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第90話 氷の騎士、限界オタクに遭遇す

 王都を出立した蒼天の天秤騎士団・六番隊は、海路をとるため、王国随一の港町『シーレイン』へと足を踏み入れていた。

 活気に満ちた潮風と喧騒。大陸中から商船や旅人が行き交い、昼夜を問わず熱気に包まれるこの街の大通りを、クリス・フィンリードを先頭に、シグマ、ノア、ルカの四人が歩んでいく。

 だが、彼らの間に流れる空気は、街の賑わいとは全く相容れない、重く冷たいものだった。

 シグマの背中には愛用の大剣が揺れているが、かつて常にその隣で巨大な鉄盾を構え、無言で彼らの背中を守り続けてくれた男の姿はもうない。

 帝国の地下深く、魔王軍四天王ガラルドの圧倒的な暴力の前に、自らの命を盾にして仲間を逃がしたオメガ。彼の尊い犠牲を無駄にしないため、シグマもノアも、決して消えることのない悲しみを胸の奥底に封じ込め、ただ前だけを見据えて歩みを進めていた。

 そしてクリスの瞳は、以前にも増して底知れない虚無に沈み、一切の光を反射しない氷のように冷え切っている。

 学術都市の地下で進められているという魔力炉の研究と、騎士団の中枢に潜むかもしれない内通者の影。この国に巣食う悪をすべて自分の手で切り伏せるという彼のどす黒い決意は、もはや後戻りのできない修羅の道へと彼を深く縛り付けていた。

「隊長、ギルドが見えてきました」

 クリスのすぐ背後を歩くルカが、静かに声をかける。

 彼女の瞳には、クリスに対する狂信的な忠誠心だけが宿っていた。敬愛する隊長がこれ以上傷つかないよう、自分がすべての汚れ仕事を引き受けるという歪んだ正義感は、彼女を鋭利な刃のように研ぎ澄ませている。

(この街で船を手配する。そして……)

 クリスは港を見つめ、脳裏にかつての仲間たちの顔を思い浮かべた。マリーとクロエ、そしてセラ。もしこの街に彼女たちがいるなら、足跡だけでも掴めるかもしれない。だが、自分がセラを斬ったという事実がある以上、自分から会いに行く資格などないのだと、すぐにその考えを振り払った。

 煉瓦造りの大きな冒険者ギルド。

 重厚な木製の扉を押し開けてクリスたちが足を踏み入れた瞬間、ギルド内の空気が異様な重圧でピタリと凍りついた。

 元Sランクパーティー【正義の剣】の主軸であり、現在は王国最強の『蒼天の天秤騎士団』の精鋭として死線を潜り抜けてきた彼らが無意識に放つ覇気は、一介の冒険者たちがたやすく近づけるものではない。

 周囲の冒険者たちが息を呑み、静かに道を空ける。クリスが無表情のまま受付カウンターへと歩み寄ろうとした、その時だった。

「――あら。何か、普段と違う雰囲気がすると思ったら……」

 二階の吹き抜けのバルコニーから、ギルド全体を制圧するような、氷のように冷たく凛とした声が降ってきた。

 顔を上げたクリスの視線の先に立っていたのは、夜の海のように艶やかな黒髪のロングヘアーを揺らす、美しい女性だった。シーレインのギルドマスター、ミオ。

 彼女は冷徹な眼差して一階の荒くれ者たちを牽制すると、流れるような優雅な足取りで階段を下り、クリスたちの前へと歩み寄った。

「……あなたが、六番隊隊長のクリス様ですね。お噂はかねがね。私はこのシーレインのギルドマスター、ミオと申します。……どうぞ、こちらへ」

 ミオは一切の隙を見せない、品のある完璧な所作で、二階のVIP用応接室へと彼らを案内した。

 重厚な扉が閉まり、外部の喧騒が遮断された瞬間――。

「…………へ?」

 ミオの足がピタリと止まった。

 彼女はゆっくりと振り返り、目の前に立つクリス、シグマ、ノアの顔を、上から下まで穴が空くほど凝視した。

 その整った美しい顔が、急速に真っ赤に染まっていく。

「ま、待って……嘘、でしょ……?」

「……? ミオ殿?」

 クリスが怪訝そうに眉をひそめた、そのコンマ数秒後。

「キャアアアアアアアッ!!! 本物! 本物の【正義の剣】……いえ、蒼天の天秤騎士団の皆様ですわよね!? うそ、私の脳がバグを起こしそうです! 皆様が生きて私のギルドにいらっしゃるなんて……! 尊い、尊すぎますわぁぁぁっ!!」

