第92話 交差する光と影
フラリス王国の隣国であり、熱き戦士たちの国として知られるジャスティア王国。 その首都『暁の都ソラリス』は、いつものように血気盛んな活気と、屋台から漂うスパイスの香りに満ちていた。
クリスたち蒼天の天秤騎士団・六番隊の面々は、学術都市へと向かう道中、休息と補給のためにこの街に立ち寄っていた。
それぞれ動きやすい旅装束で、喧騒に紛れて大通りを歩いている。
「……なぁリーダー、こんなに人が多いと身動きが取りづれぇな。俺の大剣が誰かにぶつからねぇかヒヤヒヤするぜ」
シグマが背中の大剣を気にしながら、周囲の熱気に少し辟易したようにぼやいた。
「シグマ、文句を言わないの。ここはジャスティア王国……腕に覚えのある戦士がそこら中にいるんだから。変に目立つような行動は慎んでくださいね」
隣を歩くノアが、周囲の鋭い視線をやんわりと受け流しながら、シグマをたしなめる。
「シグマ先輩は少し黙っていてください! 隊長は常に先を見据えて行動されているのです! たとえ休息の立ち寄りであっても、この活気ある街から何か重要な情報を得ようとされているに違いありません!」
ルカが鋭い視線でシグマを睨みつけ、すぐさまクリスへ尊敬の眼差しを向けた。
彼らのやり取りを背中で聞きながら、クリス・シス・フィンリードは、密かに唇を噛み締めていた。
(すまない……シグマ、ノア、ルカ)
学術都市への移動。それは彼らに告げた表向きの理由に過ぎない。 クリスの真の目的は、帝国の魔力炉建造に使われていた物資を横流しし、魔族と通じている可能性が極めて高い『エイル副団長の裏切りの証拠』を掴むこと。シュウ団長から直接下された、極秘任務である。 だが、その事実を彼らに話すわけにはいかなかった。
騎士団のナンバーツーを疑い、その尻尾を掴むなどという行為は、一歩間違えれば国家反逆罪として処断されかねない危険な綱渡りだ。もしエイルに勘付かれれば、シグマたちまで確実に消される。
だからこそ、クリスはすべての泥を一人で被ると決めていた。彼らを巻き込まないために、嘘をつき通す。それが今のクリスにできる、唯一の仲間への守り方だった。
「……周囲の警戒を怠るな。油断すれば足元をすくわれるぞ」
クリスが感情を殺した平坦な声で告げると、三人は「ハッ」と小さく頷き、気を引き締めた。
大通りの喧騒は、昼下がりの陽射しを受けてさらに熱を帯びていく。
広場を通り抜けようとした、その時だった。
「にゃはは! 肉だ肉! この串焼きサイコーだぞ!」
「あーっ、ミーアずるい! アタシも食べるー!」
「ははは、焦らなくてもまだいっぱいあるよ。ほら、クロエもミーアも口の周りタレだらけだ」
風に乗って聞こえてきたその声に、クリスの心臓が、ドクンと嫌な音を立てて大きく跳ねた。
幻聴か。いや、違う。この声を聞き間違えるはずがない。
クリスは弾かれたように足を止め、広場の向こう側へと視線を走らせた。
活気ある屋台の前に、見慣れた黒髪の少年がいた。
――セラ。
崖の底、決して生きては戻れない暗黒の深淵へと真っ逆さまに落ちていったはずの、最愛の親友。 そのセラが、大きな串焼きを両手にもって満面の笑みを浮かべる紫色の髪をした猫耳の獣人少女や、水色の髪を揺らすクロエに囲まれ、困ったように、けれど心の底から楽しそうに笑っていた。 少し離れたところでは、銀色の髪を美しく結い上げたマリーが、長身の金髪のエルフの男と談笑している。
(生き、ていた……。セラ……マリー、クロエ……!)
クリスの全身から、一気に力が抜けていくような感覚が襲った。
張り詰めていた心の糸が千切れそうになり、視界が熱く滲む。
自分がこの手で斬り裂き、奪ってしまった命。どれだけ悔やんでも取り返しのつかない罪だと、一生地獄の底で呪い続けるつもりだった。 だが、彼は生きていた。そして、かつての仲間たちとも再会し、新たな絆と共に、あんなにも眩しく笑っている。
よかった。本当によかった。
安堵の波が押し寄せ、クリスは思わずその場に崩れ落ちそうになった。声を上げて、彼のもとへ駆け寄り、その無事を確かめたかった。
「あ、あれって……!」
「うそ……信じられない……!」
クリスの隣で、シグマとノアが息を呑む音が聞こえた。 彼らもまた、信じられないものを見たように目を丸くし、広場の中心を見つめている。 彼らにとって、あの黒髪の少年は死んだものと諦めかけていた大切な仲間だ。マリーとクロエが探しに行ったとはいえ、本当に生きて見つけ出せるとは思っていなかった。
二人の表情が、驚愕から瞬時にして歓喜へと染まっていく。
「お、おい! あいつ……!」
シグマが大声を上げて駆け出そうとし、ノアも涙ぐみながら一歩を踏み出そうとした。
だが。
「……待て」
クリスは、冷たく、そして鋭い声で二人を制止した。
その声には、有無を言わさぬ隊長としての絶対的な威圧感が込められていた。
「ク、クリス……? どうして……!」
シグマが信じられないという顔でクリスを振り返る。
ルカは、突然立ち止まった三人の様子に首を傾げ、広場の方を不思議そうに眺めているが、彼女の視界には屋台に群がる人々しか映っていないようだった。
