第79話 深淵の番人と黒衣の剣
帝国の地下深層、魔力炉が放つ毒々しい紫色の光が、岩盤をくり抜かれた広大な空間を不気味に照らし出していた。
すべてを粉砕する絶望の塊――魔王軍四天王ガラルドの巨大な戦鎚が、満身創痍の盾使い、オメガの頭上へと無慈悲に振り下ろされる。
ひび割れ、限界を迎えていた鋼鉄の大盾が砕け散る直前。仲間たちを逃がすという己の使命を全うしたオメガの意識は、すでに完全な暗黒へと落ちていた。
彼は自分が潰される瞬間を見ることも、痛みを感じることもなく、ただ静かに、糸が切れた操り人形のように血の海へと崩れ落ちていった。
――空気を引き裂き、鋼がうなりを上げる爆音が迫る。
だが、いつまで経っても、肉体がひしゃげ、骨が砕け散る凄惨な音は響かなかった。
「……あァ?」
耳を劈くような轟音の代わりに響いたのは、ガラルドの不機嫌極まりない、濁った低い声だった。
彼が振り下ろした渾身の戦鎚は、気を失って倒れ伏すオメガの脳天のわずか数センチ上で、ピタリと静止していた。
いや、静止していたのではない。
オメガの前に、いつの間にか一人の『男』が割り込んでいたのだ。
「……なんだテメェは。どこから湧いて出た」
全身を漆黒のローブで覆い、目深に被ったフードで顔を完全に隠した黒衣の男。
その男は、ガラルドの戦鎚が放つ圧倒的な暴威を、片手で抜き放った『一本の長剣』だけで、完全に受け止めていたのだ。
殺戮を最高の娯楽として楽しむ快楽殺人者であるガラルドは、自らの至高のショーを邪魔されたことに顔を歪め、忌々しげに戦鎚へさらに力を込めた。
ギギギギギッ……!!
巨躯から繰り出されるすさまじい圧力が黒衣の男へとのしかかる。しかし、男の構えた剣は一ミリたりとも押し込まれない。
それどころか、戦鎚越しに伝わってくるその刃の尋常ではない『重さ』と、大気すら凍りつかせるような底知れぬ魔力のプレッシャーに、ガラルドはチッと舌打ちをして目をすがめた。
「……このイカれた重さ。なるほどな、テメェかよ。……ゼノス」
ガラルドの言葉に、フードの奥で男の気配が微かに動いた。
魔王軍四天王を統率するNo.2にして『虚空の番人』の異名を持つ男、ゼノス。
彼は足元で血の海に沈むオメガを一瞥すらせず、ローブの奥から冷徹な声を響かせた。
「そこまでだ、ガラルド。この人間は殺さない」
「ハッ! 何を寝言ほざいてやがる! コイツは俺の獲物だ。俺の遊びを邪魔するなら、テメェだろうが容赦しねェぞ!」
激昂したガラルドの全身から、先ほどクリスたちを圧倒した凶悪な殺気がさらに膨れ上がる。地下の冷たい空気が、ガラルドの怒りによって焼けるように熱を帯びた。
しかし、黒衣のゼノスは顔色一つ変えなかった。
「遊びは終わりだ。この人間には、まだ利用価値がある」
「知るかよォ!! ならテメェごとミンチにしてやる!!」
血に飢えたガラルドの沸点は、すでに限界を突破していた。
彼は戦鎚を一度大きく引き戻すと、岩盤を砕くほどの強靭な脚力で地を蹴り、ゼノスへ向けて渾身のフルスイングを叩き込んだ。地下空間そのものを叩き割るような暴威が、黒衣の男を両断せんと迫る。
だが、ゼノスは身をかわそうともせず、ただ静かに長剣を構え直した。
「無駄だ」
刹那。
ゼノスの剣が、目にも留まらぬ神速で閃いた。
それは魔術などではない。純粋な剣の技。ガラルドの戦鎚が叩きつけられる直前、その破壊力のベクトルを剣の腹で紙一重で逸らし、相手の力そのものを利用して己の極大の魔力と共に弾き返す、完璧にして至高の『カウンター』。
「なッ……!?」
ドゴォォォォォォォンッ!!!!!
