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6、物語への没入

 東言葉あずまことのはは朝から元気がなかった。

 昨夜は八井田玄の遺産を読むために一睡もしなかった。

 そのまま仕事を休もうと思ったが、会社の倉庫に置いたままの遺産の残りを回収する必要があったので、こうして会社にやってきていた。


 集中力が途切れ、午前中の事務作業はミスが続いた。

 周りの者も言葉の体調不良には気がついていた。


「先輩、今日は運転しないほうがいいですね。午後の予約の件、私が対応します」

「よろしく頼む」


 言葉は仕事を部下に任せて、今日は事務作業に徹した。

 しかし、仕事ははかどらなかった。徹夜明けというだけでなく、小説の続きを読みたいという衝動も強かった。

 どれだけ眠気が強くても、読みたいという気持ちのほうがずっと強かった。


 午後、言葉は早退することにした。


「ひどく具合が悪そうだけど、大丈夫なのかね?」

「はい、週明けにはいつもどおり復帰できると思いますので」


 言葉はそう断りを入れて早退した。


 会社の言葉への評価は高い。

 物件契約数は彼女が常にトップだった。特に大口契約が多く、会社の業績を一人で支えているような状態だった。

 しかし、契約の手続きや管理業務には怠慢が多かったり、仲間意識が低かったりと強みと弱みが両極端でもあった。

 会社の業績にとって欠かすことができない一方で、従業員としてはとても扱いにくい人物だった。


 早退した言葉は睡眠を取るよりも、八井田玄の遺産を読破することを優先して物語に没入した。


 八井田玄の遺産は全九九九編。原稿用紙に換算して約九万枚にもなる。

 読み切るのは容易ではなく、理解するには一生を費やす覚悟が必要だった。


 八井田玄の超大作「神の死んだ日」は物語の核心部分に入っていった。


 小麦として現世に降りたノワーゼットは、人間が狂っていく様をまざまざと見ていた。

 人間たちは長い年月をかけて培ってきた「知性」を捨てて、ハンバーガーにかぶりつき始めた。

 喰らうほど過食はひどくなり、欲望はとどまることを知らず大きくなり、ハンバーガーを齧っては携帯電話をいじり、そして虚無感にさらされてはギャンブルにのめり込むという悪夢に取り込まれていった。


 ノワーゼットは小麦が「禁断の果実」そのものであることを悟った。

 神が人間に禁断の果実を与えた理由が百ページ以上にわたって描かれていた。


 人間の中に眠っている神をも超越する「全能性」を目覚めさせないために、神は人間に「快楽」を与えたのだと綴られていた。

 しかし、快楽に溺れなかった人間がいる。

 神は快楽に溺れない叡智の極みへ到達しようとする人間を抹殺する術を心得ていた。


 神は賢者の突出に対して「孤独」を送り込んだ。ノワーゼットもまた「孤独」としてある哲学者にとりついた。


 孤独の蝕みにより、人間はすべからく人生に「快楽」のみを求める身となっていく。


 言葉は超大作「神の死んだ日」を六百編まで読み終えた。

 気が付くと、また午前三時を過ぎていた。さすがに眠らなければ体力が持ちそうになかった。


 言葉は寝床についたがしばらく寝付けなかった。

 神はいかにして死ぬことになるのか。それが気になってなかなか眠りに落ちることがなかった。


 翌日、遅い時間に起きた言葉はこの週末で「神の死んだ日」を読破する決意を固めた。

 必要な食糧を買い集めると、彼女は原稿用紙にその身のすべてを投じた。


 快楽を得るために生きるようになった人類は安定していた。

 奪い合い、戦争を繰り返し、経済によって世界を統治し、その様は理想的な生態系そのものだった。


 ノワーゼットは無能の本質を知っていく。

 無能とは、自分が手に入れることができぬものに手を伸ばす様であると。


 ノワーゼットは己の無能を知る。

 無能とは、神を討とうとする己の様であると。


 物語の佳境、ノワーゼットと神の戦争が描かれた。


 ノワーゼットは人間だけが神を討つことができると確信した。そして、ついにその方法を見つけ出す。


 言葉は「神の死んだ日」の最終章である「第九九九編」に差し掛かった。


 あまりにあっけない幕切れ、あまりに悲しい結末。


 何も見ない、何も聞かない、何も言わない、何も感じない……死。

 人間は自らの意思で滅ぶことができた。

 神は快楽によって人間の繁栄を維持していたが、人間はそのプリズンに対して究極の暴力「自滅」を選択することができた。


 

 あなたを知る者がいなくなった……あなたは死んだのだ。

 神を知る者がいなくなった……神は死んだのだ。


 そして……。


 言葉は一通り「神の死んだ日」を読み終えた。

 完読した感想を心の中につぶやいた。


 あまりにひどい駄作……。


 小説家になるなんて、馬鹿げた夢としか言いようがない、あまりにもくだらない書物だった。


 言葉はそっと音を立てずにソファーから腰を上げた。

 このどうしようもない駄作、誰も読むことがない駄作、虚空の果てに消え去るだけの駄作。


 言葉は不動産管理会社に転職する前は、腕利きの編集者として働いていた。

 彼女には編集者としてのポリシーがあった。


 医者が死にゆく者に命を与えるように、編集者は消えゆく書物に命を与えるのだ。

 ベストセラーに編集者はいらない。この死にゆくだけの悲しい思想を助けることができなければ、編集者という職業はタダ飯食いの寄生虫に過ぎない。


 言葉は決意した。必ず、「神の死んだ日」を世に送り出すと。

 究極の駄作の編集は、言葉にとって己のすべてが試された最も大きな仕事だった。

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