143 アマビエの声、食べ物の病
ヤクモ視点のままです<(_ _)>
三本の肢を器用に動かし、こちらに近づく精霊。人間とも魚とも違う――その姿は異形そのものだった。俺はひゅっと息を呑む。
やがて精霊は眼前に立ち、真っすぐ俺を射貫くように見つめ、首を傾げた。何か言葉を発しようとしたが、喉の裏に張り付き、うまく出せない。
ただじっと見つめていると、ソウガが起きて声をかけてきた。
「おはよう、ヤクモ。きょうもいい天気だな」
呑気な口調にかすかに怒りが込み上げるが、ソウガには見えていないのだから仕方ない。目の前にいる精霊のことを伝えるべきかどうか、逡巡する。
その間も、青髪の異形は俺から視線を逸らさない。濡れた青い髪が朝の陽光に照らされ、艶やかに光る。
美しく見えるはずの彼女の姿が、逆に俺の瞳には生々しく映り、背中に冷たい汗が伝う。もはや恐怖は限界だった。俺は叫ぶようにソウガへ告げる。
「今、目の前に精霊がいる。魚と人間が混じり合ったような姿で、口元は嘴のように尖っている精霊だ!」
精霊から目を離すことなく、背中から伝わる気配に集中する。砂を踏む足音が近づき、ソウガが横を通り抜け、精霊に手を伸ばした。
豪胆なのか、無知なのかは分からない。だが、俺の言葉を信じ、確かめようとする姿は頼もしかった。
ゆっくりと精霊に近づくソウガの手。そのとき、精霊が動いた。彼女はすっと横にずれ、その手から逃れた。
どうやら彼女にはソウガが見えているらしい。俺にしか見えないが、相手にはこちらの世界が見えている。
ひとつだけではあるが、その新たな事実が俺に冷静さを取り戻させてくれた。静かに深呼吸をし、ソウガに伝える。
「お前が手を伸ばしたら、右に避けた。どうやら相手にはお前が見えているようだ」
その言葉にソウガは頷き、視線を右に向ける。
「どぎゃん」
ソウガは方言魔法を発動した。たしか、体力や魔力を数値として伝える鑑定能力が術者に付与される魔法だったはずだ。
「ソウガ、何か見えるか?」
期待を込めた問いは、すぐに否定された。眉を曇らせて首を横に振るソウガの姿に、かすかに落胆する。
「ヤクモ。もう一度、どんな姿か教えてくれ!」
ソウガは諦めていなかった。目を凝らし、少しでも精霊を捉えようと足掻いている。その姿に胸がじんわりと熱くなる。
「わかった! 髪は青く、腰まで伸びている。女性の姿をしているが、口元は嘴のように尖っている。全身は鱗に覆われ、下半身は魚のようだが、三つに分かれている」
早口で告げる。自分で伝えた言葉だが、その内容がうまく伝わるとは思えなかった。魔物でも、そこまで異様な姿をしたものはいない。
だが、ソウガは俺の言葉を反芻し、精霊が立つほうをじっと見据えている。これまで、ここまで真剣に俺の言葉を聞いたやつはいなかった。
忠臣である炎翼のアスカでさえ、精霊のこととなると眉を曇らせ、頷くだけだった。
だが、ソウガはリュウゾウ先生以外で初めて真剣に精霊と向き合い、俺を助けようとしている。
――諦めかけた自分に腹が立つ。怯えるだけでいいわけがなかった。
俺も精霊を見据え、少しでもその存在から何かを探ろうとする。そのとき、精霊が小さく口を動かしていることに気づいた。刹那、ソウガの声を捉える。
「……もしかして、精霊じゃなく、妖怪か」
聞き覚えのない言葉――『妖怪』とは何だ。首を傾げ、思わず精霊から視線を切ってソウガを見ると、やつも困惑していた。
「『妖怪』とは何だ? 何か分かったなら教えてくれ」
俺は再び精霊に視線を戻し、問いかける。かすかにソウガの動揺が伝わってくる。それほどまでに危険な存在なのか。俺の頬を一滴の汗が流れた。
「わかった、ヤクモ。その精霊だが、名前は『アマビエ』かもしれない」
不思議な響きを持つ言葉に眉を上げる。初めて聞くはずなのに、どこか懐かしい。以前から知っていたかのように耳に馴染み、思わず呟いてしまう。
「……アマビエ」
その瞬間、頭の中にかかっていた靄が吹き飛び、思考が鮮明になる。暗示のように、精霊から遠ざかるよう誘導されていたことに気づく。
「ヤクモ、声が聞こえる? 嬉しい。やっと話せる」
幼い子供のように、たどたどしく話す声。振り向くと、精霊――アマビエが満面の笑みを浮かべていた。
「……聞こえたか、ソウガ」
俺はアマビエを見つめながら尋ねた。
「いや、お前の声以外は何も」
どうやら、彼女の声は俺にしか聞こえないらしい。笑顔のままこちらを見つめるアマビエ。邪悪には見えない。だが、何ひとつ分からない。
何を聞くべきか、言葉を探す。
「ヤクモ、だめ。もう時間ない。この病、食べ物だめ。みんなに伝えて」
その瞬間、激しい頭痛に襲われる。思わずこめかみを押さえ、膝をついた。
「大丈夫か、ヤクモ! 魔力が一気に減ってるぞ!」
ソウガが駆け寄り、俺を支える。何が起きたのか分からず、頭を振って顔を上げた。そこにアマビエの姿はなかった。
寄せては返す波がすべてを攫っていったかのように、目の前にはただ、朝日に照らされて輝く海が広がっているだけだった。
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