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第91話 生還の報せ

 シーレインの冒険者ギルド、二階のVIP用応接室。

 狂信的な絶対正義を掲げる部下のルカと、すべてを「推し」として崇拝する限界オタクのギルドマスター、ミオ。二人の間で激しく散らされた火花は、見かねたシグマとノアがルカを両脇から抱え上げ、強制的に部屋の外へ引きずり出したことで、ようやく収束を迎えた。

「クリス、俺たちは外に出てるわ」

「ルカ、大人しくしなさい。隊長を困らせてどうするんですか」

「離してください! 私は隊長のお側に……っ!」

 バタン、と重厚な扉が閉まり、廊下へと消えていく騒々しい声。

 嵐が去り、再び静寂を取り戻した応接室で、クリス・シス・フィンリードは革張りのソファに深く沈み込み、疲労困憊といった様子で大きく息を吐き出した。

「……全く」

 王都を出立して以来、張り詰めていた緊張の糸が、思わぬ形で緩んでしまった。

 対面のソファに座るミオは、先程までの狂喜乱舞していた姿が嘘のように居住まいを正し、コホンと一つ咳払いをした。

「……お見苦しいところをお見せいたしましたわ、クリス様。シーレイン・ギルドマスターとして、改めてお詫び申し上げます」

 顔の赤みはまだ微かに残っているものの、その表情はすでに冷徹で知的なギルドマスターのそれへと切り替わっていた。

「いや……構わない。こちらも身内が騒がしくしてすまなかった」

 クリスは姿勢を直し、冷たい氷の仮面を被り直して本来の目的を切り出した。

「早速だが、本題に入りたい。我々六番隊は、王国騎士団の任務として、これから海路でジャスティア王国へ向かう」

「ジャスティア王国……ですか」

「あぁ。そのため、この街から出航する船を手配してもらいたい。極秘の任務というわけではないから、裏に回る必要はない。ギルドの正規の手配で、確かな船を頼む」

「承知いたしましたわ。クリス様からの正式なご依頼とあらば、このミオ、ギルドの権限をフルに活用し、最も安全で速い船を迅速にご用意いたします」

 ミオは流れるような所作で手元にメモを取る。その仕事ぶりは、限界オタクとしての顔からは想像もつかないほど有能で隙がなかった。

「恩に着る。準備が整うまでは、この街で待機させてもらう」

「ええ。出航の手続きが完了いたしましたら、すぐにお知らせいたします。それまでは、ゆっくりとお体を休めてくださいませ」

 ミオは立ち上がり、完璧なカーテシー(臣従の礼)を披露すると、手配のために部屋の扉へと向かって歩き出した。

 要件は済んだ。クリスは目を閉じ、再び押し寄せる疲労と、この先に待つ血生臭い任務への覚悟を反芻しようとした。


――その時だった。


「クリス様。……少しだけ、よろしいでしょうか」

 扉に手をかけたミオが、ふと足を止め、背中越しに声をかけてきた。

 その声には、先程までの事務的な冷たさも、ファンとしての熱もなかった。ただ、一人の人間として、深く傷ついた青年を気遣うような、静かで真摯な響きがあった。

「何か?」

 クリスが目を開け、わずかに視線を向ける。

 ミオはゆっくりと振り返り、真っ直ぐにクリスの横顔を見つめた。

「……セラ様は、生きていらっしゃいます」

――ドクン、と。

 クリスの心臓が、異常な音を立てて跳ね上がった。

 時が止まったかのような錯覚。クリスは弾かれたように立ち上がり、目を見開いてミオを凝視した。

「な、に……?」

「セラ様はご無事です。数日前、このシーレインのギルドを訪れましたわ」

 ミオの口から放たれた言葉は、クリスの分厚い氷の仮面を音を立てて粉々に砕いた。

「生きて……セラが、生きている……? あの崖の底から……ッ!?」

「はい。私、直接お話しもいたしました。あの方は、ご自身の足でしっかりと立ち、とても逞しいお顔をされていましたわ」

 ミオは、セラが探しているという『聖剣』のことはあえて伏せた。彼が何を目的としているにせよ、今この極限状態にあるクリスに余計な情報を与えるべきではないと判断したからだ。

