155 甘い晩餐、ほどける嘘
ソウガたちが屋敷を訪れてから二日後――。僕は露台の手すりに手をかけ、ファンドウの街並みを見下ろしていた。
夕日に染まりつつある家々を眺め、目を細める。
今日は彼らを迎え、晩餐会を催す。すでに招待状は送り、了承も得ている。ソウガの笑顔を思い出し、かすかに鼓動が早くなった。
不思議な気持ちだった。今まで必死に生きてきた。誰かを想う時間など、なかった。
母は僕が生まれてすぐに流行り病にかかり、天へ旅立った。
体の弱かった父も、母を失った悲しみを紛らわせるように激務をこなし、気づけば長年の疲労が蓄積して倒れた。
それからは早かった。
父の体力は戻ることなく、あっという間に息を引き取った。残された僕は、父と母が愛したアクアクサ領を守るため、懸命に政務をこなしてきた。
僕は遥か先に広がる水平線を見つめながらも、意識は昔へと向いていた。
ふと視線を落とすと、馬車がゆっくりと屋敷へ続く道を登ってきていた。車体には我が家の紋章が飾られている。
左半分が仮面に覆われた紋章。その頬を伝う涙が夕日に照らされ、悲しく光る。思わず、手すりを握る手に力がこもった。
太陽が水平線にかかり、夜の帳が降りようとしていた。僕は屋敷へ戻り、ソウガたちを出迎えるため玄関へ向かった。
――――――――――――
二階の小さな食堂。そこにソウガたちを招いた。僕とソウガとヤクモ。たった三人だけの晩餐会だ。大仰に行うつもりはなかった。
正直に言えば、そんな余裕は我が家にはない。テーブルに並べられた食事も質素なものばかりだ。だが、これが今の精一杯のもてなしだった。
自嘲気味に笑みを浮かべる。そのとき、ソウケンが静かに近づき、グラスにワインを注いだ。僕は笑顔でそれを掲げ、口を開く。
「形式張った挨拶は抜きにしよう。今夜は、僕の友人として招いたのだから。君たちがいなければ、今日のような穏やかな夕暮れは訪れなかっただろう。君たちの勇気と友情に。――乾杯」
僕の挨拶に応じ、ソウガとヤクモもグラスを掲げる。僕たちは同時にワインを口に含んだ。ほのかな酸味と甘味が口の中に広がる。
ちらりとソウガを見る。彼はすぐにグラスを遠ざけるように置くと、逃げるように水へ手を伸ばし、一気に飲み干した。
ヤクモとは対照的だった。彼は優雅にワインを楽しんでいる。やはりソウガは平民か、貴族でも身分は低いのかもしれない。
だが、王家の人間であるヤクモに友人のように接し、その強さはソウケンが警戒するほどだ。本当に不思議な青年だった。
(……自分の気持ちを確かめたい)
頬を染め、じっとソウガを見つめていると、ソウケンがグラスにワインを注ぎ足した。僕は我に返り、しばし食事を楽しむことにする。
目の前の白身魚のムニエルにナイフを入れ、口元へ運ぶ。バターの芳醇な香りが食欲を静かに刺激する。
本当はソテーがよかった。だが、不漁が続き、新鮮な魚を仕入れることはできなかった。唯一、氷室に保管していたタイを解凍し、調理してもらったのだ。
鮮度は落ちているはずだが、アクアクサ領の海で獲れたタイは身が引き締まり、ほどよい弾力があった。噛みしめるほどに、故郷の海の旨みが溢れ出る。
バターに小麦、それにレモン。今の我が領では、どれもが貴重な備蓄だ。だが、災厄から救ってくれた二人には、持てる限りの礼を尽くしたかった。
ソウガに視線を向ける。彼は美味しそうに目を細め、しっかりと味わうように噛みしめていた。あまり作法はなっていないが、その姿には好感が持てた。
彼はパンで皿に残ったバターを拭い、口の中へ運ぶと、名残惜しそうに綺麗になった皿を見つめた。その姿に僕は口元を綻ばせる。
そのとき、ソウケンが彼のもとへ歩み寄り、食器を下げた。ソウガは礼を言い、何もなくなったテーブルへ視線を落とす。
