150 故郷を想う魔法、届かぬ詠唱
俺たちは村を飛び出し、川に辿り着いた。走ってきたせいで呼吸は乱れ、額には汗が滲む。思わず地面に腰を落とし、肩で息をした。
「ハァ、ハァ。れ、冷静に考えたら、馬に乗ってくればよかったんだ、ヤクモ」
「う、うるさい! はじめに走り出したのは、お前だろうが、ソウガ!」
汗を拭い、ヤクモに文句を言うが、見事に返された。たしかに真っ先に駆け出したのは俺だった。
だが、気づいていたなら呼び止めてほしかった。それに途中で俺を追い抜き、競い合い出したのはこいつだ。
納得はできないが、まずは川の様子を確認するほうが先だ。俺は深呼吸を繰り返し、激しく打つ鼓動が落ち着くと立ち上がった。
「やっぱり、ここも海水が混ざっているな。常に流れがあるせいで、濁ってはいないが……」
ヤクモが隣に立ち、生き物の気配がない川に目を細めた。たしかに魚の死体は見当たらず、腐った臭いも空気の淀みもない。だが、川縁には魔塩草が青々と茂っていた。
俺は川の水を掬う。見た目は透明で、真水のようだった。口元を近づけ、一口舐める。すぐにざらりとした感触が舌を刺激し、濃い塩気と苦味に顔をしかめた。
「おい、早くお前の浄化魔法を教えろ!」
川際に膝をつく俺の背中に、ヤクモの怒気を含んだ声が刺さった。立ち上がって振り返ると、そこには腕を組み、指先で自らの腕を激しく叩くヤクモがいた。その姿に眉を曇らせる。
「そんなに急かすな。まずはこの川がどの程度汚染されているか知るほうが先だ。それによって、込める魔力量が変わってくる」
俺の指摘に、やつは唇を噛んで俯いた。ここで焦っても仕方がない。こんなときだからこそ、冷静に行動しなければならない。
俺はため息を堪え、方言魔法をどう伝えようか考える。詠唱は『きれいか』だけだ。魔力を練り、呟くだけでいい。
もちろん、普通の魔法と同じように鮮明なイメージは必要だ。だが、詠唱は短く、威力は桁違いだ。どうして、これほどの差が出るのか、俺にも分からない。
顎に手を当て、考える。俺は魔法を唱えるとき、イメージ以外に何を考え、何を感じているのか――その瞬間、前世の記憶が蘇る。
(そういえば、魔法を唱えるとき、前世の故郷――熊本のことが脳裏をよぎる)
方言を口に出すたび、俺は熊本に想いを馳せる。熊本城、そして雄大な阿蘇山――。
(……火の国とは、よく言ったものだな)
思わず、口角が上がり、別の魔法が口をついた。
「あつか」
突如、蒼炎の獅子が顕現する。それが川に飛び込んだ瞬間、水柱が上がる暇もなく水面が蒸発した。水蒸気が立ち上り、その隙間から川底が覗く。
俺は肝を冷やして魔法を解除する。直後、行き場を失っていた上流の水が猛烈な勢いで流れ込み、川は元の姿を取り戻した。
いつも以上の威力に、言葉を失う。浄化を施す前に、川が干上がってしまうところだった。やはり故郷である熊本と、この魔法は深く関係している。
冷や汗を拭い、振り返る。ヤクモが目を剥き、呆然としていた。
「……なんだ、それは」
その言葉に、俺は頬を掻いて頭を下げる。悪気はなかったが、混乱させてしまった。いまだ口を閉じず立ち尽くすヤクモに、声をかける。
「浄化魔法だが、詠唱は『きれいか』だけだ。イメージも普段通りで構わない。……大事なのは懐かしさだ。郷愁の想いだと思う」
さらに困惑した表情を浮かべるヤクモ。たしかに、説明している俺自身にも自信がない。
だが、さっきの『あつか』が途轍もない火力になった原因は、熊本を懐かしむ気持ちだった――そうとしか思えなかった。
何度もさっきの状況を思い返すが、やはり自信は持てない。俯きそうになったとき、ヤクモが声をかけた。
「わかった。故郷を思い浮かべながら、魔法を唱えればいいんだな」
やつは眼鏡を外し、俺に押し付ける。ゆっくりと川へ歩み寄って膝をつくと、水面に手を入れた。
その姿をじっと見つめる。ヤクモは深呼吸を繰り返す。おそらく魔力を練り始めているのだろう。ただならぬ集中力が伝わり、息を呑む。そのとき――。
「きれいか!」
熊本弁とは言い難い、抑揚のない綺麗な発音が響き渡る。その言葉からは、俺の故郷を思わせる響きは感じられなかった。
「きれいか! きれいか!」
ヤクモが叫ぶ。いくら叫ぼうが、何も起きない。懸命に懐かしいものを思い浮かべながら唱えているのだろうが、その顔は焦りや怒りに染まっていた。
言葉も気持ちも、『郷愁』とはかけ離れている。俺は静かに近づき、懸命に叫び続けるヤクモの肩に手を置く。
「もうやめろ。やはり無理だ。この川は俺が浄化する。魔力が尽きたら、それまでだ。そのとき考えよう」
その瞬間、バシッと手を払われ、睨まれた。ヤクモの気持ちは分かる。だが、こればかりは仕方がない。
『熊本』を知らないやつには、やはり難しかったのかもしれない。何と声をかけたらいいのか分からず、口を閉じる。
「くそ!」
ヤクモが水面を両手で強く叩く。水しぶきが上がり、俺の頬にかかった。やはり、俺には何も言えない。そのとき、やつが顔を上げた。
「なんだ、あの緑色の妖精は――」
すぐに俺も視線を追う。だが、何も見えず、自分の手を見る。そこには、ヤクモに手渡された眼鏡が妖しく光っていた。
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