを決めた。世話になった人々に別れを告げる為、よく野菜を分けてくれた八百屋の方へと向かった。
「店長」
「おぉ、朽葉さん所のお弟子さん今日は何を買いに来たんだ」
「いえ今日は買いに来た訳ではなくてですね」
「ほぉ……珍しいな君がおり言った話をするなんて」
「実は明日にはこの村を出るんです」
「そうかぁ、君も高校生だったもんな、そうだ――ちょっと待ってな」
彼は何かを思い出したようで店の奥へと行きある物を手にして戻って来た。
「写真機?」
「そう、朽葉さんと二人で写真を撮ったらどうだ。おじさん写真撮るの得意だから撮るよ」
「良いんですか?」
「あぁ君は偶におじさんの手伝ってくれたじゃないか。その恩を返すだけだよ」
正直な話、写真はあまり得意ではない。何故なら過去を引きずってしまうからだ。
「写真は、あまり得意ではないんです」
「残さないと、顔を忘れてしまうぞ。人間は意外と忘れるからな」
「……お願いしても良いんですか?」
「喜んで」
俺は店長を連れて道場へと戻る。景色は何時もとからないはずだが、今はこの青空は哀愁が滲んでいるように感じる。そして道場に着き、師匠の元へ行く。
「師匠、少し宜しいですか?」
「どうしたんじゃ。柊」
「……ここを出る前に写真を撮りませんか」
意を決して俺は師匠に尋ねた。師匠は断るのではないかと思ったからだ。だが師匠は意外と肯定的だった。
「写真を撮るのは久方ぶりだろう」
「宜しいんですか?」
師匠は道場の換気戸から青空を見つめ少し遠い目をしこう告げる。
「形に残るのも悪くないのぉ」
何処か悟ったような声色をしていた。俺は店長を呼びに行き、数分をかけて撮影の準備が整った。
「二人とも笑いのかい?」
「笑い方を忘れてしまったもんじゃから」
その瞬間、写真が撮られた。
「何故今のタイミングに?」
「両方が微笑んでたからだよ。両方不器用だけど」
「そうですか、撮ってくださってありがとうございます」
「現像に二時間くらいかかるから、二時間後に家に来てよ」
彼はそう言い道具を片付け道場を去った。そうしてその時間の間は鍛錬をする。この何時も通りの稽古も神奈川に戻ったたら、稽古の内容を変えないと行けない。
面倒だがもう朽葉卯士郎と言う親元を離れる覚悟を決めた。
俺は白装束に着替え滝へと向かった。木枯らしの季節は木漏れ日が差しても寒い。森の中の樹木はまだ深緑のままだ。
そうして滝に着き入水し、水が骨を砕くように落ちる。
「……」
俺は全ての雑念を捨て滝に打たれる。水の冷たさ、風、環境は変わっていないそう思ったが、何時もより水圧が強い。今までこんなに強くはなかった。
その瞬間、ふと両親のことを思い出した。
あの日の死体の記憶ではない。
亡き父の記憶だ。
『ここまでにしよう。裕朔』
『お父さん、ですが……まだ俺できる』
『裕朔、剣士には時に必要なことを教えてやろう』
『必要なこと?』
『必要なことは二つ、一つは自分の限界を理解する。もう二つは中立だ』
この微かな記憶が脳を駆け巡った瞬間、膝が震え、水が肺を押しつぶす感覚がした。俺は中断せず滝行を終えた。
何時もはそのまま道場へ帰る所だが、俺は空を仰ぐ。群青の空は、灰色に見えたような気がした。
俺は道場へと戻り脱衣所でバスタオルで身体を拭い、水を吸った白装束を捻り洗濯をし外に干す。そうして昼食を用意し食卓へと運びまた何時ものように二人で食べた。
午後の鍛錬へと勤しむ。そうして夜が近づき晩飯を作った。今日は豚が手に入ったので生姜焼きだ。食卓にはもう師匠がもう座っていた。
「柊よ、これを」
師匠は数時間前に撮った写真を持っていた。俺としたことが撮り忘れてしまった。
「申し訳ございません。師匠にお手数をおおかけして」
「謝らんで良い、儂から渡したいと思ってのぉ」
「どう言うことです?」
「歳を取るとの、若者を喜ばせたくなるんじゃ」
そう言い現像した写真を渡した。八百屋の店長が言っていたように確かに微笑んでいたが師匠も俺も両方、何処か不器用だった。だがこれで良いのだろう。
「ほれ、何時までも見とらんでお主が作った飯を食べよう」
「はい」
