142 見つめる精霊、預けた眼鏡
俺は子どものころに見たあの精霊を思い出し、唇を噛んだ。ふと我に返ると、心配そうにこちらを覗き込むソウガの顔が目に入り、苦笑いを浮かべる。
あのとき見た精霊は、ただそこに佇むだけで、こちらから話しかけても応えてくれることはなかった。
柱の影に隠れて、こちらをじっと見つめる幼女の精霊。その服は鮮やかだが、見たこともない形をしていた。
滑らかな光沢を放つ、赤いガウンのような布を体に巻きつけ、その上から驚くほど幅の広い頑丈な布のベルトを固く締め上げていた。
足元に至っては、さらに奇妙だった。
分厚い木の板に二本の紐が伸びているだけの履き物を、彼女は親指と人差し指の間で器用に挟み、危なげなく履きこなしていた。
艶やかな黒髪は腰まで伸び、何も言わず、こちらを見つめるだけの幼女。最初はかわいいと思ったが、ずっと話しかけることもなく見つめるだけの存在は、次第に不気味に思えてきた。
もちろん家族や家臣に相談したが、誰も見えないのだから、信じてくれるはずはなかった。リュウゾウ先生以外は――。
俺は王宮で見た幼女の精霊を思い出し、ぽつぽつと語った。恐怖に怯える俺を気味悪がった者たちの視線がよぎり、思わずソウガを見る。
やつは真剣な眼差しで俺を見ていた。まっすぐ捉えるその瞳に、拒絶はなく、慮る色だけが宿っていた。
「――ほかにもいたな。縦長の大きな白い布に目と口が浮かぶ精霊や、赤い肌に棒のような鼻がある翼人みたいなやつだ。どれも俺にしか見えず、しかも遠目からこちらを見ているだけだった」
最後に、俺はこれまで出会った精霊たちについて語り終えると、ソウガに視線を向ける。やつは目を見開き、呆然としていた。
さすがに最後に話した精霊たちは、非現実的だったようだ。擬態魔法を使える魔物――ラクーンのほうが、まだ普通に思えた。
だが、馬鹿げた姿をしていても、たしかに俺には見えていた。黙ってソウガの言葉を待っていると、海面に映る月が揺れ、一瞬、俺たちを照らした。
「話してくれて感謝する。はっきりとは分からないし、断定もできない。だが、そいつらは、お前の力になるかもしれん」
その言葉に目を剥く。あいつらが俺の力になる――あり得ない。さっき聞いたばかりの話で、そんな無責任な言葉を吐いたソウガを睨んだ。
「ヤクモ、気持ちは分かる。あくまで予想だ。俺も『かもしれない』としか言っていない。俺の言葉をすぐに信じる必要はない。今は頭の片隅にでも置いてくれればいい」
俺の鋭い眼差しを真っすぐ受け止め、ソウガは宥めるように告げた。その目に嘘はなく、俺を気遣っているのが分かった。俺は頭を下げる。
「悪かった。精霊の話になると、感情的になってしまうようだ。もう吹っ切れたと思っていたが――」
そこで言葉を切った。いずれ俺はこの国を率いる立場の人間になる。学生とはいえ、王太子として弱音を見せるわけにはいかなかった。
唇を噛み、ソウガから視線を逸らす。ふと顔を上げれば夜空に幾千の星が浮かび、輝いていた。
「ヤクモ、今日はもう寝るか。明日、朝一番で少年の家に行こう。何か分かるかもしれない。……ところで眼鏡はどうするんだ。まさか着けたまま寝るのか?」
気分が沈みそうになる俺に、ソウガが話を変えてくれた。その気遣いに感謝しながら眼鏡に触れて、俺は小さく頷く。
「ああ、いつも着けて寝ているが、問題でもあるか?」
苦笑いを浮かべるソウガ。やつは体を起こし、こちらに向き直って言った。
「大ありだな。いくらリュウゾウ先生が作ったものとはいえ、潮風はよくない。それにここは砂浜だ。柔らかい王宮のベッドとは違う。レンズに傷がつくぞ。ここだけでいい。せめて寝るときは外して、大事に保管しておけ」
反論を許さない物言いに目を丸くする。ソウガにしては珍しい。俺も口元から笑みが零れる。
「お前の言う通りだな。だが、あいにく俺の革袋はいっぱいで、入る余裕がない。悪いが、ソウガ。預かってくれ」
自らが発した言葉に驚く。まさか先生からもらった大事な眼鏡を預けてほしいと頼むとは、自分でも思わなかった。
気づかないうちにソウガを信頼している。そう思い至る。ソウガも眉を上げるが、すぐに笑顔に戻り、手を差し出した。
「壊すなよ。もし傷つけたら、国外追放だからな」
「なら責任重大だな」
ソウガは大事に受け取り、じっと眼鏡を見つめると、方言魔法を唱えた。
「なおす」
その瞬間、空間が捲れ、小さな奈落が生まれる。ソウガは目の前に現れた亜空間へ、そっと眼鏡を入れた。
もはや驚くことはないが、相変わらず非常識な魔法だとは思う。眉を曇らせる俺に、ソウガは頬を掻く。
「ここが一番安全だと思ったんだが、まずかったか?」
「いいや。たしかに安全かもな」
俺が肩をすくめると、ソウガはほっと息を漏らし、仰向けに寝ころんだ。二人でアクアクサ領の夜空を眺める。
海風が俺たちの横を通り抜け、海へと還っていく。肌に残った磯の香が、体の火照りを静かに鎮める。風が通り過ぎるたび、心に溜まった熱まで削ぎ落とされた。
瞼が重い。疲弊した身体に、寄せては返す波の調べのように睡魔が襲う。気づけば俺は深い眠りへと落ちていった。
――――――――――――
瞼を透かして届く朝日に、ゆっくりと意識が浮上する。隣ではまだソウガが寝息を立てていた。起き上がり、水平線から溢れ出す光に目を細める。
俺は重い体を起こし、水筒に残った水を口に含む。常温に近い水が喉を通るたび、体内の重たい淀みが少しずつ洗い流されていくようだった。
意識がはっきりとしてくる。俺は軽く頬を叩き、立ち上がって海辺へ視線を向けた。波は穏やかで、朝日をきらきらと反射している。
そこに、ひとりの女性の影を見つけた。彼女もこちらに気づき、波打ち際からゆっくりと近づいてくる。濡れた青い髪が腰までしなやかに伸びていた。
目を凝らし、近づいてくるその姿を追う。だが、距離が縮まるにつれて俺は息を呑んだ。
青髪の間から覗く顔――その口元は鳥の嘴のように鋭く尖り、肌だと思っていた一部分はびっしりと鱗に覆われていた。
やがて波を離れ、浜に上がった彼女は、その異形を俺の前に晒した。
下半身を覆うのは、光を乱反射させる菱形の鱗。そして足元には、三つに分かれた尾びれのような肢があった。
アクアクサ領の最南端の町――ウシブルッカ。俺はここで、数年ぶりに精霊と再会した。
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