ジロー物語 シーン4 乳母との再会
実母がいなくなって最初の春、新学期が始まる
ジローの背は父親や兄と同じくらいに
もはや大人と変わらないほどに伸びていた。
実母の病気が危篤に近い状態だった去年の今頃は
休む方がよかろうという事で学校に通えなかったので
2年ぶりに学校で迎える春だ。
先生の王都の大学で過ごした昔語りを聞き、
いずれ王都で過ごすだろう日々に思いをよせていた。
しかし、去年と同じ春という季節の情景により、
ジローの心に浮かぶあがるのは去年の今頃のことであった
・・・
あの頃、実母はジローの姿が見えないと寂しがった。
そして彼に薬をのませて貰ったり、手を握っていて貰ったりするのを
楽しみにしており、苦い薬も、ジローの手からだと喜んで口にしていた。
ジローにしても、母のその気持には喜びを感じた。
母を看護することにより、知らなかった感情を昧うことが出来た。
母の前では偽りも細工もない、ひたむきなものになっていた。
実母が、いよいよ逝きそうなほどに衰弱する数日前、
枕元に坐っていたジローの顔をまじまじと見ていたが、
その眼を、祖母の方に向けて言った。
「ジローの乳母だった彼女の居どころは、わかりましたか?」
ジローは、この頃、乳母のことは忘れていた。
彼には乳母という言葉が、全く耳新しくさえ響いた。
それに、記憶に残っている限りでは、実母と乳母とは、仲は良くなかった。
だから、実母のその言葉を聞いた時には、不思議に思ったくらいであった。
祖母は答えた。
「ああ、そうそう、まだお前には言わなかったかねぇ
何でも、何でも屋に頼んで調べて貰って見つけたそうだよ。
今では王都で働いているんだとさ。」
「では、呼んで貰いましょうかしら」
「そうかい、会いたけりゃ、すぐにでも呼べるからねぇ
でも、大丈夫かい。会って気を乱すと病に悪いからねぇ」
実は、乳母には、すでに祖母から手紙が出してあり、
まさかの時には電報を打つから、すぐ来るようにと、
必要な旅費まで送ってあるのだった。
祖母はそれを実母にかくしていたのである。
「大丈夫ですわ。」
実母は笑って、またジローを見た。
電報が再び打たれた。ジローはそれから妙に浮かれた。
しかし、それは嬉しくてたまらないからではなかった。
嬉しいには嬉しいが、その奥に不安とも、好奇心ともつかぬ、
えたいの知れないものが動いていた。
ジローは自分の落着かない気持を自覚して、
それを母に見せまいとつとめたが、彼の動作はいつもそれを裏切った。
用もないのに、部屋を出たり入ったりした。
薬の時間でもないのに、ひょいと薬壜をとり上げ、
その目盛をすかして見たり、栓をぬいてみたりした。
また、ぽかんとして庭を見つめていて、
急に気がついたように母の顔をのぞいたりした。
実母は彼のそんな様子を見ながら、いつも微笑していたが、
彼はその微笑を見ると、よけいに心が落ち着かなかった。
乳母は電報を受取ってすぐに出かければ、翌日の夕方までに着くはすであった。
ジローは祖母の言葉でそれを知っていた。だが、その時刻になっても病室にいて、
乳母の到着時間なんか忘れているかのように振る舞った。
そのくせ、言ったり、したりすることは、とんちかんな言葉になっていた。
彼の心の中は、もう乳母の事で溢れ、
眼の前に乳母の顔が幻のように始終現れたり消えたりした。
それは、さほど鮮明では無い朧げなものだったが、
かえって薄れるほどに過ぎた長い時間のために、
ジローは幻夢の中を漂うような気持だった。
「ジローちゃんの育ての母が来たよ。早く迎えておいで。」
部屋に来た兄が言った。
ジローは平静を装ったが、会うまでの彼の足は宙に浮くかのようで
心が乱れていたことは、彼自身が一番よく知っていた。
