135 紋章の涙、領主の仮面
ヤクモの口から突きつけられたその名は、俺の思考を真っ白に塗りつぶした。
「シロウ・フォン・アクアクサ」。その響きだけが、逃げ場のない頭の中で呪文のように反芻する。
目の前の美しい青年が、この地の領主――。
刹那、武器屋の店主の濁った瞳や、路地裏で飢えた老人たちの視線が脳裏をよぎった。
激しさを増す潮風に、彼の紺碧の髪が踊る。その隙間から覗く金色の瞳が、俺の視界を焼き付けて離さない。
あのパンを盗んだ少年を助けた青年の面影は、もうない。だが、その瞳だけは違った。呆然と立ち尽くす俺に、ヤクモの冷たい声が届く。
「迂闊だったな、シロウ。その日傘の柄に刻まれた紋章はアクアクサ侯爵家のものだ。そして、顔は知らずとも名前ぐらいは聞いている。先代が急逝し、若くして領主となった――その名を、な」
鋭く睨みつけるヤクモ。シロウは日傘の柄を握り、指先がかすかに震えた。二人の間に緊張が走る中、俺はヤクモを見つめる。
その怒りは、シロウに向けるべきものじゃない。昨日、自分でも言ったはずだ――憎むべきは民を苦しめる仕組みだと。
(……そして、その仕組みを作ったのは、シロウじゃない。お前の親父だろう)
町の惨状が、ヤクモから冷静さを奪った。そうとしか思えない。俺が二人の間に割って入ろうとしたとき、シロウが口を開いた。
「よく気づいたね。僕がここの領主だ。けど、この紋章は僕が領主になる――半年前に変えたばかり。領内にすら、まだ正式に知らせていない。どうしてわかった?」
シロウは静かに告げる。たしかに町で見かけた紋章とは明らかに違った。左半分は同じだが、右半分は不気味に二つに割れた仮面で覆われている。
そして、その頬を伝うように、一筋の涙が深く彫り込まれていた。領民が知っている紋章じゃない。俺の背筋が冷えた。
シロウの猜疑心に満ちた視線を受けて、ヤクモが口を開こうとした――そのとき、俺は叫んだ。
「ヤクモ、まだ何も言うな! どこで監視されているか分からないんだ。それにシロウ! 俺たちはこの場所に住む人たちを助けたいと思って来たんだ。それだけは信じてくれ!」
ただ必死に訴えた。このまま敵になるわけにはいかない。口にはしなかったが、シロウは何か隠している。
それを突き止めるまで、敵と決めつけることは避けたかった。じっと彼の目を見つめると、金色の瞳が俺を捉えた。その瞬間、シロウが肩をすくめた。
「わかった、ソウガ。今だけはその言葉を信じよう。――君が嘘をついていないならね。それに君たちが僕の領民を救いたいと言うなら、伝えておかないといけないことがある。そして、それを聞いても、なお、領民――いや僕たちを救いたいと思うなら、君たちを信じよう」
シロウの金色の瞳が揺れた。冷たく張り詰めた空気が一瞬だけ、緩んだ気がした。彼は俺たちに背を向け、静かに歩き出した。
――――――――――――
俺たちはシロウに案内され、彼の屋敷に向かった。そこは中心地から少し離れた丘の上にあった。
白い石壁に囲まれ、綺麗ではあったが、侯爵家の屋敷としては少し小さいような気がした。
(俺の実家よりは遥かに大きくて立派だから、なんとも言えないが……)
ハンナを送り届けた際に見た、あの屋敷を思い出す。キクーチェ公爵家が王都に構える私邸だ。その大きさと威容を誇る外観は、はっきりと覚えている。
彼女の顔がよぎり、目を細めると、シロウの声が届いた。
「あまり大きくないだろ。アクアクサ領は経済状況が年々悪くなっているんだ。僕が領主になったとき、ここに引っ越してきた。人を雇う金もないからね」
肩をすくめ、自虐的な笑みを浮かべるシロウ。俺はかける言葉が見つからず、黙って見つめるしかなかった。
そんな俺を、彼はくすりと笑った。その笑顔が目に焼きつき、心がざわつく。
(……俺はいったい、男相手に何を考えているんだ)
気持ちの整理が追いつかず、頭を掻きむしった。その姿にヤクモとシロウは目を見開く。
「いきなりどうしたんだ、ソウガ。気でも触れたか?」
ヤクモの容赦のない言葉に眉を下げる。たしかに様子がおかしかったことは認めるが、もう少し配慮というものがあってもいいはずだ。
だが、王太子のこいつに求めるのは無駄だと気づき、口元からため息が漏れる。そのとき、シロウが腹を抱えて笑い出した。
「ぷっ、ははは。面白いね、君たち。いつもそんな調子なの?」
シロウの屈託のない笑顔に心がほぐれる。ただ、その言葉遣いにわずかな違和感を覚えた。
この地方の訛りなのかもしれないが、男のものにしては、少し響きが柔らかすぎる気がする。その話し方はナツメに似ていた。
(若くして侯爵家の当主になるぐらいだ。ちゃんとした教育を受けたら、こんな物腰の柔らかい喋り方になるんだろ。あいつは違うけど)
一瞬、ナツメの横顔が浮かぶ。俺は深く考えるのをやめ、聞き流した。いまだ笑い続けるシロウに肩をすくめる。できれば早く話がしたいのだが――。
「おい、いつまで馬鹿みたいに笑っている。とっとと中に入れろ。俺たちには時間がないんだ」
ヤクモは胸の前で腕を組んだまま、人差し指で二の腕を叩きながら言い放った。
その姿を見やり、王太子ならもう少し余裕を持て――と苦笑いを浮かべる。よほどシロウのほうが、気品がある。
俺はヤクモの肩をポンと叩き、落ち着かせる。ぎろりと睨まれるが無視して、シロウに早く話を始めたいと伝えた。
彼は目元に浮かぶ涙を拭い、大きく深呼吸して息を整える。そして真剣な表情に戻り、俺たちを屋敷の中へと招き入れた。
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