156 <閑話>不在の綻び、眼鏡の違和感
ソウガとヤクモがアクアクサ領へ旅立ってから、一週間。
ベアモンド学園、それも二人が籍を置く一年Eクラスは、言いようのないざわめきに包まれていた。
ヤクモの影武者は平然と登校を続けているが、ソウガはこの一週間、一度も姿を見せていない。
学園総体であれほどの活躍を見せた彼だ。良くも悪くも注目の的となっている。隠し通せるのも、限界を迎えつつあった。
「どう思いますか、ナツメさん」
ハンナが主を失った机をじっと見つめ、ナツメに尋ねる。彼女は黒髪をかき上げ、ソウガの机の前――ヤクモの席に座る影武者を見やった。
「どうもこうも、分からないよ。家に行ったけど、不在だった。誰か、どこに行ったのか知らないかな~?」
ナツメの言葉に、影武者の肩がわずかに揺れた。その姿にハンナは目を細め、ナツメは口角を上げた。
「ハンナ、久しぶりにお昼は食堂で食べないかい。ソウガもいないし、お弁当を食べる意味もないからね」
笑顔で告げるナツメ。その瞳は笑っておらず、有無を言わせぬ迫力があった。ハンナは微笑み、それをやわらかく受け止める。
「ええ、いいですね。どうせなら、チサトさんたちも一緒にどうですか?」
「うーん、それはどうかな。生徒会長まで揃うと、周りから注目を集めそうだし、今回は遠慮してもらおう」
ナツメは肩をすくめ、首を横に振った。ハンナは何かを察し、小さく頷く。そのとき、授業の始まりを告げるチャイムが鳴り響いた。
――――――――――――
午前の授業が終わると、ナツメとハンナは足早に食堂へ向かった。まだ入口には誰も並んでおらず、二人はすぐに食券を買うことができた。
二人はカウンターに食券を差し出し、色鮮やかなサラダと白身魚のソテー、そしてパンが並ぶプレートを受け取ると、窓際の席に座った。
初夏の日差しが差し込み、テーブルを照らすその場所からは、テラス席がよく見えた。ナツメはコップに注がれた水を見つめ、静かに語る。
「ここからだと、ヤクモ君たちの席がよく見えるんだ。まだ来ていないようだから、今のうちに食べてしまおう」
その言葉にハンナは頷き、テラスの一番奥――大きな木の影が落ちる白いテーブルをじっと見つめた。
「そうですね。食後にお話も楽しみたいですし、ね」
二人は微笑み合い、食事を始めた。その姿は穏やかに見えたが、どこか近寄りがたい雰囲気を醸し出しており、生徒たちは近くに座ろうとはしなかった。
やがてヤクモ――その影武者が、生徒たちと共に食堂に現れる。入学して二カ月以上が経つが、いまだに彼を気遣う生徒は多い。
ヤクモが食券を差し出し、プレートを受け取ろうとしたとき、取り巻きのひとりが先に手を伸ばす。
だが、彼はそれを制するように一歩前へ出ると、無言のまま自らの手でプレートを受け取った。
そして、その生徒を一瞥し、いつものようにテラスの席へ向かった。
「うーん、いつものヤクモ君のようにも見えるな。判断に迷うね」
「ええ、もし別人なら、かなり教育されています」
食事を終えたナツメとハンナは、お茶を飲みながら、気づかれぬよう細心の注意を払ってヤクモの影武者を観察する。
そのとき、ひとりの女性が彼の座るテーブルに駆け寄った。その手にはコップが握られていた。
食堂の店員である彼女は、彼のプレートにだけコップがないことに気づき、慌てて水を持ってきたのだ。
生徒とはいえ、相手は王太子であるヤクモ。彼女の顔は青ざめ、かなり慌てていることは誰の目にも明らかだった。
女性は駆け足で近づき、頭を下げた――そのとき、石畳の隙間に足を引っかけ、倒れそうになる。
ぐらりと体は前のめりになり、コップの中の水が零れ落ちた。それは影武者の肩を濡らし、その拍子に飛沫となって頬を掠める。
周りの生徒が一斉に立ち上がり、女性に詰め寄ろうとした。だが、彼は手を上げて制し、ハンカチを取り出して濡れた肩を拭った。
何度も頭を下げる女性を見て、ナツメがほくそ笑む。
「ふっ、彼はヤクモ君じゃないね。影武者だよ」
「えっ、どうして分かったんですか?」
自信を持って告げる彼女に、ハンナは眉をひそめる。ナツメは苦笑いを浮かべ、周囲に聞こえぬよう小声で告げた。
「彼女は私の配下なんだ。プレートにコップを置き忘れたのも、水を零したのも、私の指示だよ。さっき、食券と一緒に指示を書いたメモを渡したんだ」
その言葉にハンナは目を見開く。正体を調べるためとはいえ、王太子にしていい行為ではなかった。
だが、影武者があまりにも完璧にヤクモを演じるため、判断ができなかったことも理解していた。
彼女は仕方がなかったと自分に言い聞かせ、ため息を口元から漏らす。そして、ヤクモの影武者に視線を向けると、改めて尋ねた。
「それで、どうして彼が偽物だと分かったんです?」
「ああ、それは眼鏡だよ。ヤクモ君はリュウゾウ先生からもらった眼鏡を大事にしている。少しだけど水がかかったのに、彼はまったく慌てる様子を見せなかった」
ナツメもテラス席に座る影武者を見つめる。ハンナはその説明に納得がいかないようで、眉をひそめたままだ。
そんな彼女を見て、ナツメは肩をすくめ、言葉を続けた。
「まあ、ハンナは学園に入学するまでキクーチェ領に住んでいたから、知らないのも無理ないけどね。中等部のころ、ヤクモ君はあの眼鏡を傷つけられて激高し、相手を完膚なきまで叩きのめして事件を起こしたんだ。それだけ大事な物なんだよ」
そこでようやくハンナも納得する。普段から厳しく近寄りがたい雰囲気があるヤクモだが、怒ることも、暴力を振るうこともなかった。
ソウガに馴れ馴れしく話しかけられ、揶揄われても、せいぜい無視するぐらいだ。そんな彼が眼鏡に傷が入ったぐらいで手を上げるとは――。
ハンナは顎に手を当て、食事を続けるヤクモの影武者を見る。彼の眼鏡には小さな水滴が付いていた。
「なるほど。それだけでは断定できませんでしたが、これまでの小さな違和感も含めて考えると、彼がヤクモ君ではないという言葉にも納得できます」
ハンナはここ一週間のヤクモの行動を思い返し、頭の中で整理した。リュウゾウ先生に向ける冷たい眼差しや、ソウガの不在をまったく気にしない態度――普段なら考えられない。
ならば、ヤクモとソウガがいなくなった時期は同じだと考えていい。そう思った彼女はナツメを見やる。
「まだ心許ないけど、彼らが何をしているのか――その答えを導くためのピースは最低限揃った。ハンナ、放課後だけど、うちに来ない? ちょうど父さんが帰ってくる。そこで一緒に答え合わせをしよう」
ナツメはカップの紅茶を一気に飲み干し、ハンナに笑顔を向ける。彼女も笑みを浮かべて頷くと、二人は颯爽と食堂を後にした。
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