乳母は、一族の中で色んな世話役をする老人達を相手に話していた。
家に居る従兄弟たちは、珍しそうにその様子を眺めていた。
ジローが部屋に入って行くと、乳母は中腰になりながら、
「まあ。男子というより、もはや大人の男とも言えるほどに
御立派に成られましたなぁ」
彼女は、ジローと自分との間の心の距離が、もどかしそうであった。
ジローは、しかし、お客にでも行ったように行儀よく坐って、固くなっていた。
彼のこの時の気持は実に変だった。彼の前に坐って物を言っているのは、
数年前に別れた乳母にはちがいない。しかし、同時に全く別人のような気もする。
それはちょうど、着なれた着物を一度しまいこんで、
久方ぶりに、また取り出して着る時のような感じがしていた。
乳母は、たてつづけに、いろんなことを彼にたずねた。
彼は、ただ「うん」とか「ううん」とかいう簡単な返事をするだけであった。
その簡単な返事ですら、いつものように自然には出なかった。
時を挟むと、初対面の人に対するような返事をしそうになることさえあった。
「母も待ちかねているようだから、ジローと一緒に顔を見せてやってくれ」
ひととおり二人の問答がすんだところで、兄が言った。二人はすぐ立ちあがった。
病室に行く途中、乳母はジローの肩を抱くようにして歩いた。
「本当に大きく立派に成られましたわね。うれしゅうございます」
ジローは、以前のような親しみが心に蘇るような気がした。
そして、乳母に同じ心持ちなのかを訊ねてみたいと思ったが、
何故か、言い出す言葉が見つからず黙っていた。
病室にはいると、乳母は祖母には挨拶をしないで病人の枕元に坐った。
ジローの肩に手をかけたままだったので、
ジローも一緒に坐らなければならなかった。
彼女は坐ったきりうつむいてしまって一言も言わなかった。
ジローは彼女の膝にぽたぽたと涙が落ちるのを見た。
「よく来てくれたね。」
祖母の方からそう挨拶され、
乳母は、急いで涙を拭いながら、笑顔を作った。そして、
「ほんとに申し訳もないほどに、ご無沙汰をいたしまして。
……ご病気のことなど、ちっとも存じなかったものですから。」
そして二人は共通の知り合いについて話しだした。
ジローは、その世間話によって、
爺さんが死んだこと、幼馴染が奉公に出て金を稼いでいること、
乳母の実子が学校で優等賞を貰ったことなどを知った。
ジローは、乳母の家の様子を思い出しながら聞いていた。
祖母は、
「子供がだんだん大きくなると、
何かにつけ領都に住む方が都合が良いと思うよぉ
ジローは、お前と一緒に過ごした時間より
戻ってきてから、ここで過ごした時間が長くなったから、
祖父も手放そうとしないしねぇ
病気には、何といっても、ここの空気がいいのだよぉ」
とか言って、乳母が、ある言葉を言いそうになると
その言い出しそうな言葉を遮っていた。
しかし乳母には、何故かが推察がついたらしく、
彼女は遮られるたびに溜息をついて、ジローの顔を見た。
ジローはそのたびに、何か知ら窮屈な感じがした。
双方の話が一段落ついたころに、
実母はふと乳母の方に顔をむけ、しみじみとした調子で言った。
「もう一度、お前に会えて、良かったよ」
「まあ奥様、勿体なき、お言葉です――」
と、乳母は後の言葉が出なかった。実母はしばらくしてから、
「ジローも大きくなったでしょう。」
「ええ、ええ。さっき、びっくりしたところでございます。」
「あたし、この子にも、お前にも、
ほんとうにすまなかった事をしたと思うの。」
「何をおっしゃいます。」
「子供って、ただ一緒にいて、可愛がれば良かったのね。」
乳母には、実母の言った言葉の含んだ意味が
理解できかったが、その気持だけは通じたようだった。
「それが、このごろ、やっとわかって来たような気がするの
