第88話 深淵を暴く刃
第88話 深淵を暴く刃
フラリス王国の中心にそびえ立つ、権力と武力の象徴たる白亜の王城。
分厚い雨雲が月光を完全に遮断した深夜、その最上階に位置する蒼天の天秤騎士団・団長室は、すべての気配を拒絶するような重く冷たい静寂に包み込まれていた。
灯火を極限まで落とした薄暗い部屋の中、重厚なマホガニーの執務机を挟んで、二人の男が対峙している。
一人は、騎士団の頂点に君臨する男、シュウ。そしてもう一人は、六番隊隊長クリス・シス・フィンリードだった。
「……こんな遅い時間に呼び立ててすまなかったな、クリス。この話は、誰の耳目にも触れさせたくなかった」
「いえ。俺の方こそ、団長に直接ご報告しなければならない重大な疑念がありました」
シュウの低く穏やかな声に対し、クリスは淡々と応じる。彼は外套の内に隠し持っていた数枚の書類を取り出し、机の上に静かに置いた。
それは、クリスが六番隊の過酷な任務の合間を縫って、他者の目を欺きながら命がけで集め続けていた内部調査の記録だった。
シュウが書類を手に取り、無言で目を通していく。紙をめくる微かな音だけが、息の詰まるような空間に落ちていく。
「……これは」
「ここ数ヶ月間における、特務部隊及び六番隊に下された出撃命令書の写し、並びに王国軍の物資移動の非公式な記録です」
クリスの声は、どこまでも凪いでいた。だが、その声の底には、決して消えることのないマグマのような熱い怒りが煮え滾っている。
「まず、陽だまりの村での討伐任務についてです。あの日、エイル副団長から俺に直接下された特命は『村人ごと焼き払え』という理不尽な殲滅命令で、そこには確かに団長の承認印が押されていました。俺自身は魔族に脅されているだけの可能性を考慮し、部下たちには『状況の調査と確認』に留めるよう命じたはずでした。ですが……結果的に俺の未熟さと采配の甘さが、ルカたちを暴走させ、あのような惨劇を招いてしまった」
クリスはギリッと奥歯を噛み締め、痛ましそうに目を伏せた。
「ずっと、自分の責任だと己を責め続けてきました。……ですが、後日になって、団長はあの『殲滅』作戦を明確に拒否されていたとお伺いしました」
「あぁ、間違いない。確かにあの作戦は、エイルから『完全に殲滅すべきだ』という進言を受けた。だが、私はそれを却下した。……理由はクリス、君と同じだ。罪なき民を無差別に巻き込むことなど、騎士として許されるはずがないからな」
シュウの言葉に、クリスは小さく頷いた。
「私が見た最終的な命令書には、殲滅という文言は一切記載されていなかった。あくまでも、状況の調査と確認の任務だったはずだ。……作戦の内容が、何者かによって偽造されたということか」
「はい。さらに、帝国国境の城塞都市ガルドでの潜入任務。あそこでも、我々の潜入ルートとタイミングは、なぜか事前に現地の案内人を名乗る魔族の少女に完全に把握されていました。彼女は『騎士団の上層部からの命令だ』と語っていた。偶然で片付けるには、あまりにも出来すぎている」
クリスは机に置かれた最後の一枚の羊皮紙を、革手袋に包まれた指でトントンと叩いた。
「極めつけは、この物資の移動記録です。ガルドでの魔力炉建造に使われていたと思われる特殊な魔法金属……それと全く同種の鉱石が、ここ数ヶ月、王国の備蓄から『用途不明』のまま定期的に横流しされている痕跡を見つけました。これほど大規模な物資の隠蔽、騎士団のトップクラスの権限がなければ絶対に不可能です」
クリスの真っ直ぐな、そして決して揺らぐことのない糾弾の視線を受け止め、シュウは深く、痛ましそうに目を閉じた。
「……エイル」
その名前を口にした瞬間、シュウの端正な顔が苦悩に歪んだように見えた。
長年、自身の右腕として騎士団を支え、共に王国の平和を護ってきたと信じていた男。その彼が、あろうことか魔族と通じ、国を裏切っていたというのか。
「先日の円卓会議の際、私も彼の様子を密かに探っていた」
シュウはゆっくりと目を開き、重々しい口調で語り始めた。