「ぐはァァァァッ!?」
己の放った全力の破壊力を、威力を増してそのまま叩き返されたガラルドは、信じられないほどの鮮血を吐き出し、巨体をくの字に折り曲げて後方へと弾き飛ばされた。
数十メートルも地下空間の硬い岩壁をぶち抜き、土煙を上げてようやく停止したガラルドは、瓦礫の山の中で痛みに顔を歪めていた。
「ク、ソが……ッ! テメェ、本気か……!」
「私の邪魔をする気なら、今ここでその首を落とす」
フードの奥から放たれる声は、一切の感情を排した深淵の闇だった。
四天王としての絶対的な実力差。その身を以てゼノスの底知れぬ剣技と力の差を味わったガラルドは、忌々しげに黒い血を吐き捨てると、それ以上の追撃を諦めたように戦鎚を肩に担ぎ直した。
「……チッ。完全にシラケちまったぜ。勝手にしやがれ!」
ガラルドは悪態をつきながら、瓦礫を蹴り飛ばし、地下空間の暗がりへと足音荒く姿を消していった。
彼が去り、再び静寂が戻った魔力炉の広間に、今度は甘ったるく、どこか熱を帯びた少女の声が響いた。
「あーあ、ガラルドったら相変わらずおバカさんね。ゼノス様に刃向かうなんて、身の程知らずにもほどがあるわ」
部屋の隅、濃い影がぐにゃりと波打つように歪み、そこから一人の少女が這い出てきた。
フリルをふんだんにあしらった漆黒のドレスに、金髪のツインテール。額に禍々しい角を生やした上位魔族――フィリーだ。
普段は人間を小馬鹿にしておどけている彼女だが、黒衣の男――ゼノスの前に立つと、その態度は劇的に一変した。
彼女は頬を上気させ、潤んだ赤い瞳でゼノスを見つめると、まるで恋する乙女のように両手を胸の前で組み、恭しくその場に片膝をついた。
「お怪我はありませんか、ゼノス様……? もちろん、あの程度の木偶の坊の攻撃、貴方様に届くはずもありませんけれど」
「……フィリーか。地上はどうなっている」
ゼノスが静かに剣を鞘に納めると、フィリーは「えへへ」と嬉しそうに微笑みながら立ち上がった。
「すべてゼノス様の思い通りよ。でも……ゼノス様ったら、こんな瀕死の人間、どうするおつもりですか?」
「お前の影潜で、こいつを運べ。丁重にな」
ゼノスの命令に、フィリーは少しだけ不満そうに唇を尖らせた。
「えーっ。こんな泥と血だらけのデカブツ、私が運ぶんですかぁ? 私の可愛いドレスが汚れちゃうじゃないですか」
「お前の魔法なら容易いはずだ。死なせるな。コイツには、まだ果たしてもらうべき役割がある」
ゼノスの低く冷たい声に、フィリーはビクッと肩を揺らしたが、すぐに恍惚とした表情を浮かべて深く頷いた。
「は~ぃ! ゼノス様がそう仰るなら、このフィリー、喜んで運びますわ! ……それにしても」
フィリーが足元の影を広げると、暗闇が沼のようにオメガの身体を包み込み、ゆっくりと沈めていく。
彼女は影に飲まれていくオメガを見下ろしながら、ゼノスの横顔をチラリと盗み見た。
「わざわざこんな盾使いを生かしておくなんて。これもセラ君の為なんですか?」
「……」
「はぁ……ゼノス様は本当に、セラ君のことがお気に入りなんですね。私、あの時も言いましたけど……本気でヤキモチ焼いちゃいそうです」
「……」
フィリーの甘い呟きには一切応えず、ゼノスは完全に意識を失い影へと消えていくオメガを無言で見下ろしていた。
(……セラ・ウッドベル)
フードの奥、虚空の番人の瞳には、世界のすべてを盤上の駒として見据えるかのような冷徹な光が宿っている。
あの日、王都のギルドで絶望に突き落とされたはずのただの少年。魔術の構築回路すら持たないはずの彼が、陽だまりの村で『真紅の闘気』を覚醒させ、凄まじい力の片鱗を見せた。
あの時、遠くからその波動を感知したゼノスでさえ、彼の中に眠る圧倒的な魔力の底知れなさに微かな戦慄を覚えたほどだ。
(この男の命が繋がっていると知れば、彼らはどう動くか。絶望から立ち上がり、どれほど強大な特異点へと化けるか……)
すべては、世界を覆すため。
ゼノスは、盤面を予測不可能な方向へと狂わせる可能性をもつセラの存在に、抗いがたい執着を抱いていた。
「……世界に足掻いてみせろ。君達の内に眠るその力が、私の用意した舞台でどれほどの絶望と奇跡を見せてくれるか……楽しみにしているよ」
漆黒のローブをなびかせ、ゼノスは魔力炉の紫色の光に背を向けた。
オメガの命が密かに繋ぎ止められ、魔王軍の手中にあることなどセラもクリスも知る由もない。




