130 冷える朝、残る方言
窓から差し込む朝日に目を細める。昨日、魔翼のクロメと別れた俺は、いつもの食堂に寄って早めの夕食を済ませて帰った。
家に入るとすぐに湯浴みするためにお湯を沸かしたが、疲労が溜まっていた俺は、そのまま寝室に向かい、着替えるのも忘れてベッドに倒れ込んだ。
カーテンも閉め忘れていたらしい。窓から容赦なく初夏の日差しが俺の顔を照らす。疲労は抜けておらず、もう少し眠りたかったが、目が覚めてしまった。
俺は大きくため息をつき、ベッドから起き上がって両手を組み、思い切り背を伸ばす。かすかな痛みが走り、眉をひそめた。
「『貴方の力になりたい』――か。どうも胡散臭いな」
俺は昨日の別れ際にクロメから言われた言葉を思い返した。あまりに俺が警戒していたので、彼女は肩をすくめ、その言葉だけを告げて去っていった。
その後ろ姿は炎翼のアスカよりも迫力があり、格上に見えた。そんな彼女が、ただの学生でしかない俺に接触する理由なんて、碌なものじゃないはずだ。
しばらくは注意して過ごしたほうがいいだろう。思考の海に沈みかけた――そのとき、腹の虫が盛大に鳴り、苦笑いを浮かべた。
どんなときでも、腹は減る。俺は皺だらけの学生服を脱ぎ捨て、半袖のシャツとズボンに着替えると、玄関に向かった。
昨日は疲れていたので、朝食の材料を買う余裕がなかった。だが、この時間なら近くの食堂も開いている。
何を食べようか考えながら扉を開くと、ナツメとハンナが大きめのバスケットを持って立っていた。
中には果物と木箱が見える。たぶん、朝食を持ってきてくれたのだろう。俺が笑みを浮かべると、二人はぎこちなく笑顔を返した。
その表情を見て、俺は悟った。彼女たちも気づいている。俺の方言魔法――『さむか』と『すぅすーっす』が使えなくなったことに。
俺は悲しげに微笑み、ナツメとハンナを家に招き入れると、バスケットの取っ手がきゅっと鳴り、二人の瞳が一瞬揺らぐ。
やがて彼女たちは沈痛な面持ちになり、静かに家へと入っていった。
◆
私たちがソウガに続いて食堂に入ると、かすかに湯の香りがした。視線を台所に向け、コンロの上の鍋を見る。張り詰めた水面が朝日を冷たく跳ね返していた。
昨日は疲労の限界だったのだろう。湯浴みのためか、料理をしようとしたのか分からないが、何もできずに眠りについたことは容易に想像できた。
「それで二人は、何しに来たんだ?」
ソウガは私たちに座るよう促しながら尋ねた。私は言葉が見つからず、開きかけた口を閉じる。そのとき、隣に立つハンナが静かに答えた。
「何しに――って、ソウガが心配で来たに決まってるでしょ。それに、理由がないと会いに来ちゃいけないの?」
こんなとき、自分の気持ちに素直になれる彼女が羨ましかった。真っすぐ彼を見つめるハンナに嫉妬する。
「悪かった、ハンナ。それにナツメも。どうやら気持ちが少しささくれ立っていたらしい」
ソウガは眉を下げて謝る。いつもより元気も覇気もなかった。その姿を見て、私たちは小さく頷き合う。
「……ところで、ソウガ。ちょっとお願いがあるんだけど、いいかな?」
「突然どうしたんだ、ナツメ」
私の言葉にソウガは少し警戒する。自業自得だが、少しだけ傷つく。けれど、今はそれよりも確かめなければならないことがあった。
「大したことじゃないんだ。ちょっと、方言魔法を使ってよ。『さむか』か『すぅすーっす』のどちらかをね」
ソウガが目を見開く。それだけで私たちは確信する。だけど、彼の口からちゃんと聞きたかった。じっと見つめると、ソウガは肩をすくめた。
「やっぱり、二人とも気づいていたのか。昨日の試合でお前たちに付与してから、ずっと使えないんだ。『さむか』と『すぅすーっす』だけは――」
儚げに笑うソウガ。その金色の瞳に影が落ちる。いつもどこか自信に溢れていた面影は微塵もなかった。
その姿に胸が苦しくなる。彼がどれだけ方言魔法を大事にし、誇りに思っていたのか――痛いほど分かった。同時に罪悪感にも襲われる。
私は覚悟を決めた。どうせ隠しておくわけにはいかない。いずれは分かることだ。それに――これは、チャンスかもしれない。私は人差し指に魔力を集めて呟く。
「ちと、さむか」
その瞬間、指先に小さな魔法陣が展開され、氷の子猫が飛び出した。それはテーブルに降りると、ちょこんと座り込み、前足を舐め始める。
ソウガは息を呑み、呆然とする。沈黙が食堂に落ちる。そのとき、ハンナの言葉が静かに響いた。
「ちと、すぅすーっす」
視線をハンナに向ける。彼女の掌には真っ白な妖精が座り、楽しげに足をぶらぶらと揺らしていた。そして、その周りには、そよ風が舞う。
ソウガは口を開くが、何も言葉が出てこない。その間にも私たちの方言魔法は発動し続け、食堂に冷気が満ちた。
氷の猫が周囲を冷やし、風の妖精が空気を循環させる。やがて食堂は初夏とは思えないほど寒くなる。
私が慌てて魔法を解除すると、ハンナも倣う。すると、猫と妖精は光の粒子となり、消えていった。
しんと空気が張り詰め、室温以上に寒く感じる中、私たちはソウガを見つめる。彼の方言魔法を奪ったのだ。罵倒は甘んじて受けるつもりだった。
私たちが頭を下げようとした――そのとき、彼は満面の笑みを浮かべた。
「よかった~~。方言魔法が消えたわけじゃなかとね」
いつもと違う独特のイントネーションとリズムに困惑する。だけど、その言葉には心の底からの安堵と歓喜が滲んでいた。
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