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第82話 無魔の剣士②

 フラリス王国が誇る冒険者の街『トーファス』。

 ――王国歴119年のこの街は、現在のような洗練された石造りのギルドではなく、巨大な丸太を荒々しく組み上げた無骨な砦のような姿をしていた。

 夕刻を迎えたギルドの重厚な木扉を押し開けると、獣の脂と汗の匂い、そして安酒のアルコール臭が強烈に鼻を突いた。一日の探索を終え、命がけの死線から生還した冒険者たちが放つ特有の熱気は、昼間よりもずっと濃密で、どこか退廃的ですらある。

 エールがなみなみと注がれた木製ジョッキが乱暴にぶつかり合う音と、魔物の討伐話に尾ひれをつけて語る荒くれ者たちの笑い声。

 ギィィ……と、蝶番が軋む音を立てて扉が開いても、己の武勇伝に夢中な男たちの誰一人として、その小柄な来訪者に気を留める者はいなかった。

「すみません。討伐依頼、終わりました」

 喧騒を縫うようにカウンターへと歩み寄り、ポンと無造作に血の滲んだ麻袋を置いた黒髪の青年。

 その顔を見た瞬間、書類整理に追われていた受付嬢は目を丸くして手を止めた。

「あなた……さっきの。生きて帰ってきたの!?」

 彼女の視線の先には、数時間前にFランクとして登録したばかりのテラの姿があった。

 初心者が単独で向かえば、命を落とす可能性が高いと言われている最近の森。ましてや彼は、冒険者の生命線とも言える『魔術』が一切使えないという。泣いて逃げ帰ってくるか、最悪の場合はゴブリンの残忍な餌食になっているだろうと、彼女は半ば諦めの境地でいたのだ。

 だが、目の前に立つテラの衣服には、微かな土汚れや草の汁が付着しているだけで、裂傷はおろか血の跡一つついていない。息すら乱れていないその涼しい姿に、受付嬢は戸惑いを隠せなかった。

「ええ、なんとか。これが討伐証明の右耳です。確認をお願いします」

「あ、ええ。ゴブリンの耳ね……はいはい」

 受付嬢が疑心暗鬼のまま麻袋の紐を解き、中身を査定用のトレイの上に開けた、その瞬間。

 ゴトリ、とひどく重く、生々しい音を立てて転がり出た『それ』を見て、彼女は短い悲鳴を上げて完全に固まった。

「こ、これ……っ!? 嘘でしょ!?」

 彼女の甲高い声に、近くのテーブルで安酒をあおっていた数人の冒険者たちが何事かと視線を向ける。

 トレイの上にあったのは、通常のゴブリンが持つ貧相で小さな耳ではない。分厚く、苔色に濁り、大人の掌ほどもある巨大で分厚い耳が三つ。

 熟練の冒険者であれば、それが何を意味するのか一瞬で理解できる代物だった。

「おい……マジかよ。あれ、ホブゴブリンの耳じゃねぇか!?」

「一匹でもCランクのパーティーで挑むような、厄介な中位種だぞ! それを三匹分だと!?」

 驚愕のざわめきは波紋のように広がり、数秒後にはギルド全体が水を打ったように静まり返った。

 先程テラに絡んで返り討ちに遭った三人組の男たちは、その耳を見た瞬間、顔面を蒼白にして震え上がり、逃げるようにギルドの奥へと姿を消していった。

「あ、あの……テラ君、だっけ。あなた、まさかこれを一人で……?」

「はい。ささやきの森に入ったら、普通のゴブリンがいなくて、代わりにこいつらがいたんです。森の奥に行けば普通のゴブリンもいたのかもしれませんが、手っ取り早いかと思って、ついでに倒してきました」

 まるで『畑の雑草を抜いてきました』とでも言うような、拍子抜けするほど屈託のない笑顔。

 受付嬢はめまいを覚えながら、震える手で査定用の魔導具を起動させた。

「……間違いない。正真正銘、ホブゴブリンの討伐証明よ。それも、三体……」

「あの、もしかして依頼書と違う魔物だと、報酬はもらえないんでしょうか?」

 不安そうに薄い茶色の瞳を瞬かせるテラに、受付嬢は慌てて首を横に振った。

「そ、そんなことないわ! 街道近くにホブゴブリンが、それも数体現れたなんてギルドとしても重大な危機よ。それを未然に防いでくれたんだから、むしろ、特別報酬が出るわ。……ええっと、ホブゴブリン三体の討伐と危険手当で、締めて三十万ゴールドよ!」

 ズラリとカウンターに並べられた銀貨と金貨の山。

 テラは目を輝かせた。三十万ゴールド。村の感覚で言えば、一年間毎日泥だらけになって働いて、やっと稼げるほどの価値だ。

 それが、ほんの数分の運動でこれほどの大金が手に入るとは、冒険者とはなんて夢のある仕事なのだろうと、テラは純粋に感動していた。

 だが、周囲の冒険者たちの見方は全く違った。

(魔術も使えねぇガキが、無傷でホブゴブリン三体を……!?)

