147 絶望の町に、透き通る水を
俺たちが町長の屋敷を出ると、向かいの家の住人と視線が合う。慌てて家へ戻ろうとする男性を呼び止めた。
「待ってくれ、町長が死んだ! 皆を集めてくれないか!」
俺は大声で叫ぶ。不穏な内容だが、隠しておくわけにはいかない。いくら言い繕おうと、事実は変わらない。
今は一刻も早く、あの悪魔の植物について伝えなければならない。俺の言葉に、彼はびくりと肩を跳ねさせ、恐る恐る振り向いた。
「これは町長が最期に遺した日記だ。俺の言葉が信じられないなら、これを読んでくれ。もし、それでも疑うなら、屋敷へ行って彼の変わり果てた姿を見てくるといい」
あまり余裕がない。正直、これ以上町長を貶めるような真似はしたくなかった。だが、躊躇っている時間はなかった。俺は心の中で町長夫婦に謝罪した。
男性はごくりと喉を鳴らし、ゆっくりと俺たちに歩み寄る。俺はなるべく怖がらせないよう、険しくなっていた眉間の皺を緩め、日記を差し出した。
彼は両手で受け取り、覚束ない手でページをめくる。やがて彼の目から、大粒の涙が溢れ出した。
両手で日記を抱きしめ、嗚咽を漏らす男性。俺は膝をつき、優しくその肩に手を置く。そのとき、ヤクモの声が大通りに響き渡った。
「皆、出てこい! いや、そのままでいいから、俺の話を聞け! 塩害の後に現れた植物を知っているだろう。あれは猛毒だ。決して口にするな!」
それでも、通りに出てくる人間はいなかった。せめてヤクモの言葉を信じ、住民たちがあの悪魔の植物を口にしないことを祈るしかない。
ただの神頼みだ。己の無力さに唇を噛みしめる。ふと顔を上げると、ヤクモは真っすぐ大通りに並ぶ家々を睨みつけていた。
やつも俺と同じ気持ちだ。だが、ヤクモは顔を下げていなかった。やつの強さが眩しく見え、自分が情けなく思えた。そのとき、少年の声が届く。
「みんな、兄ちゃんたちを信じてくれ! 俺と母ちゃんは二人に助けられたんだ。薬も水も、そして食べ物だってくれたんだ!」
振り向くと、少年が母親を連れて大通りに立っていた。目に涙を浮かべ、精一杯叫んでいる。
(こんな小さな子が頑張ってるんだ。俺が落ち込んでいいわけがないよな)
俺は歯を食いしばり、立ち上がろうとした――その瞬間、泣き崩れていた男性が先に立ち上がった。
「この人たちの言葉を信じてくれ! 俺はこの日記を読んだ。タツロウさんが書いたものだ! みんな、このままでいいのか! 俺たちは疫病に怯え、家の中に隠れていた。そのせいで、タツロウさんとアンナさんは死んだかもしれないんだぞ!」
俺は零れそうになる涙を必死に堪え、立ち上がった。俺は無力だ。だが、少年が助けてくれた。男性が信じてくれた。
もう俯くことはない。ただ、全力でこの町の人たちを救う。迷い、挫けている時間なんてなかった。
「なんだ、その顔は。情けない」
口角を上げ、俺を見つめるヤクモが呟く。
「うるさい。俺は繊細なんだ。お前と一緒にするな」
俺はやつの肩を拳で軽く叩いて嘯く。そして、ぐっと背伸びをし、大きく息を吸い込み、叫んだ。
「みんな、聞いてくれ! 今から町の外れにある池の水を飲めるようにする。信じてくれなくていい。だが、できるなら、しばらくはその水を使い、作物を育て、生活してくれ! そして、あの植物だけは食べないでくれ!」
その言葉がきっかけだったのかは分からない。だが、ぽつぽつと家から人が出てきた。その光景に再び視界が滲む。だが、これ以上ヤクモの前で情けない姿は見せたくなかった。
俺はヤクモに背を向け、少年に親指を立てて見せる。そして、そのまま町の外れにある池へ向けて大きく踏み出した。
――――――――――――
俺たちは町の入り口近くにある池へ辿り着いた。振り返ると、大勢の住民がついてきていた。
始めは少なかったが、大通りを歩く人間が珍しいのか、次第に家から出てきて、気づけばかなりの数になっていた。
「ここだな。それでソウガ、本当に大丈夫か?」
ヤクモが心配するのも無理はない。
眼前に広がる池は、湧き出る水に海水が混じり、生き物たちの死骸が浮かぶ死の池となっていた。
その周囲には腐敗臭が漂い、空気が淀んでいる。珍しく不安げに見つめるヤクモに、小さく頷いた。
「ああ、大丈夫だ。任せておけ。少し前に王都で同じことをやった。経験済みだ」
俺はズボンの裾をめくって裸足になり、毒々しい深緑に変わった池へと歩き出した。ふと視線を落とす。水辺には、あの植物が生えていた。
舌打ちをし、わざとその植物を踏み潰して池の中へ入った。そのとき、「うえっ」と誰かが声を漏らした。
自然とコウセン地区の区長さんの顔がよぎり、苦笑いを浮かべる。たしかに、こんな池に好んで入る人間はいない。
水面から放たれる強烈な汚臭が鼻を刺した。なるべく早く処理したほうがいい。俺は吐き気を必死に押さえ込み、両腕を池に突っ込んだ。
「たいぎゃ、きれいか。まっご、きれいか」
魔法を唱えた直後、水面が輝き出し、掌からごっそりと魔力が吸い取られ、膝が折れそうになる。
だが、町民たちのために犠牲となった町長のことを思い出し、俺はさらに魔法を重ねる。
「しちゃかちゃ、きれいか!」
その瞬間、さきほどを上回る魔力が一瞬で消えた。俺は疑似的な魔力枯渇を起こし、激しい頭痛に襲われ、その場に崩れ落ちる。
気づけば、大勢の歓声が耳に届いていた。
ゆっくりと目を見開くと、住民たちは透き通った水を両手で掬い、目に涙を浮かべながら、慈しむように喉を潤していた。
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