「……関わるな」
クリスは、ギリッと奥歯を噛み締め、己の心を刃で切り刻むような痛みに耐えながら、感情を押し殺した声で告げた。
「でも、クリス……せめて声だけでも……」
ノアが懇願するように見つめてくるが、クリスは首を横に振った。
彼らに今のセラたちを会わせるわけにはいかない。 もしここで声をかければ、セラは自分たち『蒼天の天秤騎士団』の血生臭い因縁に巻き込まれることになるだろう。エイル副団長の裏切りという、国家を揺るがす巨大な闇。それに彼らを近づけることは、絶対に許されない。
セラの隣で、クロエが彼の腕に抱きつき、マリーが優しく微笑みかけている。見知らぬエルフや獣人の少女が、彼を囲んで賑やかに笑い合っている。
その光景は、かつて【正義の剣】で自分たちが共有していた、何よりも大切で温かい時間そのものだった。
――なんで、お前はそんな風に笑っていられるんだ。
安堵の波が引いた直後、クリスの胸の奥底から噴き出してきたのは、自分でも制御できないほどに醜く、黒く濁った泥のような感情だった。
網膜に焼き付いているのは、あの冷たく暗い、帝国の地下水路の記憶だ。 絶望的な力を持つ四天王ガラルドの戦鎚。砕け散る鋼鉄の大盾。 そして、自分たちを逃がすために血の海に沈んでいった、誰よりも仲間思いだった絶対の盾――オメガの姿。
あの時から、世界は完全に色を失った。シグマもノアも、心からの笑顔を見せることはなくなった。 自分たちは、仲間の命という取り返しのつかない犠牲の上に立ち、毎日を血と泥に塗れながら地獄の底を這いずり回っている。 エイル副団長の裏切りを暴き、王国の闇を切り裂くために、神経をすり減らし、いつ命を落とすかもわからない極限の緊張状態の中で修羅の道を歩み続けているのだ。
それなのに。 どうして、お前はそんな温かい光の中で、俺たちのことなどすっかり忘れたかのように、幸せそうに笑っていられるんだ。 俺たちがこんなに苦しんでいるのに。オメガがあんな無惨に死んだというのに。
ギリッと、クリスの奥歯が砕けそうなほど強く噛み締められた。
わかっている。頭の中の冷徹な理性が、すぐにその醜い感情を否定する。
セラが悪いわけじゃない。セラは、オメガの死も、騎士団の内部で渦巻く謀略も、自分たちがどれほどの地獄を味わっているのかも、何も知らない。 そして何より、彼からその『真実』を奪い、過酷な運命から強引に切り離したのは、他でもないクリス自身なのだ。 お前のその綺麗すぎる魂を血で汚させないために、俺はあえて悪役になり、すべてを奪って突き放した。 彼がこうして、戦いとは無縁の温かい場所で平和に笑ってくれていることこそが、自分が望んだ最高の結果だったはずなのだ。
だから、セラが笑っているのは正しい。これでいいのだ。
理屈では、完璧に理解している。
それなのに、胸の奥で渦巻くこの割り切れないドス黒い炎は、どうやっても消すことができなかった。
セラを無防備な光の中へと逃がし、自分たちだけが地獄の底で呪いのように苦しんでいるという理不尽さ。
何も知らない親友の無邪気な笑顔が、今のクリスにとっては、あまりにも眩しすぎて――残酷に心を抉り出していく。
(……俺なしでも、お前はあんなに笑えるんだな)
嫉妬だ。
セラの隣で屈託なく笑い合っている彼らが、妬ましい。
自分が護りたかった。自分がその隣に立って、一緒に世界を変えるはずだった。
誰よりも近くで、彼のその優しい笑顔を見ていたかった。
いや、違う。本当は、自分がいない世界で彼が苦しんでいてほしいと、少しでも自分のことを必要としていてほしいと……そんな浅ましく残酷なことを、心のどこかで願ってしまっていたのではないか。
そう気づいた瞬間、クリスは己の醜さに強烈な吐き気と自己嫌悪を覚えた。
(オメガが死んだのに、なんてひどいことを考えてるんだ、俺は……っ)
こんな醜い感情を抱え、自らの手を血で汚し、修羅の道を選んだ今の自分に、あの温かい光の中へ戻ることは絶対に許されない。今の自分の手は、セラを傷つけた、薄汚れた人殺しの手なのだ。
「隊長……? どうかされましたか?」
ルカの心配そうな声に、クリスはビクッと肩を震わせ、広場の喧騒から慌てて顔を背けた。
「……いや。何でもない。先を急ぐぞ。学術都市への道程はまだ長い」
クリスは一切の感情を押し殺した声で告げた。
「お、おいクリス……本当にいいのかよ……」
シグマが後ろ髪を引かれるように呟くが、クリスは足早に歩を進めた。
背後から、セラの明るい笑い声が遠ざかっていく。
その声が耳に届くたび、クリスの胸は引き裂かれるように痛んだ。
(それでいい。……お前は、そこで笑っていてくれ)
喧騒に身を溶込ませながら、クリスは己の心に再び分厚い氷の仮面を被せた。 エイル副団長の裏切りの証拠を掴み、王国に巣食うすべての悪を断ち切る。そのための泥は、すべて自分が被る。 彼らの平和な日常を護るための盾となるのなら、自分はどれほど孤独な闇へ堕ちようと構わない。
氷の騎士は、振り返ることなく、ただ一人、修羅の道へとその歩みを進めていった。




