第86話 荒野の足音と、獣たちの国へ
情と熱気に溢れたジャスティア王国の首都、暁の都ソラリス。
その巨大な城門を背にして、セラたち一行を乗せた大型の馬車は、土埃を巻き上げながら南東へと続く街道を進んでいた。
窓から遠ざかる赤レンガの街並みを見つめながら、セラはふぅと小さく息を吐き出した。
「お疲れ様、セラ。なんだか肩の力が抜けたみたいね」
向かいの席で微笑むマリーが、銀色の長い髪を優雅に払いながら声をかけてきた。
「あはは……。なんだか、怒涛の数日だったから。でも、無事に出発できて本当によかったよ」
数日前の出来事を思い出し、セラは苦笑いを浮かべた。
身バレという思わぬアクシデントから、急遽ジャスティア王へ謁見することになった彼ら。フラリス王国の友好国とはいえ、一国の頂点に立つ豪快で血気盛んな王を前に、セラは緊張でどうにかなりそうだった。
だが、その場を完璧に掌握したのは、他でもないユリだった。
普段のお転婆な姿からは想像もつかないほど、洗練された王族としての気高き立ち振る舞い。言葉の端々に漂う絶対的な威厳と、相手を尊重する知的な交渉術。彼女のその姿は、ジャスティア王の心を深く打ち、獣人の国へと向かうための通行手形や聖剣に関する僅かな情報まで、驚くほどスムーズに引き出してみせたのだ。
「あーっ! もう本当に肩が凝ったわ! やっぱり窮屈なドレスも、お堅い挨拶も、私には向いてないわね!」
当のユリ本人は、隣の席で大きく背伸びをしながら、不満げに頬を膨らませていた。
「でも、あの時のユリは本当にすごかったよ。別人みたいで、見惚れちゃったくらいだ」
「えっ……そ、そうかしら? まぁ、私にかかればあのくらい朝飯前だけどね!」
セラの素直な称賛に、ユリは顔をほんのりと赤く染め、照れ隠しのように薄いピンク色のウェーブヘアを指先で弄った。
「もう、ユリったら調子に乗るんだから。でも、助かったのは事実よ。ありがとう」
マリーが優しくたしなめると、馬車の中はいつもの和やかな空気に包まれた。
街道を進むにつれ、車窓の景色は緑豊かな森林から、次第に赤茶けた土と乾いた岩肌が目立つ荒涼とした大地へと姿を変えていく。
空気は乾燥し、時折吹き付ける強い風が砂を巻き上げていた。
「わぁ……なんか、景色が全然違ってきたね。砂埃がすごくて、髪がパサパサになっちゃいそう」
クロエが窓の隙間から吹き込む風を手で防ぎながら、不満そうに口を尖らせ、ススッとセラの方へ身を寄せる。
「ほらセラ、アタシの盾になって風を防いでよー」
「えっ、ちょっとクロエ、近いってば……!」
腕にギュッと抱きついてくる水色髪の少女に、セラがタジタジになっていると、今度は反対側の窓に張り付いていたミーアが、パッと振り返って元気な声を上げた。
「おーっ! この乾いた匂い、懐かしいぞ! もうすぐアタイの故郷だ!」
淡い紫色の猫耳をピコピコと動かし、ふさふさの尻尾をちぎれんばかりに振っている。
「ミーア様の故郷、獣都レグルス……広大な大地と、己の直感を重んじる多様な種族が暮らす国でございますな」
御者台からセバスの落ち着いた声が聞こえてくる。その隣で手綱を握るグレンも、楽しそうに笑い声を上げた。
「ああ。あそこは『息吹の珠』っていう宝玉の伝承が残る国でな。人間やエルフの街とは全く違う、本能のままに生きる連中の集まりだ。国を護る『黄砂の獣牙騎士団』の連中も、荒野の獣みたいに牙を剥いてくる荒くれ者ばかりだぜ。和やかなのもいいが、気を引き締めた方がいいぞ!」
グレンの言葉に、セラはごくりと喉を鳴らした。
エルフの森の静寂とも、ジャスティア王国の熱気とも違う、野生と本能が支配する未知の領域。そこでどんな出会いが待っているのか、期待と僅かな不安が胸の中で入り交じる。
