176 魔翼の令状
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笑みを崩さず、魔翼のクロメが近づいてくる。その右手の人差し指には、不思議な光を放つ指輪が嵌められていた。
「ソウガ君。あまりアスカさんを怒らせないでください」
笑顔とは裏腹に、その声はどこか冷たく、感情がこもっていなかった。アスカ以上に関わりたくない相手。そう思うほど、俺にとって彼女は得体の知れない存在だった。
学園総体のときに出会い、「俺の力になりたい」と言って去っていった。その後、すぐにヤクモとアクアクサ領に向かったので、それきり会っていない。
できれば、このままずっと会いたくなかった。じっとクロメを見つめていると、彼女は肩をすくめた。
「まだ、会って間もないのに、嫌われてしまったようですね。悲しいです」
まったくそう思えないほど、彼女は笑顔のままだ。人を馬鹿にしたような態度にかすかに怒りを覚えたが、カジコさんの言葉がよぎり、気持ちを落ち着けた。
「嫌いってわけじゃないですよ。ただ、貴女のことを知らないので――」
「ふふっ、私のことが知りたいのですか。それは嬉しいです」
笑みを深めるクロメ。言質を取って喜ぶ姿は、魔女そのものだった。舌打ちしたくなるが、ぐっと堪えた。
「あまり、私の婚約者を誘惑しないでくれませんか、クロメ様?」
口を開きそうになった瞬間、ナツメの声が耳に届いた。振り向くと、彼女とハンナがこちらへ近づいてきた。
「何か話があるなら、明日にお願いします。ソウガも疲れています。それにクロメ様たちも、後衛を残し、急いでこちらに来たのでしょう。少しお休みになられては?」
ハンナが笑顔で告げる。だが、その目は一切笑っていなかった。普段は大人しく、穏やかな彼女が、珍しく敵意を剥き出しにしている。
「そんな目で見ないでください、二人とも。私はただ、一時的とはいえ部下になる彼と、親睦を深めたかっただけです」
クロメはそう言いながら、胸元から一枚の紙を取り出し、俺へと差し出した。嫌な予感しかしなかったが、受け取らないわけにもいかない。
おずおずと手を伸ばす。だが、それを受け取ろうとした瞬間、目の前から消えた。
何が起きたのか分からず視線を上げると、ナツメが紙を広げ、じっと見つめていた。
「ふーん、なるほど。コイズミ陛下からの令状だね。ソウガ、どうやらクロメ様の率いる魔翼部隊に配属されることになったみたいだよ」
ナツメは手に持った令状をひらひらと揺らしながら、俺に告げた。その姿に、王に対する敬意は微塵も感じられなかった。
挑発するような彼女の態度に、クロメは一瞬目を細める。だが、すぐに笑顔へ戻り、俺のほうを向いた。
「そういうわけです。なので、私はソウガ君に命令する権利があり、あなたには従う義務があります。ですが、私は無理強いは嫌いです。それに『あなたの力になりたい』と言った言葉は、本当ですよ」
彼女は妖艶に微笑み、そっと手を差し出す。握手を求めているのは分かるが、手を出すのを躊躇う。そのとき、すっとハンナが手を伸ばし、クロメの手を握った。
「クロメ様。私たちの婚約者を気にかけていただき、ありがとうございます。ですが、ソウガを支えるのは私たちの務めです。無用な気遣いは不要です」
ハンナはクロメの目を真っすぐ見て、はっきりと告げた。穏やかな笑顔のまま、一歩も引かなかった。
張り詰めた空気が漂う中、クロメは肩をすくめながらハンナの手を離し、ナツメから令状を受け取る。
「これだけ二人に束縛されたら、ソウガ君が可哀想です。ねぇ、少しは自由になりたいでしょう? なので、私から提案します。今からファンドウを侵攻します。あなたにも付いてきてもらいます」
その言葉に息を呑む。意味が分からない。まだ、相手は攻撃も仕掛けていないのに、こちらから攻める意味がどこにあるのか。困惑し、何も考えられない。
「クロメ様、何を言っているのですか!? まだ、アクアクサ領に到着したばかりですよ。何も分かっていません!」
「……それに、ヤクモ殿下もご無事だと分かりました。急ぎ侵攻する意味があるとは思えませんが、何を企んでいるのですか?」
ハンナとナツメが同時に異議を唱えた。俺も同じ気持ちだったが、動揺して声が出なかった。代わりにクロメへ抗議してくれた二人に感謝する。
「いいえ、意味も理由もあります。まず、アクアクサ侯爵家は一時的とはいえ、殿下を人質にしました。すでに反逆の意思は十分です。それに、私たちが後衛を残してでも来た理由は、相手の態勢が整う前に襲撃するためです。殿下がいない今、何の憂いもなく攻撃できます」
クロメはハンナとナツメを見ることなく、俺だけを真っすぐ射貫き、冷たく言い放った。今までとは違い、その声には感情がこもっていた。
明らかに命令だ。もし首を横に振れば、間違いなく命令違反で俺を罰する。そう思えるほど、今のクロメには迫力と威厳があった。
正直、罪に問われても構わないと思った。だが、ナツメやハンナ、それにヤクモにも迷惑がかかるかもしれない。
最悪、俺を庇ったナツメとハンナまで、クロメは反逆者として扱われる可能性がある。
ぎゅっと手を握り締め、頷こうとした。そのとき、背後からヤクモの声が静かに降ってきた。
「それは俺が許さん。ソウガは俺を助けるために奔走し、疲れている。行くなら、お前たちだけで行け」
はっと顔を上げ、振り返る。そこにはアスカと、俺を助けてくれた青年兵を伴って、こちらに歩み寄るヤクモの姿があった。
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