134 潮風の町、領主の名
朝起きると、ヤクモの姿がなかった。思わず舌打ちした。俺は急いで部屋を出て、受付に向かった。
「すまないが、眼鏡をかけた白髪の青年を見なかったか?」
突然の質問に受付の男は目を見開く。だが、すぐに苦笑いを浮かべ、奥の食堂へ親指を向けた。そこに一人で食事をとるヤクモの姿があった。
ため息が漏れる。俺は男に礼を述べ、食堂へ向かった。中はかなり広かったが、客は疎らで閑散としている。
「おはよう、ヤクモ。俺は部屋を出るときは、声をかけろと言わなかったか?」
憮然とした表情でヤクモに向かい合うように腰を下ろすと、ヤクモは不思議そうに口を開いた。
「なんだ、ソウガか。何を不機嫌な顔をしている。お前が言ったのは『出かけるなら』だ。ここは宿屋の中だ。声をかける必要なんてないだろ。それにお前は疲れているようだったし、控えただけだ」
それだけ言って、ヤクモはテーブルに置かれた朝食へ視線を落とした。それなりの金額の宿屋だったが、出された朝食はあまりにも貧相だった。
大きなプレートには一切れのパンと小魚の干物があるだけ。水もコップに半分ほどしか注がれていない。
それだけでアクアクサ領の状況が見えてくる。そして、反乱は現実的に起きるかもしれない――不安が胸の奥で膨らんだ。
二人とも口を閉じる。そのとき、すっとプレートが差し出された。ヤクモと同じ一切れのパンと、小魚が数匹載っているだけだ。
視線を上げると、中年の女が申し訳なさそうな顔をしていた。俺が笑って頭を下げると、どこかほっとした表情を浮かべ、彼女は厨房へ戻っていった。
「これを食べたら、すぐに出よう。あまり時間はないかもしれない」
そう呟き、ヤクモはパンを口に放り込み、コップの水を一気に飲み干した。
――――――――――――
俺たちは宿を出た。湿り気を帯びた潮風が容赦なく吹きつけ、肌にまとわりついた。
かつては活気の象徴だった磯の匂いは、今や潮だまりに溜まった腐敗臭のように、俺たちの不安を煽る。
近くの武器屋に入ると、棚は驚くほど閑散としていた。数少ない剣やナイフに付けられた値札は、どれも異常な高値だ。
これでは売れるはずがない。だが、店主の濁った瞳を見れば、それが強欲ではなく、生き延びるための選択であることは痛いほど分かった。
俺たちはかける言葉も見つからず、逃げるように店を後にした。その後も数軒回ったが、光景はどこも同じだった。
漁業という大黒柱を失ったアクアクサ領の経済は、内側から腐り落ちようとしている。この静けさは平穏ではない。嵐の前の停滞だ。
突然、ヤクモが口を開いた。
「……これほどとは、思わなかった。すぐに王都に連絡して援助を求める必要があるぞ!」
動揺するヤクモに鋭い視線を向ける。どこに監視の目があるか分からない。昨日、クムァムーン様の石像に祈りを捧げていた人々を見つめる兵士の姿がよぎる。
俺はヤクモの手を掴み、足早にこの場を離れた。適当な路地で曲がり、元の通りへ戻ったが、誰も付いてくる気配はない。
「場所を変える。今後のことを話し合うぞ」
それだけ告げてヤクモの手を離し、俺は人気のない海岸のほうへ歩き出した。やがて建物がまばらになり、視界の端から一気に海が躍り出る。
街の淀んだ磯の匂いとは違う、突き抜けるような潮の香りが鼻をくすぐった。それは、ささくれ立っていた俺の心を優しく撫で洗ってくれるようだった。
「絶景だな、ヤクモ。少しは気分、落ち着いたか?」
全身で潮風を浴び、両手を広げる俺に、ヤクモは目を細める。
「少しだけだがな。結局、減税を進言しても駄目だったんだ。援助なんて到底無理だと分かったよ」
俺が眉を曇らせると、ヤクモは眼鏡をクイッと押し上げ、表情を隠した。かける言葉が見つからず、俺も遠くを見つめる。水平線の先に『世界の壁』が見えた。
その向こうには、ここではない世界があるらしい。だが、誰も行ったことがなく、本当かどうか定かではない。
たまに異世界のものと思われる漂流物が流れ着くだけだ。
沈黙が満ちる。俺たちは防波堤に座り、遠い水平線――その先の『世界の壁』を眺めたまま、じっと潮風に身を任せていた。
やがて日が高くなり、日差しが強くなってきた。そろそろ町に戻ろうと声をかけようとした――そのとき、あの声が届いた。
「君たちは昨日、会った。たしか――ソウガとヤクモだったね」
振り返ると、日傘を差して微笑むシロウが立っていた。その姿に、俺の心臓がとくりと跳ねた。
俺は防波堤を下り、シロウのもとへ駆け寄った。昨日とは違い、ゆったりとした服を着ている。夏なのに露出は少ない。日焼けを気にしているのだろうか。
じっとシロウを見つめていると、彼は苦笑いを浮かべた。
「僕は肌が弱いんだ。だから、今日みたいに日差しが強い日は、全身を隠すように服を着ている。この日傘もそうさ。顔だけは隠せないからね」
悲しげな表情を浮かべるシロウに、俺は頭を下げる。昨日見た白い肌にも納得がいった。綺麗だと思ったが、彼にとってはコンプレックスだったのかもしれない。
「気にしなくていいよ。子供のころから、ずっとだから慣れている。それより君たちは、どうしてここに? 昨日、忠告したはずだけど」
シロウの瞳が鋭く光った。何かを警戒するその視線に、どう答えるべきか逡巡する。
そのとき、ヤクモが防波堤から飛び降り、隣に並んだ。
「昨日のやつか。偶然だな。忠告はありがたく受け取ったが、俺たちにも用事がある」
「それは何?」
短い言葉だったが、鋭く重い。一気に緊張が走り、俺は息を呑む。ちらりと隣に視線を向けた――そのとき、ヤクモが静かに告げた。
「この領地で反乱が起こるかもしれん。その調査だ。協力してもらうぞ、アクアクサ領主――シロウ・フォン・アクアクサ」
その言葉にシロウは目を見開き、日傘の柄をぎゅっと握りしめた。その沈黙は肯定なのか、それとも拒絶なのか――。
答えを求めて俺が足を踏み出そうとした瞬間、風向きが変わった。
生温い潮風が不意に吹き荒れ、俺の喉元で凍りついた言葉を攫っていく。心地よかったはずの磯の匂いが、今はひどく鼻につき、喉の奥をざらつかせた。
読んでくださり感謝です<(_ _)>
ブクマor★で応援いただけると励みになります!