作法としては正しい。だが、どこか冷たいものを感じる。なるべく早く帰ってほしい――そう思っているかのように、ソウケンの目は暗かった。
僕が声をかけようとしたとき、給仕が音もなく近づき、薄紅色の果実が盛られた皿を差し出した。
それは、ソウガが持ってきた桃で作ったコンポートだった。花びらのように美しく並べられた果実には、琥珀色のシロップがたっぷりと注がれている。
甘くみずみずしい香りが、幸せな予感とともに鼻腔をくすぐった。自然と口角が上がる。今は彼の好意に感謝し、存分に味わうことにした。
桃の甘さに頬が緩む。そんな僕を、ソウケンは眉をひそめ、じっと見つめていた。
だけど、この瞬間だけはすべての重責を忘れ、彼の優しさに浸っていたかった。僕はそっと目を閉じ、桃の芳醇な香りと甘さだけに意識を委ねた。
――――――――――――
食事を終えた僕たちは、お茶を楽しんでいた。もうそろそろ晩餐会も終わりだ。いつまでも、この甘い時間に浸っているわけにはいかない。
今夜こそ、僕は本当のことを伝えなければならない。ちらりとソウガを見ると、ティーカップを口につけ、薫り高い湯気に深く息を吐き出した。
(……どうやら、お茶は好きらしいね)
微笑みながら、どうやって二人きりになろうか考える。だが、何も思いつかない。時間だけが過ぎていく。僕は小さく首を横に振り、口を開いた。
「ソウガ、ヤクモ。露台に出ないか。ここから見えるファンドウの街並みは綺麗なんだ」
その言葉にソウガは笑顔で頷き、ヤクモは顎に手を当てて僕を見つめる。
「いや、俺はいい。それよりソウケン。少し話がある。付き合ってもらえるか。大型船の件だ」
かすかに鼓動が早くなる。ソウケンとは口裏合わせは済んでいる。それに災厄は収まりつつある。あの計画を実行する必要はない。
息を呑み、ソウケンを見る。彼は深々と頭を下げ、ヤクモを別の部屋へと連れ出した。
意図せず、二人きりになった。
嬉しいが、ヤクモとソウケンのことも気になる。
だけど、この気持ちを確かめたい。
僕はソウガを連れて露台へと向かった。窓を開けると、潮風が頬を撫でる。
「気持ちがいいね、ソウガ。久しぶりだ、こんなに心が穏やかなのは。君たちのおかげだ」
ソウガは微笑みながら、首を横に振った。
「いいや、シロウたちが頑張ってきたからだ。いくつもの町や村を見てきたが、どこも互いを助け合い、必死に災厄を乗り越えようとしていた。それだけで住民たちが、この領を愛していると分かった」
じっと僕を見つめ、静かに語るソウガ。その金色の瞳に僕の顔が映る。だが、次第に視界が頼りなく揺れていく。
目から涙が零れた。それは頬を伝い、唇に触れる。自然と言葉が零れる。
「ふふ、嬉しいな。なんだか、初めて報われたような気がしたよ。ありがとう、ソウガ」
彼は何も言わず、じっと僕を見ている。その表情は穏やかだが、心配しているようにも見えた。
――もう、彼に嘘をつくことはできない。いや、つきたくなかった。
僕は胸のクムァムィ様のペンダントを握り締め、真っすぐソウガを見つめる。
「聞いてほしい、ソウガ。僕の本当の名はシロエ。女なんだ」
彼は目を見開き、金色の瞳が揺れる。初夏の湿り気を帯びた潮風が、夜の海の匂いとともに、絞り出したばかりの言葉の余韻を攫っていく。
耐えきれなくなった僕は、ソウガの胸に顔を埋め、声を殺して泣いていた。躊躇うような間を置いて、彼は僕の背中に腕を回し、そっと抱き寄せる。
その胸の厚みに身を委ね、僕はソウガの静かな熱と優しさを受け止めた。
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