茫然(鴨宮、首都へと戻る)
夕暮れ時の狭いアパートの廊下。湿った夏の空気が、剥き出しのコンクリートの壁にまとわりついている。鴨宮は、足元に置いた使い古されたボストンバッグを見下ろした。中身は数着の着替えと、擦り切れた台本、そしてドサ回りで買った場末の土産物だけだ。
「……で、これはいったいどういう……」
鴨宮はアパートから歩いていける距離にある不動産屋を訪れた――ドサ回りに出発する直前、徹底的なデジタルデトックスだと言い張ってスマホを実家に送り、連絡手段を断っていたため誰かとの連絡手段は実際に会うしかなかったのだが――不動産屋の窓口にいた担当者に向かって声を絞り出した。不動産屋は事務的な、どこか冷ややかな声で言葉を返した。
『ですから、鴨宮さん。こちらは何度もスマホに連絡したんですよ、スマホに出られた親御さん、保証人様にも連絡をして欲しいと言いました。今時スマホを持ってなくて、連絡の取りようがなかったので仕方なかったんです。契約に基づいた契約解除措置は、当然の事です。更新時期もとうに過ぎていて、家賃の引き落としも三か月分滞っていましたからね。荷物はきっちりダンボールに詰めて、管理棟の空き部屋で預かっていますから』
「いや、預かっているって、勝手に……俺の部屋に、別の人が住んでるんですか?」
『あ、荷物の引き取りと、滞納分の精算についてですが……』
しばし、事務的な手続きが語られた後、会話は一方的に打ち切られた。呆然と不動産屋を出た鴨宮の頭に、ジリジリと容赦のない8月の西日が照りつける。居場所が綺麗さっぱり消えて無くなってしまったのだ。
――どうする。今夜から、どこで寝る?
路上生活か、それとも劇団の稽古場の片隅か。頭の中が真っ白になりかけた時、鴨宮の脳裏にひとりの顔が浮かんだ。今回の地方ドサ回り、過酷な地方巡業を共にした客演の俳優――真壁だ。誰よりも近くで芝居の相談に乗り、時に安い缶ビールを分け合った、あの男。鴨宮は真壁に渡された住所まで歩いていき、家に帰ってくるのを待つことにした。
*
一時間後。某所の少し古びた一軒家のリビング。
「――で、出てけって叩きだされたわけだ」
真壁はグラスに入った麦茶をカランと鳴らし、
呆れたような、どこか面白がるような目を鴨宮に向けた。
「笑い事じゃないですよ……。俺、ホームレスですよ。
持ち物はバッグ一つだけ。家財道具なんて、ほとんど無いし……」
「スマホなしにして誰かと会うようにするなんて
おかしなポリシーで生活してるからだよ。
世間から見れば、お前は一時的に『消えた人間』扱いだったんだよ」
真壁はふうっと息をつくと、キッチンのカウンターに肘をついた。
「まあ、でもよかったじゃん。野垂れ死にしないで済んで」
「よくないですよ。今夜から24時間営業のネカフェかサウナに泊まるしか……
いや、銀行口座に残高が無い」
頭を抱える鴨宮の肩を、真壁がポンと叩いた。
「じゃあさ、少しの間だけシェアハウス形式で一緒に住む?」
「え……?」
顔を上げた鴨宮に、真壁はいつもの気負わない笑みを向けた。
「うちの爺さんが住んでいて親が相続したけど
今は空き家になっていたから、この家に俺が住んでいるんだけど、
和室が一つ、まるまる物置になってて空いてるんだよ。
家賃とかいいからさ。
その代わり、台詞合わせの相手をすること、
あとゴミ出しとか自炊の当番を半分こ。これでどうだ?」
「い、いや、そんな申し訳ないです……。
だいたい、急に男ふたりで同居なんて――」
「は? 何言ってんだよ。
ドサ回りの地方の健康ランドじゃ、大部屋に雑魚寝が当たり前だったろ。
首都に戻ってきたからって、何を気にしてんだよ」
真壁は立ち上がり、冷蔵庫から冷えた缶ビールを二本取り出すと、一本を鴨宮の額にピタッと押し当てた。冷たさに鴨宮がビクッと肩を揺らす。
「ほら、冷えてるうちに飲め。」
窓の外では、蝉の声が遠ざかり、夜の静けさが忍び込んできている。夏の日差しで熱くなったアスファルトの熱気は真夜中まで冷めないが、差し出されたビールの冷たさが気持ちよく、あまり酒に強くない鴨宮の視界は酔っぱらいモードになっていった。
「……すいません。お言葉に甘えます。マジで、助かりました……」
「よし、決まったな。
じゃあ、とりあえず9月末からの
劇団の次回公演宣伝や準備を手伝ってくれな
家賃は無料な代わりに、劇団のために働くって事で」
何かを含んだ感じで笑う真壁の背中を見つめながら、鴨宮はふっと息を吐き出した。
のめりこむと他の事が、どうでもよくなって、ほったらかしにしてしまう鴨宮は雑な性格なせいで、住む場所を失ってしまったけれど、その馬鹿な真似が結果として真壁や真壁の劇団との交流を深いものとした。