 さっきまでの氷のような冷徹なギルドマスターの面影は完全になくなり、ミオは両手をぶんぶんと振り回しながら、狂喜乱舞するように絶叫した。

 あまりの豹変ぶりに、いつもは豪快なシグマでさえ「は……?」と間抜けな声を漏らして後ずさる。

「あ、あの……! 私たちは任務で船の手配を……」

「存じておりますわ! 帝国での潜入調査、四天王との死闘……! ギルドの裏ネットワークを通じて、皆様の壮絶な戦いはすべて把握しております! オメガ様が名誉の戦死を遂げられたと知った時は、私、三日三晩泣き明かしましたのよ……っ! ですが、こうして生き残られた皆様の尊きお姿を拝見できて、私の肺が歓喜で爆発しそうですわ!」

 ミオは両手で自分の頬を抑え、白目を剥きかけながら床をジタバタと踏み鳴らす。

「な、なんだこの女……」

 シグマが完全に引いた顔でノアの後ろに隠れる。

「あ、あの、ミオさん……落ち着いてください。私たちはただ、次の移動の前に……」

「もちろんですわクリス様! このミオ、全身全霊を捧げて皆様のサポートをさせていただきます! 特にクリス様、その冷徹にすべてを背負う孤高の美しさ、たまりませんわ……っ! ちなみに、皆様の座られるソファーは後で絶対『永久保存の聖地』としてガラスケースに収めますからね!」

「それはやめてくれ」

 クリスが人生で一番低い、真剣な拒絶の声を絞り出した。

 その時、クリスの背後に控えていたルカが、ギリッと奥歯を鳴らして前に進み出た。

「ちょっと! さっきから馴れ馴れしく隊長に近づかないでください! 隊長の気高い魂を、あなたのような下品な目で汚さないで!」

 ルカが外套の下で投剣の柄を握りしめ、獲物を狙うような殺気を放つ。

 しかし、ミオはそれに怯むどころか、冷ややかな視線でルカを上から下まで見下ろした。

「あら? あなたは……新しく特務部隊に配属された、ルカ・ロスティさんですわね。たかだか数ヶ月前に隊に入ったばかりの『新参者』が、結成当時からの最古参ファンであるこの私に口答えするなんて、100年早いですわよ!」

「ふ、ファン!? 私はファンなんかじゃありません! 私は隊長の剣であり盾となる存在です! あなたのような外野と一緒にしないで!」

「あらあら、随分と盲目的で独りよがりな愛情ですこと。クリス様の真の美しさは、遠くからその孤高の背中を拝み奉ることにこそあるのです! 近づきすぎるなんて解釈違いも甚だしいですわ!」

「なっ……! 解釈違い!? 私は隊長の汚れ仕事をすべて引き受けると決めているんです! 誰よりも隊長の近くで……!」

「ああもう、同担拒否の厄介な同僚ですわね! クリス様が困っていらっしゃるのが見えませんの!?」

 狂信的な絶対正義を掲げるルカと、すべてを「推し」として崇拝する限界オタクのミオ。

 決して交わることのない二つの巨大な『クリスへの熱量』が、VIP応接室の中でバチバチと激しい火花を散らして激突する。

「……おい、どうすんだこれ」

「私に聞かないでください……頭が痛いです……」

 シグマとノアが完全に蚊帳の外で呆然とする中、クリスは深い疲労に顔を覆った。

 冷徹な復讐心を胸に秘めてこの街に降り立ったはずのクリスだったが、予想外すぎる地元住民の洗礼と、身内からの熱すぎる擁護の板挟みに遭い、彼の旅は、ほんの少しだけ思わぬ方向へと狂い始めていた――。


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