三羽の空飛ぶ蝶々
ガチャン――。
家の扉を開けると、部屋には誰もいなかった。玄関先からは、外のカレーの匂いだけがふわりと入り込んでくる。
「……いつも通りか」
靴を脱ぎ、カバンを放り投げる。冷蔵庫の中の冷や飯をレンジに放り込み、温める。それを無言で食べ、無言で風呂に入り、無言で布団に入る。何も起きない、いつも通りの夜。
「――そうして、そのまま一人で行為に浸るのだった。」
「勝手に変なこと足さないでくれる?」
声がして、体を起こす。窓枠に、ワンピース姿の銀髪の少女が座っていた。諏訪由眼だ。
「いつの間に入ってきたんだよ!!」
「邪魔だった?」
「違う!! そういう問題じゃねぇ!!」
玲司は頭を抱える。
「時間も考えろって言ってんだよ」
「時間? 関係ある?」
まるで話が噛み合わない。由眼は軽く足を揺らしながら、淡々と言った。
「君は今、自分の立場を理解しているのかしら」
「立場?」
「君は私を助ける立場にある」
「いつからだよ!!」
「今日の教室で決まったわ」
「あー……そんなこと言ってたような気もするけどな……」
曖昧に記憶を探る玲司。だが、そんなことより問題は別にある。
「というか、なんで俺の家知ってんだよ」
「見れば分かるわ」
「ストーカーの発想なんだよそれ」
由眼は気にした様子もなく、窓から身を乗り出す。
「ほら」
そう言って、手を差し出した。次の瞬間。
――ぐい、と。説明もなく、強い力で体が引っ張られる。
「うおおおおおお!?!? 落ちる!! 落ちるって!!」
気づけば、空にいた。夜風が一気に体を叩く。
「こんなんで人は死なないわ」
「死ぬだろ普通は!!」
「月が綺麗ね」
「今それどころじゃねぇ!!」
玲司が叫んでも、由眼は涼しい顔のまま空を進む。
「降ろせ!!」
「速度を上げるわ。舌を噛まないように」
「そういう問題じゃねぇ!!」
その瞬間――。ぐん、と加速する。視界が引き伸ばされるように流れていく夜景。
「うわああああああああ!!」
玲司は心の底から思った。
――この女と関わったの、絶対に間違いだった、と。
そのまま空を飛び続け、俺たちは由眼の家へとたどり着いた。上空から見ても異常なほど大きい屋敷だ。
「あぁ、たぶんここなんだろうな……」
そう思っていたら、そのまま由眼は窓から自室へ侵入した。そして俺も連行される。
「死ぬかと思った……」
床に降ろされた瞬間、息を切らしながら言う。すると由眼は平然とした顔で、
「弱いわね」
と言った。少しイラっとしたが、なんとか飲み込む。
「それで、なんで連れてきたんだよ」
「あなたは私の付き人になりなさい」
由眼はいつも通りの上から目線で告げた。
「嫌だね。面倒くさい」
即答だった。すると由眼は、
「そう」
とだけ返し、なぜかニヤリと笑った。嫌な予感しかしない。
「一つだけ、どんな魔法でも教えてあげるつもりだったんだけど……仕方ないわね」
「部屋の掃除終わりました」
気づけば俺は頭を下げていた。
「それでいいのよ。これからよろしくね」
くそ。仕方ない。俺には夢がある。そのためなら多少の屈辱くらい飲み込んでやる。そして夜。寝る時間になり
「寝るわ。おやすみ」
由眼は当然のようにベッドへ潜り込む。そして当然のように、俺の寝る場所もそこしかなかった。
「なぁ」
「なに?」
「少しは警戒しろよ。俺だって男だぞ?」
「……」
「襲われるとか怖くないのか?
そう尋ねると、由眼は振り返りもせず言った。
「手を出すほどの度胸もないでしょ」
「……」
反論したかった。だが事実だったので何も言えなかった。なんとなく負けた気分になりながら、俺も横になる。だが、なかなか寝付けない静かな部屋。隣には由眼。意識しない方が無理だった。
「なぁ」
「まだ起きてたの?」
少し呆れた声が返ってくる。
「ずっと目を閉じてるけど、本当に盲目なのか?」
由眼は少しだけ沈黙した。そして静かに答える。
「ええ。この目はもう見えないわ」
その言葉は妙に重かった。だからこそ、前から抱いていた疑問を口にする。
「でもさ
「なに?」
「時々、絶対見えてるだろって時あるよな」
すると由眼は深いため息を吐いた。
「なに? 眠れないの?」
「違う」
「それとも、美少女と添い寝できて緊張してるの?」
「ちげぇよ!!」
即座に否定する。数秒の沈黙。その後、由眼は観念したように口を開いた。
「魔法で見ているのよ」
「魔法?」
「大気中にある魔力の流れを読むの」
由眼は天井を向いたまま続ける
「どこに何があるのか。誰がいるのか。それくらいなら分かる」
「へぇ……」
素直に感心した。魔法のことはまだ何も知らない。けれど、それがとんでもない技術だということくらいは分かる。
「すげぇな」
「そうでもないわ」
由眼は小さく呟いた。
「もっと凄いことができる人はいる」
そう言った彼女の声は、どこか寂しそうだった。
「……寝るわよ」
「ああ」
それから間もなくして、由眼の呼吸がゆっくりと安定する。眠ったのだろう。俺はしばらく天井を見つめた後、ゆっくり目を閉じた。
――入学初日。
まさか魔法使いの少女と同じベッドで寝ることになるなんて。誰が想像しただろうか。