(どんな剣術を使ってやがる……。剣に魔力による強化も施さず、刃こぼれ一つねぇなんてバケモノかよ)

 テラは知らない。

 幼い頃から、村の裏山で父親から受けた『独学』の訓練。岩を砕き、滝を登り、魔力を持たないがゆえに極限まで肉体の限界を引き出すことを強いてきたその修練が、実は王国の精鋭騎士すら凌駕するほどの地獄の特訓であったことを。

 彼にとっての『普通』は、すでにこの世界の常識を大きく逸脱していたのだ。

「ありがとうございます! これで美味しいご飯が食べられそうです!」

 報酬の入った革袋を腰に下げ、テラはホクホク顔でギルドを後にしようとした。

「……おい、坊主。少し待ちな」

 不意に、背後から低く枯れた声がかけられた。

 振り返ると、カウンターの隅で一人、安酒を舐めていた隻眼の老冒険者が、鋭い視線でテラを見つめていた。

「お前さん……魔術が使えないってのは本当か?」

「……はい」

「そうか。……なら、ここにはすぐにお前さんの居場所はなくなることになるぞ」

 老人は酒をあおりながら、面白そうに口角を上げた。

「フラリス王国は、良くも悪くも『魔術』を重んじる国だ。魔術が使えねぇ剣士は、どれだけ腕が立とうと必ず偏見の壁にぶち当たり、高ランクの依頼を受けられなくなる」

「やっぱり魔術を使えないのはおかしい事なんですか?」

「あ? そんな事もしらねぇのか?」

「……はい。僕のいた村じゃ、魔法? 魔術? を使う人なんて、村長と、その家系の人達だけでしたから……僕が適性がない事も村長から教えてもらったんです」

 老冒険者は呆れたように鼻を鳴らした。

「魔法だと? 言葉を間違えるなよ坊主。『魔法』ってのはな、理不尽で邪悪な、魔族専用の圧倒的な力のことだ。俺たち人間が使うのは、理を編み出す『魔術』だ。……いいか、人間にはな、生まれながらに魔力と、それを意識に伝える構築回路ってもんがある。例えば、歩く時は無意識だが、頭から信号を送って、それが伝達回路を通って足が動く」

「……」

 テラは老冒険者の目を真っ直ぐに見つめ真剣に聞き入る。

「で、魔術っていうのは、意識的に頭で作ったイメージを、魔術の構築回路を伝って具現化するってわけだ。つまり」

 老冒険者が不意に人差し指を立てて、テラの前に出す。

 次の瞬間、突然老冒険者の指の先に小さな火が灯った。

「今俺は、頭でこの火をイメージして、指先に具現化した。こういう事だ」

「……イメージして……具現化」

 テラが見様見真似で指を立てる。

「……火をイメージして……」

 しかし、いくら待っても指先に火が灯ることはなかった。

「……坊主、もしかして火を見たことないのか?」

「そんなわけないじゃないですか! 村でもしょっちゅう薪に火を付けたりしてましたよ!」

「まぁ、そりゃそうだわな。聞いたことないが、もしかしたら坊主は本当に魔術の構築回路が繋がっていない、文字通りの『無魔』なのかもしれねぇな」

「その、構築回路を繋げる事って出来るんですか?」

「さぁな。そもそも魔術を使えない人間が存在するってこと自体が、信じられない事だからな」

「……そうですか」

 わかってはいたが、改めて自分の特異性を知り、俯くテラ。

「そう悲観的になるな。お前さんはその純粋な『武』の力で冒険者をやっていきたいんだろ。それを生かすなら、東へ向かいな」

「東、ですか?」

「ああ。隣国のジャスティア王国だ。あそこは義理と人情、そして何より『己の肉体と武の力』を重んじる熱き戦士たちの国。血気盛んな連中がウヨウヨしてる。首都の『暁の都ソラリス』に行けば、お前さんのその無骨な剣をさらに研ぎ澄ませる場所が見つかるだろうよ。そこには、暁光の勇剣騎士団という熱い連中もいるからな」

 ジャスティア王国。暁の都ソラリス。

 その言葉の響きに、テラの胸の奥で、まだ見ぬ強者たちとの出会いを求める熱い炎がボワッと燃え上がった。

「ジャスティア王国……。教えてくれてありがとうございます、おじさん!」

「へっ。せいぜい命を落とさねぇように気をつけな、無魔のバケモノ坊主」

 老人の言葉に背中を押され、テラはギルドを後にした。

 外に出ると、トーファスの街はすでに夜の帳に包まれ、星々が夜空に瞬き始めていた。

 初めてのクエスト。初めての報酬。そして、明確に定まった次なる目的地。

 テラは背中の使い古された布巻きの剣を一度だけ優しく撫でると、夜空の東の方角へと視線を向けた。

「待ってろよ、広い世界。僕はきっと、立派な冒険者になるんだ!」

 青年はただ純粋に、己の力を試すために東の大地を目指す。

 その無垢な武への渇望が、のちに魔王軍との壮絶な死闘へと繋がり、そして、一人の蒼き髪の天才剣士の運命を大きく狂わせることになることなど。

 今はまだ、誰も知らない。


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