第89話 偽りの任務と氷の決意
フラリス王城内にあてがわれた蒼天の天秤騎士団・六番隊の隊室は冷え切ったように静まり返っていた。
部屋の片隅には、主を失った巨大な防具置き場がぽっかりと口を開けている。オメガがいつも丁寧に磨き上げていた大盾はもうなく、部屋は必要最低限の殺風景な空間へと様変わりしていた。
「……」
シグマは無言で、自身の身の丈ほどもある大剣を布で拭い続けている。シュッ、シュッという一定の摩擦音だけが、今の彼の心を落ち着かせる唯一の手段であるかのように。
その向かいでは、ノアが支給された新しい治癒用の触媒や包帯を、静かに、そして淡々と木箱に仕分けしていた。
そして窓際の壁に寄りかかり、手にした数本の投剣を指先で器用に遊ばせているのはルカだ。彼女の瞳は時折、部屋の重厚な扉へと向けられ、待ちわびるように細められている。
ガチャリ、と重い金属音を立てて扉が開いた。
入ってきたのは、六番隊隊長クリス・フィンリード。
その姿を見た瞬間、ルカが弾かれたように姿勢を正し、シグマの手が止まる。
「隊長、おはようございます」
ルカが恭しく一礼する。クリスは小さく顎を引いて応え、部屋の中央に立つ作戦用の円卓へと歩み寄った。
彼の銀髪は窓から差し込む午後の陽光を反射して輝いているが、その瞳は相変わらず光を吸い込むような深い虚無の色を帯びている。だが、そのさらに奥底には、誰にも見せないどす黒い決意の炎が静かに燃えていた。
「……皆、集まってくれ。我々六番隊に新たな特命が下った」
クリスの低く平坦な声に、シグマが重い腰を上げ、ノアも作業の手を止めて円卓へと集まった。
「新たな特命……。また、帝国のような危険な場所ですか?」
ノアが不安を隠すように静かなトーンで尋ねる。
「いや。今回の目的地は、我が国の西部に位置する『学術都市』だ」
クリスが円卓の上に広げられた王国全土の地図を指差す。
学術都市。古代魔術の研究や最新の魔力技術が集積する、王国きっての頭脳の都。
「学術都市……? なんでまた、そんな学者連中しかいないような堅苦しい場所に俺たちが?」
シグマが訝しげに眉をひそめた。無理もない。六番隊に回ってくる任務といえば、これまで裏社会の治安維持や国家反逆者の制圧など、血生臭いものばかりだったからだ。
「帝国で確認した、あの巨大な『魔力炉』を覚えているな」
クリスの言葉に、三人の顔色が一瞬にして険しくなる。他国の捕虜を命ごと燃料とし、魔王復活のための力を抽出していた地獄のような装置。
「あれに関連する高度な魔力技術の研究が、どうやら学術都市の地下で秘密裏に行われている可能性があるらしい。さらに、魔王軍の幹部がその技術を狙って学術都市に潜伏、あるいは暗躍しているという情報が入った。我々の任務は、その魔王軍の『動向調査』だ」
クリスは一切の感情を交えず、淡々と告げた。
だが、それはクリスが頭の中で組み立てた「偽りの任務」の半分でしかない。
真の目的は別にある。
先日、団長室でのシュウとの会話、クリスの中で決定的な疑念が確信へと変わっていた。騎士団の中枢に、魔族と通じる『内通者』がいる。そしてそれは、エイル副団長、その人である可能性が極めて高い。
学術都市の地下で進められているという魔力炉の研究。それがもし、王国の防衛のためではなく、魔王軍を利するための裏切りの証拠だとしたら。
(俺は、その証拠をこの手で掴み出し、あの腐りきった内通者たちを……俺からすべてを奪った元凶を、必ず引きずり下ろす)
クリスの胸の奥で、感情が暴れ出しそうになるのを必死に押さえ込む。
しかし、その「真の目的」を、目の前の仲間たちに話すわけにはいかなかった。
相手は騎士団の副団長だ。うかつに疑念を口にすれば、シグマたちまで反逆の罪に問われ、最悪の場合は消される。
自分がすべてを背負う。汚れ仕事も、孤独も、地獄も。これ以上、大切な仲間を危険な陰謀に巻き込むわけにはいかないのだ。
「魔王軍の幹部……四天王か、それとも別のバケモノか。どっちにしろ、オメガの仇を討てるなら文句はねぇぜ」
シグマがギリッと奥歯を噛み締め、背中の大剣の柄を握りしめた。彼の瞳には、仲間を失った悲しみと怒りが、熱い炎となって宿っている。
「ええ。私たちの力で、少しでもこの世界から理不尽な悲しみを減らせるのなら……どこへでも行きます」
ノアもまた、決意に満ちた表情で頷いた。
「隊長。私に命じてください。学術都市に潜む悪の芽は、私がこの手で一つ残らず刈り取ってみせます。隊長の手を煩わせるようなことはいたしません」
ルカが熱を帯びた瞳でクリスを見上げ、狂信的な忠誠を口にする。
その三人の真っ直ぐな想いを受け止めながら、クリスは心の奥で血の涙を流していた。
(すまない。俺は、お前たちを騙して利用しようとしている。俺の復讐のために)
表情筋を石のように固め、クリスは小さく顎を引いた。
「学術都市へは、陸路ではなく海路を使う。まずはここから南下し、港町シーレインへと向かう」
「シーレイン……」
その地名を聞いて、ノアが微かに反応を示した。
シーレインは王国随一の港町であり、情報が最も集まる場所。セラを探すためにマリーとクロエが、情報収集のために向かった可能性が極めて高い街だ。
シグマもそれに気づいたのか、一瞬だけ視線を泳がせたが、すぐに力強く頷いた。
「あぁ、わかった。海路の方が魔物の襲撃も少なく、確実に移動できるからな。船の手配はこっちでやっておくぜ」
「頼む。……出発は明日の早朝だ。各自、必要な物資を補充し、準備を整えておけ。今回は潜入と調査が主になる。目立つ行動は控えるように」
「「「はっ!」」」
三人の力強い返事が隊室に響き渡る。
シグマたちが足早に出発の準備に取り掛かるため部屋を出ていく中、クリスは一人、円卓に残された王国の地図を見下ろしていた。
視線の先にあるのは、港町シーレイン、そしてその先にある学術都市。
(……セラ。マリー。クロエ)
かつて共に笑い合った仲間たちの顔が、脳裏を掠める。
シーレインに行けば、もしかしたらマリーやクロエの足跡を掴めるかもしれない。だが、今の自分が彼女たちに会う資格などない。自分がセラを斬り、奈落へ落としたという事実は変わらないのだから。
(俺はもう、お前たちと同じ陽の当たる場所を歩くことはできない。だからせめて……お前たちが生きるこの世界を、俺が裏側からすべて護り抜く)
クリスは目を閉じ、深く冷たい息を吐き出した。
氷の騎士の孤独な決意を乗せ、六番隊は新たな、そして致命的な真実が眠る街へと歩み出そうとしていた。




