162 暗い海に伸びた手
熊本で発生した地震の影響により、しばらくは家族のケアと仕事を優先させていただきます。
そのため、更新を一週間ほどお休みします。状況が落ち着きましたら、再開いたします。
皆さまも、どうか安全を最優先にお過ごしください。
俺は大きな衝撃を感じ、目を開いた。
眼前に広がるのは薄暗く、無造作に木箱が積まれた場所。そこは絶えず揺れ続けていた。起き上がろうとするが、手足を縛られている。
(ここは、どこだ。たしか俺は……)
必死に思い出そうとするが、頭に激痛が走り、思考を遮る。手で押さえたいが、縛られていて何もできない。
そのとき、かすかに声が聞こえた。
「親父、やり過ぎだ。彼はこの領地を救った恩人だ。いくらソウケンさんからの指示とは言え、海に捨てるなんて!」
俺は思わず息を呑む。あの声は、たしか酒瓶を持っていた青年だ。俺より少し年上に見えた。
そして、父親というのは、俺たちを漁師たちの集会に誘った男だ。波のように何度も押し寄せる激痛に堪えながら、必死に思い出す。
――たしか、酒が飲めない俺は、最初の一杯以降、口にしなかった。ヤクモも俺よりは飲めるが、嗜む程度に抑えていた。とても酔うとは思えない。
(いったい、いつ俺は意識を失った。それにヤクモはどこだ!)
とにかく、今は手足を自由にすることを最優先にする。ヤクモのことも心配だが、このままだと海に捨てられてしまう。
俺は必死に手足を動かして縄を外そうとするが、一向に緩まる気配はない。
時間だけが過ぎていく。額に汗が滲み、目に入る。だが、拭うこともできない。思わず舌打ちをした。そのとき、光が差し込む。
顔を上げると、日に焼けた壮年の男が入ってきた。屈強な体は、漁師というより兵士に見える。彼は静かに俺へ近づいてきた。
「悪いが、あんたには、ここで死んでもらう。感謝はしている。だが、この現状を作ったのもあんたたちだ。王家に関わりがある奴を見逃すわけにはいかねぇ」
頭の奥で痛みが弾ける。それでも、男の言葉の意味だけは嫌でも理解できた。
どうやらソウケンさんは、ヤクモが王家の人間だと気づいていたようだ。そして俺のことを、護衛の近衛騎士か、宮廷魔導士と勘違いしたのだろう。
だが、俺が本当のことを伝えたところで、この男が分かってくれるとは思えなかった。
それに災厄が起きても、救援を送ることなく、増税を強いる王家を恨む気持ちは分かる。
俺も同じ気持ちだ。
ヤクモだって、父親を止められなかったことを悔やんでいる。だからこそ、俺だけを誘い、アクアクサ領に来たのだ。
「ぬすくんな、馬鹿が! 王家を恨む気持ちは分かるが、俺やヤクモがあんたたちに何をした! ソウケンに何を言われたか知らないが、俺たちはこのアクアクサ領を本気で救いたいと思っていたんだ!」
気づくと、大声で叫んでいた。命が惜しかったわけじゃない。ただ、不器用に子供に接し、笑顔を浮かべるヤクモの顔が浮かび、怒りが込み上げてきただけだ。
俺は男を睨みつけた。
彼は無言で俺を見下ろし、みぞおちを蹴り上げた。胃の中のものが逆流し、咳き込む。
「お前は知っているのか、王家が俺たちに出した勅令を……」
男は冷たい目でじっとこちらを見据え、小さくため息をついた。そして、俺を抱え上げ、歩き出した。もはや言葉を交わす気はないらしい。
彼が扉を開けると、真っ青な海が広がっていた。
波は穏やかだったが、それでも船の揺れは大きかった。だが、男はよろめくことなく、船縁に向かって歩いていく。
そのとき、悲痛な表情を浮かべる青年と目が合う。彼は何か言おうとして、口を閉ざした。その手はぎゅっと握り締められていた。
「じゃあな、ソウガ。もしお前が正しいなら、クムァムィ様が助けてくれるだろうよ」
次の瞬間、ふわりと体が浮き、衝撃とともに海へ放り出された。一瞬で視界が泡に包まれ、反射的に喘いだ口から大量の海水が侵入してくる。
俺は慌てて口を閉じる。縛られた手足は重く、身動きができない。ただ体を捩じり、芋虫のように足掻くが、浮かび上がることすらできなかった。
魔法を詠唱しようとしたが、口を開けば海水が入ってくる。そのとき、ナツメの顔が脳裏をかすめた。俺は指を動かし、『あつか』と書く。
だが、何も起きることはなかった。一縷の希望に縋り、彼女の筆談魔法の真似をしたが、無理だった。
次第に体は海の底へと沈んでいく。
俺は魔法を諦め、少しでも海面へ上がろうとする。闇雲に体を動かすことはせず、ドルフィンキックのように頭から腰、そして足先へと「うねり」を伝える。
徐々に上へ進み始める。少しだけ希望が見えたが、すでに息は限界だ。呼吸を求めて横隔膜が跳ね、胸を圧迫する。
苦痛に耐えて全身を動かす。
だが、そのたびに酸素は奪われていく。もう無理だ――そう思ったとき、暗くなる視界の端に人影を捉えた。
それが誰かを確認することはできなかった。ただ、伸ばされた手の影だけが、暗い海の中で揺れていた。
やがて、俺は目を閉じ、意識を手放した。
――――――――――――
遠くで人の声が聞こえる。たしか俺は海に落とされたはずだ。何が起きたのか分からないが、ひどく瞼が重い。
「……ガさん」
やはり、気のせいではない。だが、考えることができない。ひどく疲れている。
「……ウガさん。ソウガさん!」
今度ははっきりと聞こえた。誰かが俺の名を呼んでいる。俺は重い瞼をこじ開けた。そこには心配そうにこちらを見つめる青年の顔があった。
たしか、俺を海に捨てた男の息子だ。船の上で一瞬だけ目が合った。あのとき、彼は申し訳なさげにこちらを見ていた。
俺はゆっくりと上体を起こし、周囲を見渡す。そこは小さな船の上だった。
読んでいただき、ありがとうございます。