ゴトゴトと馬車が進む中、不意に、周囲の空気がビリリと震えた。
「――お嬢様。どうやら歓迎のお出ましのご様子です」
セバスの声色が、温厚な執事のものから、氷のように冷たく研ぎ澄まされた戦士のものへと一変する。
それとほぼ同時に、馬車の周囲を取り囲むように、赤茶けた地面がボコボコと不自然に隆起し始めた。
「魔物……数が多いわね」
マリーが即座に愛用のレイピアの柄に手をかけ、臨戦態勢に入る。
隆起した地面を突き破って姿を現したのは、岩のような硬い外殻を持つ巨大な爬虫類の魔物、ロックリザードの群れだった。ざっと十匹以上。鋭い爪と顎から滴る粘液が、獲物を前にして不気味な光を放っている。
「アタイが全部ぶっ飛ばしてやるぞ!」
ミーアが背中の巨大なハンマーに手を伸ばそうとするが、それより早くセラが立ち上がった。
「ミーアは馬車の護衛をお願い! 僕とグレンさんで散らすよ!」
「おう! 任せとけ!」
セラは馬車の扉を開け、疾風のごとき速さで荒野へと飛び出した。
着地と同時、腰に提げた鋼の長剣を抜き放つ。
魔力による強化を持たない彼だが、その動きには一切の無駄がない。足元の緩い砂地に足を取られることもなく、的確に重心を移動させながら、最も近くにいたロックリザードの死角へと滑り込む。
「シッ!」
鋭い呼気と共に放たれた一閃。
刃こぼれ一つない無骨な鋼の刃が、魔物の硬い甲殻の隙間――首元の極めて狭い急所を寸分の狂いもなく斬り裂いた。
ギャァァッ! と短い悲鳴を上げて一匹目が地に伏す。
「ハハッ! いい動きだ、セラ!」
グレンが御者台から跳躍し、長槍を風車のように振り回して二匹の魔物を同時に吹き飛ばす。
「クロエ、私たちも援護するわよ! 」
「えぇ! 」
ユリとクロエは素早く馬車から飛び降り、セラたちが前線を支えている間に安全な後方の位置取りを完了させる。
「クロエ、火力は抑えめでお願いね! 《氷結の鎖》!」
「任せて! 《水流の刃》!」
放たれた二人の魔術。ユリの緻密に計算された氷の魔術がロックリザードたちの足元を凍らせて動きを封じ、クロエによる規格外の魔力を秘めた水の刃が、硬い甲殻を削るように群れの陣形を大きく崩す。
その生じた僅かな隙を、セラは見逃さなかった。
低く沈み込んだ姿勢から、バネのように跳ね上がる。群れの中心へと切り込み、流れるような連撃を叩き込んでいく。
今彼の背中には、自分を信じてくれる新しい仲間たちがいる。彼らを護るための剣は、以前よりもずっと鋭く、そして迷いがなかった。
数分のうちに、ロックリザードの群れは完全に沈黙し、赤茶けた大地に物言わぬ残骸となって転がった。
「ふぅ……みんな、怪我はない?」
剣の血糊を払い、鞘に納めたセラが振り返って笑顔を向ける。
「ええ、完璧な連携だったわ。セラ、本当に剣の筋が良くなってるわね」
マリーが感心したように頷き、クロエも「セラー! カッコよかったよー!」とぶんぶんと手を振っている。
「あはは、皆がサポートしてくれたおかげだよ」
照れくさそうに笑いながら、セラは再び馬車へと乗り込んだ。
再び走り出した馬車が、なだらかな丘を越えた時のことだった。
「……見えてきたぞ」
御者台のグレンが、長槍の穂先で前方を示した。
傾きかけた夕陽が、広大な荒野全体を燃えるようなオレンジ色に染め上げている。
その地平線の彼方に、巨大な岩山を穿って造られたような、荒々しくも雄大な要塞都市が姿を現した。いくつもの獣の牙を思わせる巨大な尖塔が、天を衝くようにそびえ立っている。
「あれが……獣都レグルス」
セラは窓に張り付き、その圧倒的な光景に目を奪われた。
いよいよ、獣人たちの本拠地への到着する。聖剣の手がかり、そして彼らを待ち受ける新たな試練の予感が、熱い風と共にセラの頬を撫でていった。




