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第8話 覚悟

 二人が【正義の剣】を去った、翌日の朝。

 王国最大の冒険者の街。その一角にあるギルドの専用部屋には、いつものようにメンバーが集まっていた。

 だが、そこにある空気は、昨日までとは決定的に、そして絶望的なまでに異なっていた。

 ただ一つ、当たり前だったはずの景色がない。

 誰よりも早くここへ来て、重い木枠の窓を大きく開け放ち、清々しい朝の空気を部屋いっぱいに呼び込む。そして、リーダーであるクリスが机の上に散らかしたままの報告書や依頼書を、「もう、いつもいつも!片付けないんだから!」と文句を言いながらも、一つ一つ丁寧に片付けてくれる――そんなマリーの、甲斐甲斐しくも温かい姿は、もうどこにもなかった。

 そして、いくら待っても、重厚な扉を勢いよく開け放ち、満面の笑みで「おはよう! 皆!」と飛び込んでくる、あの太陽のような親友の姿も。

 彼の声が響くだけで、どれだけ過酷な任務の前の朝でも、部屋中がパッと明るく照らされたようになっていた。その光が、今は完全に失われている。

 欠けたのは、たったの二人。

 しかし、その二人の喪失は、クリスの心に底が見えないほど巨大で、氷のように冷たい穴を空けていた。換気がなされていない室内はどこか埃っぽく、澱んだ空気が重く停滞している。太陽の光すら差し込むことを躊躇っているかのような薄暗さが、余計に『彼らが去った』という残酷な現実をクリスに突きつけていた。

 重苦しい、心臓さえも押し潰されそうな沈黙の中、約束の集合時間を迎える。

 クリスはリーダーの席に深く腰を下ろし、机の上で組んだ両手の上に顎を乗せていた。その視線は虚空を彷徨い、誰とも合わせようとはしない。いや、合わせるのが怖かったのかもしれない。

 入り口の両サイドには、門番のようにシグマとオメガが立ち尽くしている。いつもなら真っ先に冗談を飛ばして場を和ませる賑やかなシグマも、今は固く口を閉ざし、壁の一部になったかのように動かない。オメガの表情は鉄仮面のように微動だにしないが、その固く握りしめられた拳は微かに震えていた。

 中央の革張りのソファーに並んで座っているのは、クロエとノアだ。二人のまぶたは痛々しいほどに赤く腫れ上がり、昨日から、そして昨夜ベッドの中でどれだけの涙を流したのか、今もなおその瞳は充血し、うっすらと潤んでいる。

 ふと視線を落とせば、マリーの定位置だったクリスのすぐ隣の立ち位置が、主を失って冷たく佇んでいる。そして、クロエたちの対面にある、いつもセラが座って、身振り手振りを交えながら楽しそうに談笑していた席。

 その二つのぽっかりと空いた空白が、彼らがもうここにはいないという寂しさを、どんな言葉よりも雄弁に物語っていた。

「……皆」

 クリスの低く、どこかひどく掠れたような声が、静寂の部屋にポツリと落ちた。

 全員の視線が、ゆっくりとリーダーに向けられる。

「入団試験の連絡と、王都からの招集命令が届いた」

 クリスは一度言葉を切り、目の前の虚空を見つめたまま続けた。

「明日、この街を発つ。……行き先は、王都だ」

 その言葉に、誰も驚きは見せなかった。すでに全員が覚悟していたことだ。ただ、その避けられない現実を受け入れるように、全員が小さく、重い頷きを返した。

「……皆、ホントに……これで、よかったのか……」

 再び胸の奥からドロドロとせり上がってきた激しい罪悪感に、クリスがたまらず言葉を濁そうとした、その時だった。

「クリス。もう、その話は昨日で終わっているのよ」

 ノアが、静かな、けれど芯の通った毅然とした声でその言葉を鋭く遮った。

 顔を上げると、彼女は泣きはらした赤い瞳で、真っ直ぐにクリスを見据えていた。そこに一切の迷いはない。

「マリー姉も言ってたじゃん。『私たち全員の意見よ』って。それに、私たちは誰に強制されたわけでもない。自分の意思で、クリスについて行くって決めたんだから。……っ。だから……もう、二度とそんな弱気なこと、聞かないでよぉ……」

 後半は、必死に抑え込んでいた感情の堤防が決壊し、震える声と共に涙が溢れ出していた。隣でクロエが、「うぅ……っ」と再びボロボロと大粒の涙をこぼしながら、ノアの服の裾をぎゅっと力強く握りしめる。

「ああ、そうだぜリーダー! シャキッとしろよ!」

 シグマが、鬱屈した空気を吹き飛ばすように、部屋全体を震わせるほどの咆哮を上げた。その顔は悲しみに歪んでいたが、見開かれた瞳にはギラギラとした強い光が宿っている。

「こんな湿っぽい顔してたら、あいつに……セラに笑われるぞ! 俺たちは、セラとマリーの気持ちを背負って進むんだろ! あいつらが安心して外の世界で笑っていられるように、俺たちがこの世界の腐った連中をぶっ飛ばしてやるんだろ!」

 その荒々しくも力強い言葉に呼応するように、腕を組んでいたオメガも深く、重々しく頷いた。

「……我らの歩む道は、彼らの失意の上に成り立っている。ならば、ここで立ち止まることなど断じて許されん」

 仲間の、痛いほどの熱い想いが込められた言葉を受け、クリスはゆっくりと目を閉じた。

(そうだ。俺が揺らいでどうする。俺が、あいつらの未来を護るんだ)

「……そうだな。すまなかった。……行こう!」

 胸に渦巻く迷いを、身を切るような後悔を、そして今にも零れ落ちそうになる涙をすべて心の最も深い底に厳重に封じ込め、クリスは力強く立ち上がった。

 腰に提げた愛用の剣の柄を、指の関節が白く浮き出るほどに強く握りしめる。

 彼はもう、二度と振り返ることはなかった。慣れ親しんだ、数え切れないほどの笑顔と想い出が詰まったこの部屋に背を向け、一歩も躊躇うことなく廊下へと踏み出す。

 残された四人も、それぞれの確かな覚悟と、隠しきれない悲しみを胸に深く刻み込みながら、静かに、けれど力強く、リーダーの頼もしい背中へと続いた。


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