でも、わかったころには別れなくてはいけなくなった。」
「まあ、奥様――」
「死ぬのは、もう恐くも何ともないの。なんの未練も無い
だけど、この子に心の傷を与えたままになるのかと思うと……」
「そんなこと、ありませんよ。」
「このごろ毎日のように、この子に心の中であやまっているの。」
「まあ、――まあ、――」
「でもね、この子に気持ちが伝わってくれている・・・
何となくそんな気がするの。それでいくらか心が落ち着くの。
……でも、お前にも一度、あやまっておかないと、
気がすまなかった
領主夫人としての諸事に埋もれて
母親としての役割を全部、御前に押し付けていたのに
家の掟とはいえ、無理やり引き離すような真似をして
本当に、すまなかったね」
「まあ、とんでもない」
と、乳母は袖口を眼にあてて、
「坊ちゃん……何て坊ちゃんは幸せなんでしょう。
お母さんに、こんなに思っていただけているのですもの。
仮に、この先、坊ちゃんを可愛がっていただく人が、
誰もいなくても、もうこれからは大丈夫ですわね。
……たった一人ぽっちになっても、
きっと、きっと坊ちゃんはな、お偉い人になれるでしょう。」
ジローはだしぬけに乳母の膝にしがみついて、顔をおしあてた。
「ひとりぽっち」という言葉が異様に胸に響いたのである。
「でも一人ぽっちになんか、なりっこありませんわね。
お父さんがいらっしゃるし、
お祖父さんやお祖母さんもいらっしゃるんですから。
それにあたしだって、遠くからいつも
坊ちゃんの無事を神様にお祈りしています。」
「ジロー、――」
と、実母は、じっと虚空の何かを見つめながら、
「遠いところから、ずっとジローの生涯を見ててあげる。
だから……だから……怒りを感じたり……悲しかったりしても……」
そのさきは息がはずんで、誰にも聞きとれなかった。
祖母は、さっきから鼻をつまらせて二人の話をきいていたが、
「今日はもう話すの、およしよ。
そう一気に話して疲れるといけないからねぇ」
「ええ、これくらいにしておきます
……ああ、長く心に引っかかっていた重い何かが消えました」
そう言って実母は眼をとじた。
その晩、ジローと乳母とは同じ部屋で寝た。
乳母は、暑いのに、夜どうしジローの肩に自分の手をかけては、引きよせた。
ジローは、自分の手先が乳母の体に触るごとに寝がえりをうった。
彼はよく眠れなかった。
それは乳母に引きよせられていたからだけではなかった。
二人から自分に向けられた想いが
何であるのかを理解できる年齢になった彼の夢の中に
その想いによる情景が何度も
浮かんでは消えていっていたからである。
・・・
そんな、去年の今頃の情景が思い起こされた春の日
あれから、乳母は再び、自分の視界から消えた。
実の所、三人で過ごしたかのような子供だった日々は、
二度と戻らない過去のものとなって
たぶん、この心に浮かぶ情景も忘れていくのだろう
ジローは、そんな事を思い浮かべていた。
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「ふーむ、今度は二人の母の別れの情景かぁ
更に別れシーンを出して
その中にジローの体や心の成長に関する描写
にしても成長に関する部分が少なすぎないかな?」
「いーや、最初は少なくていいでしょー
どうせ、2稿、3稿と書き直していく内に
成長描写を増やしたいんでしょ?」
「まあ、いったん、ここまでにしておいて
少し時間を置いて、シーン5以降を書こうか
一気に大筋を固めなくても、いいよね」
「そうですね、何故か各自、読んで時間を置かないと
どう偏っているかとかが見えてこないですからね」
「じゃあ、そういう事で、また来週、同じ時間に」
「はい、また来週」




