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ただの少女に魔法陣

そう由眼が静かに呟いた瞬間、まるで世界そのものが息を止めたかのように辺りから一切の音が消え去り、吹いていた風も、舞い上がっていた砂埃も、空中へ浮かんでいた瓦礫さえも、その瞬間の姿のまま完全に静止してしまった。

あまりにも静かな世界だった。

玲司は目の前で起きた現実を理解できず、固まったまま辺りを見回しながら震える声で問い掛ける。

「えっ……時間停止?」

由眼はそんな玲司の反応を見て、小さく笑みを浮かべながら静かに頷いた。

「そうよ。」

玲司はまだ信じられないという表情のまま、止まった世界と由眼を何度も見比べる。

「使えたのか。」

その言葉に由眼はどこか誇らしそうな表情を浮かべ、胸を張るように微笑んだ。

「そうよ。」

その笑顔は、幼い頃から誰にも理解されず、それでも諦めることなく禁忌へ挑み続けた笑顔。

玲司は思わず苦笑しながら肩を竦める。

「不可能だって、自分で言ってたじゃねぇか。」

由眼は白杖を軽く握り直すと、その言葉を待っていたかのように玲司の方を向き、少しだけ得意そうな顔で答える。

「不可能を壊して、人類は進歩するのよ。」

その一言には、何度も時間を巻き戻し、自分の身体を削り、視力も髪も失い、それでも最後まで研究を諦めなかった由眼の人生そのものが詰まっていた。

そう言い終えると、由眼は玲司と繋いでいた手をゆっくりと離し、その温もりが指先から少しずつ消えていくのを確かめるように、小さく息を吐いた。

そして白杖を静かに地面へ突くと、足元には幾重にも重なった複雑な魔法陣が展開され、空間そのものがゆっくりと歪み始める。

「早くビルへ行きなさい。」

玲司はその言葉よりも、由眼の表情が気になった。

どこか悲しそうで。

どこか寂しそうで。

まるで最初から別れを覚悟していた人間のような顔だった。

「由眼……?」

玲司が思わず名前を呼ぶ。

瞬間移動魔法が発動する、そのほんの一瞬前だった。

由眼は小さく口を開き、誰にも聞こえないくらいの声で何かを呟く。

最後まで聞き取ることはできなかった。

次の瞬間、視界が真っ白に染まり、身体がふわりと浮かび上がるような感覚に包まれる。

気付けば玲司は、本社ビルのロビーへ一人だけ立っていた。

「由眼……!」

思わず叫ぶ。

だが返事はない。

時間の止まった世界では、自分の声だけが虚しく響いて消えていくだけだった。

玲司は強く拳を握り締める。

「上の人間を探さないと。」

今やるべきことは一つしかない。

由眼が命を懸けて作ってくれた時間を、一秒たりとも無駄にはできない。

玲司は振り返ることなく、ビルの奥へ向かって全力で駆け出した。

その頃、広場では。

カンッ。

静まり返った世界に、白杖が地面を叩く澄んだ音だけが静かに響く。

由眼はゆっくりと振り返ると、時間の止まったまま聖剣を構えている恒一を静かに見つめ、どこか懐かしそうに微笑みながら小さく呟いた。

「バイバイ。」

そしてもう一度、小さな声で言葉を続ける。

「頑張ってね、玲司。」

誰にも届くことのないその言葉を残すと、由眼はゆっくりと恒一の前まで歩き、その手から聖剣を静かに取り上げて少し離れた場所へ置き、今度はポケットから一本の縄を取り出して、暴れられないよう丁寧に恒一の身体を縛り始める。