「セラ様は、すでに新たな目的地へと旅立たれました。……はるか東の秘境、『エルフの国』へ向けて」

「エルフの、国……」

 クリスは、よろめくように一歩後退し、ソファの背もたれに手をついた。

 頭の中が真っ白になり、視界が激しく揺れる。

 セラが、生きている。あの暗黒の奈落に飲み込まれてなお、命を繋ぎ止めていた。

 胸の奥底から、信じられないほどの安堵と、爆発的な喜びが込み上げてくる。あいつがこの空の下で、今も息をして、前を向いて歩いている。その事実だけで、クリスの魂を縛り付けていた呪いの鎖が一つ、解け落ちた気がした。

 だが、その喜びの直後。

 ザシュッ、と肉を裂く生々しい感触が、クリスの右手に鮮明に蘇った。

(……俺は、あいつを斬った)

 歓喜は一瞬にして、ドロドロとした真っ黒な自己嫌悪と絶望に塗り潰されていく。

 セラが生きているからといって、自分の罪が消えるわけではない。怒りに呑まれ、自分が正義だと盲信し、世界で一番大切な親友の胸をこの手で切り裂いたのだ。あいつから居場所を奪い、死の淵へと追いやった大罪人。

 それが、自分だ。

「……ッ、ぁぁ……」

 クリスは顔を覆い、喉の奥から絞り出すようなうめき声を漏らした。

 セラが生きていてくれたことは、何よりも嬉しい。けれど、そんな自分があいつに二度と会う資格などない。あいつが新しい道を歩き始めているのなら、もう二度と自分の血塗られた影を落としてはならないのだ。

 歓喜と絶望、自責の念がぐちゃぐちゃに混ざり合い、クリスの身体が微かに震え始める。

 その痛々しい姿を見て、ミオは悲しげに目を伏せた。

 彼女はこれ以上、言葉をかけることはしなかった。今のクリスに必要なのは、誰かの慰めではなく、己の感情と向き合うための孤独な時間だと察したのだ。

「……私は、手配に向かいます」

 ミオは静かに完璧な所作で一礼すると、音を立てずに応接室の扉を閉めた。

 カチャリ、と扉が閉まる音が響く。

 誰もいなくなった部屋で、クリスはついに膝から崩れ落ちた。

「……セラ……よかった……本当によかった……っ」

 両手で顔を覆ったまま、クリスの目から大粒の涙がボロボロとこぼれ落ち、絨毯に濃いシミを作っていく。

 殺してしまったとばかり思っていた。その重圧に押し潰されそうになりながら、悪鬼となって戦い続けてきた。

 だが、あいつは生きている。前を向いて、自分の足で進んでいるのだ。

「……なら、俺も」

 クリスは涙を乱暴に拭い、ゆっくりと立ち上がった。

 自分がセラに合わせる顔はない。お互いの道は、もう完全に分かたれてしまった。

 セラが『エルフの国』という新たな道へ向かったのなら、自分はこれ以上、あいつの足枷にはならない。自分は自分の選んだ修羅の道――ジャスティア王国の先にある任務を全うし、魔王を討つという血塗られた道を進むだけだ。

 クリスは再び氷のように冷たく、けれど確かな熱を帯びた瞳で前を見据えた。

 乱れた衣服を整え、応接室の扉を開ける。

 一階へ続く階段を降りると、そこには手配を終え、静かに待機しているミオの姿があった。

 クリスは彼女の元へ歩み寄ると、立ち止まり、深く頭を下げた。

「……ありがとう。この恩は、一生忘れない」

 それは、船の手配への感謝だけではない。親友の生還を教えてくれたことへの、魂の底からの礼だった。

「どうか、ご武運を。クリス様」

 ミオが静かに微笑んで見送る中、クリスは迷いのない足取りでギルドの扉へと向かう。

 外に出ると、外で待機していたシグマたちが心配そうに駆け寄ってきた。

「クリス、大丈夫か?」

「あぁ。船の手配は済んだ。港へ向かうぞ」

 生きていると分かった親友への思いを胸の奥深くに封じ込め、氷の騎士は決意も新たに、潮風の吹く港へと向かって歩み出した。



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