一緒に食卓を囲むのもこれで最後か。この七年間以上を締め括るには贅沢だった、だが今日ぐらい贅沢を許してくれるだろう。そう思いこの晩飯を噛み締めた。
俺は自分の部屋に戻り、出る身支度をしていた。かと言う俺は物が少なくせいぜいデカいのは防具だけだ。今日撮った写真を眺め、入れる所がなかったので日誌に挟みカバンに入れた。そうして就寝時間が近づき俺はふと思った。
『何故父さんは師匠に俺を預けたのだろう』と、今覚えば不思議な話だ。姉は祖父と祖母に預けていたのに何故俺は師匠に引き取られたのだろう。気になった俺は師匠の元の部屋の前に立ち軽くノックをする。
「入れ」
「失礼します」
そうすると何時も吸っていない煙管を吸っていた。
「煙管は身体に害が及びますよ」
「儂でも吸う時だってある、それに新月の日は、星空が綺麗じゃからの」
師匠がそう言い終わり手に持つ煙管が少し震えている。俺は意を決して言おうとしたその瞬間――
「お主が引き取られた理由が知りたくなったのだろう」
「何故、お分かりに?」
「仮にも七年間も同じ屋根の下で暮らしている。お主が言いそうなくらいあらかた予想がつくわい」
「やはり……師匠には敵いません」
「では本題に入ろう」
張り詰めた空気が部屋を支配する。夜風が冷たく秋の終りを感じた。
真剣に師匠に目を合わせて話を聞く。
「お主の父、柊颯迅が託した理由は、『私が何かあった時、息子の柊裕朔を強くしてください』とな」
「理由は理解しました。ですが師匠と父はどういう経緯だったんですか?」
「それは、養老秀隆を知っておるな」
「はい、以前の試験で剣を交えました」
「実は昔よく会っていた時期があっての、そして十年前に、久しぶりに来たと思いきや養老の付き人の若い男が急に儂の元へ駆け寄りこう言ったのじゃ」
師匠の目は遠くを見据え俺にこう告げる。
「その若い男は自分を柊颯迅と名乗り、その時に一回、稽古をつけて欲しいと言われ稽古をしたんじゃ」
「そして奴はこう言った、『私の息子は剣に秀でています』と言ったのじゃ。その頃からお主の資質には気づいておった」
「私には剣術や剣道に関する才能はありません」
「別に剣術や剣道に才能があったわけじゃない」
別に剣術や剣道に才能があったわけじゃないのは自分がよく知っている。
部屋はより一層夜風が寒く感じた。
「聡明であったがそれよりも、“執念”が異常じゃった」
「執念ですか?」
「何にとっても教えたら直ぐに実行し五日あればそれを執念で完璧に再現していた」
「そんなことはないです」
「そうじゃないと血が出るほどの稽古や特別試験で剣道七段に昇段せぬ」
師匠は少し喋り過ぎたようで疲れを見せていたが、師匠は声色は変わらずこう告げた。
「じゃが、お主の父親の言う通りに強い弟子に育て上げれた。それはお主が努力をし、真価が現れた」
「いえ師匠がいたから今の私があるんです」
「じゃがこれだけは言っておく――“刀に乗っ取られるな”」
その言葉はやけに俺の耳に響きしっかりと覚えた。夜が更けて就寝時間通りに寝なかったのも始めたかもしれない。
「はい。承知しました」
「もう全部喋った。もう部屋に帰れ、明日に遅れることがないように」
そうして俺はそれを聞き終り自室へと戻る。だが父さんの考えていることは良く分からない。俺は剣には秀でていないと、ただただ思う。
無性に少し空を見たくなり木製窓を開けると星空が広がっていた。だが唯一欠けているとするなら今宵は月がない新月だからだ。だがこういう日も悪くないだろう。
月が照らされ無くても夜空は輝ける。そんな気がした。オコジョのぬいぐるみを抱き就寝につく。
翌日の早朝四時半、この道場を出ようと荷物を持ち去ろうとした。道場の玄関の引き戸を開け朝風を浴びる。外はまだ陽が昇りきっておらず、夜は徐々に明るくなるころだ。そうして出ようとした瞬間、後ろから視線を感じ振り向くと師匠がいた。
「行ってこい。柊よ」
「はい、行って参ります」
短い会話だった。だが師匠と俺はこれで良かったのだ。俺がもう一度、振り向くことはなかった。振り向けばきっと足が止まってしまうだろう。
向かい風は冷たく、肌を凍てつくあの日と似た感覚に陥りそうだ。