それは敵を拘束するというより、大切な友人を傷付けないための優しい手つきだった。

全て縛り終えると、由眼は今度は自分の両手にも同じ縄を巻き付け、自らも逃げられないようにゆっくりと結び終える。

これで誰も動けない。

自分も。

恒一も。

全ての準備を終えた由眼は、広場の真ん中へ静かに腰を下ろし、止まったままの青空をゆっくり見上げた。

風は吹かない。

鳥は羽ばたかない。

雲は流れない。

世界中の時間が止まったこの空間で、動いているのは由眼ただ一人だけだった。

由眼は静かに目を閉じると、誰にも聞こえないよう心の中だけでゆっくりと数字を数え始める。

「一……二……三……四……五……。」

一秒一秒を惜しむように。

残された時間を噛み締めるように。

ゆっくりと数を重ねながら、小さく微笑んだ。

「あと三十秒。」

その笑顔は、どこか寂しく、それでいてどこか満足そうでもあった。

「三十秒経ったら、この魔法を解こう。」

由眼の頬を、一粒の涙が静かに伝い落ちる。

それは時間が止まった世界で唯一流れる雫だった。

由眼はその涙を拭うことなく、ただ静かに空を見上げ、小さく微笑んだ。

「これで、よかったのよ。」

誰にも聞こえないその独り言は、止まった世界の中へ静かに溶けていく。

カンッーー

その頃、玲司は本社ビルの中を必死に駆け回っていた。

長い廊下を走り抜け、次々と扉を開けながら目的の部屋を探し続ける。

「局長室……どこだ。」

息を切らしながら廊下の案内板へ飛び付き、震える指でフロアマップを確認する。

「……あった!」

目的の場所を見つけた玲司は、迷うことなく再び走り出し、角を何度も曲がりながら一直線に廊下を駆け抜ける。

そして、他の部屋より一回り大きな重厚な扉の前で足を止めた。

扉には金色の文字で刻まれている。

『局長室』

玲司は深く息を吸い込み、迷いなくドアノブへ手を掛ける。

ガチャッ。

静かな音を立てて扉が開く。

部屋の中央には、一人の男がいた。

高級そうな机に向かい、書類へペンを走らせたまま、その姿勢で完全に静止している。

時間停止の影響を受け、瞬きすら止まったその姿は、まるで精巧な人形のようだった。

玲司はゆっくりと男へ近付く。

「……この人が。」

玲司が男の目の前まで歩み寄った、その瞬間だった。

世界が僅かに揺らぐ。

空気が震える。

止まっていた時間が、ゆっくりと軋み始める。

玲司は嫌な予感に顔を上げる。

「まさか……。」

次の瞬間。

世界は大きく歪み。

時間停止が、静かに解かれた。

「おや、君は。」

局長は驚くどころか嬉しそうに目を細め、まるで突然訪ねてきた知り合いを迎えるような気軽さで玲司を見つめた。

「うちでもニュースにしてるよ。全国指名手配中の高校生が、まさか自分から僕の目の前に現れるなんてね。どういう風の吹き回しだい?」

その口調はあまりにも自然だった。

目の前にいるのは国家から追われている人間。

下手をすれば、自分まで罪に問われる立場だというのに、この男は少しも動じていない。

玲司は改めて、この人は普通の人間ではないのだと実感する。

「実は……。」

玲司は息を整えると、ここまでの出来事を一つ残らず話し始めた。

諏訪家が禁忌である時間魔法を研究していたこと。

しかし、それは諏訪家の独断ではなく、国から命令されて始めた研究だったこと。

研究が完成した瞬間、由眼は国家に裏切られ、全ての罪を押し付けられたこと。

その証拠となる研究ノートを命懸けで持ち出したこと。

そして今も仲間たちが、自分をここまで送り届けるために剣聖と戦い続けていることを。

局長は一度も口を挟まず、最後まで黙って話を聞いていた。

やがて玲司が全てを話し終えると、局長は腕を組みながら小さく息を吐く。

「そうか……相手は国か。」

その表情から笑みが消える。

部屋には数秒間、重い沈黙だけが流れた。

玲司は拳を握り締める。

やはり無理なのか。

いくら報道機関でも、相手が国家では手を出せない。

そう諦めかけた、その時だった。

局長がふっと笑う。

「相手が悪いね。下手をすれば、うちの会社ごと潰されるくらいの特大スクープだ。」

玲司の心臓が沈む。

やはり断られる。

そう思った。

しかし次の瞬間、局長は机を力強く叩きながら立ち上がった。

「でも、そんな美味しいネタを世間に出さずして、この仕事を続ける意味なんてないだろ!」

その目は記者の目だった。

権力を恐れる目ではない。

真実だけを追い求める人間の目だった。

「編集部を全員集めろ!特別号だ!裏付け班はノートの真偽を確認!映像班は緊急速報の準備!全国ネットに割り込むぞ!」

局内が一気に慌ただしくなる。

電話が鳴る。

キーボードの音が響く。

記者たちが走り回る。

誰一人として逃げようとはしなかった。

局長は玲司へ向き直ると、親指を立てて笑う。

「君たちが命懸けで持ってきた真実だ。今度は僕たち大人が命懸けで届けよう。」

その言葉を聞いた瞬間、玲司は胸が熱くなった。

局長の勇気。

自分の決断。

由眼が命を懸けて残した研究ノート。

みこととひまりの支え。

その全てが繋がって、ようやくここまで辿り着いた。

「ありがとうございます!」

玲司は深く頭を下げると、踵を返して全力で廊下を駆け出す。

もう立ち止まっている暇はない。

今も由眼たちは、自分が戻ることを信じてるはずだ。

「待ってろ、由眼!」

玲司は強く拳を握り締めながら、再び由眼のいる所へ向かって、走り出した。

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