「私が『内通者』の存在を仄めかした時、他の隊長たちが殺気を放ち、疑心暗鬼に陥る中、エイルだけは完璧すぎるほどに無反応だった。……逆に言えば、一切の動揺を見せないこと自体が、彼が最初からこの事態を想定し、感情を完全にコントロールしていた証左でもある」
「団長も、すでにお気づきだったのですね」
「あぁ。だが、エイルは極めて狡猾だ。お前が命がけで持ってきてくれたこの状況証拠だけでは、彼を異端審問にかけるには決定打に欠ける。奴のことだ、横流しの記録も偽造の痕跡も、いざとなれば末端の文官にすべての罪を被せられるように細工しているだろう。それに、『陽だまりの村襲撃』の作戦内容偽造……それがあまりにもずさんすぎる。クリスから俺に直接確認が来ればすぐにバレるような嘘だ。そんな、計画するほど甘い奴じゃない。何かあるんだ……どうしても急がなければいけない理由、もしくは、クリス、お前にすべての罪をなすりつけるための布石か……」
エイル副団長は、ただ裏切りを働くような浅はかな男ではない。常に何重もの予防線を張り、決して自分の尻尾を掴ませない知将だ。公の場で告発しようものなら、逆にクリスたちが反逆の汚名を着せられかねない。
「……俺は」
クリスは、両手を固く握りしめた。革の軋む音が、静寂の部屋に痛々しく響く。
「俺は、自分の弱さと愚かさのせいで、大切な親友を……セラをこの手で斬りました。そして、四天王ガラルドとの戦闘で、俺を信じてくれたオメガまで死なせた。……それがすべて、エイル副団長が周到に引いた盤上の出来事だったというのなら」
クリスの声が、初めて微かに震えた。
感情を殺し、氷の騎士として振る舞い続けてきた彼の奥底から、隠しきれない本物の殺意と怒りが漏れ出していた。
あの日、自分たちはまんまとエイルの策に踊らされ、互いの正義をぶつけ合って殺し合ったのだ。罪なき人々を巻き込み、掛け替えのない絆を引き裂かれて。
「絶対に、許すわけにはいかない。この手で必ず、奴の正体を暴き、すべての報いを受けさせます」
クリスの瞳に宿る、漆黒の決意。
それは魔王を倒すという使命とはまた違う、己の魂の尊厳をかけた復讐にも似た誓いだった。
シュウは愛弟子のその悲壮なまでの覚悟を、静かに、そして深く受け止めた。その瞳の奥で、恐ろしいほどの冷酷な策謀が渦巻いていることなど、クリスが知る由もない。
「……クリス」
シュウは立ち上がり、クリスの前へと歩み寄った。そして、その肩に力強く、温かい手を置く。
「これは、団長としての命令ではない。お前の師としての、頼みだ」
「師匠……」
「エイルの背後関係を洗い、奴が魔族と繋がっているという『決定的な証拠』を掴み出せ。奴がいつ、どこで敵と接触し、何を企んでいるのか……その深淵を、お前の刃で暴いてくれ」
それは、実質的なエイル副団長への極秘調査指令だった。
騎士団の指揮系統から完全に外れ、六番隊隊長としてではなく、クリス個人とその信頼できる仲間たちだけで動かなければならない、極めて危険な綱渡り。もしエイルに勘づかれれば、文字通り命はない。
「……お受けします。必ず、尻尾を掴んでみせます」
クリスは迷うことなく、深く首を垂れた。
「頼んだぞ。……シグマたちにも、くれぐれも無理はするなと伝えてくれ。これ以上、お前たちが傷つく姿を、私は見たくない」
「はい」
シュウの温かい気遣いに短く応え、クリスは身を翻して団長室を後にした。
重厚な扉が閉まり、廊下に出たクリスは、冷たい石壁に少しだけもたれかかった。
(エイル副団長……。お前が王国に何を呼び込もうとしているのか、すべて暴いてやる)
セラが落ちていったあの暗闇の底。
オメガが砕け散ったあの地下の絶望。
もう二度と、誰にもあんな思いはさせない。そのために自分は悪鬼にでもなる。
クリスは鋭い視線を廊下の闇へと向け、足音を殺して歩き出した。その背中は、かつての迷いを完全に断ち切った、真なる『正義の剣』としての峻烈な威風を漂わせていた。




