第71話 シュウとエイル
――バタン、と。
クリスたち六番隊の面々が退室し、重厚なマホガニーの扉が閉まると、蒼天の天秤騎士団・団長室は水を打ったような完全な静寂に包まれた。
先程までの張り詰めた血と泥の匂いが嘘のように、部屋に取り残されたのは、騎士団の頂点に君臨する二人の男だけとなった。
ステンドグラス越しに差し込む午後の陽光が、床に落ちた見えない塵を照らし出している。
窓辺から王都の街並みを見下ろしていたシュウ団長が、ゆっくりと振り返り、執務机の上に置かれたクリスの報告書へ深みのある青い瞳を落とした。
「……エイル」
「はい、シュウ団長。なんでしょうか」
傍らに控えていたエイル副団長が、いつもと変わらぬ冷徹で知的な表情のまま応じる。
シュウは報告書の束を指先で軽く、トントンと叩いた。その微かな音が、部屋の空気を一段重く沈み込ませる。
「クリスの報告書には、こうある。帝国での潜入中、『騎士団の上層部から命令された』と、フィリーと名乗る現地の少女が、魔力炉のある最深部への隠しルートを案内した……とな。お前は、何か知っているか?」
シュウの射抜くような眼光が、エイルの眼鏡の奥の瞳を真っ直ぐに捉えた。
その威圧感は、並の騎士であれば立っていることすら困難なほどの重圧。しかし、エイルは表情の筋肉をピクリとも動かさず、完璧なまでの無表情を貫いてみせた。
「……いいえ、私は何も」
「本当か?」
「ええ。そのような工作員を現地に手配した覚えはございません」
平坦な声で答えるエイルの胸の奥では、冷ややかな舌打ちが鳴り響いていた。
(フィリーの奴……。クリスたちを誘導するにあたって、『騎士団の上の方からの命令』などと余計なことを吹き込みおって。クリスもクリスだ。あそこまで疲弊し、心身ともに極限状態に追い詰められながら、あの小娘の戯言を一言一句違わず報告書に上げるとは。まったく、厄介な男ですね)
だが、ここで僅かでも動揺を見せれば、目の前に立つ当代随一の天才剣士の目を欺くことはできない。エイルは呼吸のペースすら変えずに、シュウの視線を受け止める。
シュウはエイルの返答を聞いても、追及の眼差しを緩めなかった。
「なら、誰の命令で、この『フィリー』と名乗る少女はクリスたちを案内したんだ? 我々以外に、極秘である特命任務の全容を把握し、敵地の最深部に息のかかった者を配置できる人間がいるとでもいうのか?」
シュウの問いに、エイルは静かに息を吐き、少しだけ首を傾げてみせた。
「……隊長ご自身の独断、という可能性はないのでしょうか?」
「なに?」
「彼が自らの任務を円滑に進めるため、現地のレジスタンスか何かに報酬を約束し、あとで経費として処理するために『上層部の命令』と偽った……とも考えられますが」
「クリス自身が、か。それはない」
シュウは即座に、冷たく言い捨てた。
「なぜそう言い切れるのですか? 失礼ですが、些か身内贔屓に取られかねないかと」
「……身内贔屓か。確かにそう見えるかもしれないな。だが、クリスの魔王を討伐する強い意志と、王国に対する忠誠心を私は誰よりも理解している。アイツはそんな男じゃない。それに、クリスがそのようなつまらない嘘をつく男ではないことくらい、お前ももう分かっているだろう」
「……」
シュウの確信に満ちた言葉に、エイルは反論せず沈黙を選んだ。
シュウの深い青色の瞳は、まるで波一つない深海のように穏やかだが、同時にすべてを飲み込んでしまうような恐ろしい底知れなさを秘めている。策謀を巡らせるエイルでさえ、この男が腹の底で何を考えているのか、完全には読み切れない時があった。
「確かに、不可解な点が多い報告です」
エイルは眼鏡のブリッジを中指でスッと押し上げ、巧みに話を本筋へと逸らそうと試みる。
「ですがシュウ団長。今は出所不明の案内人の素性を洗うより、帝国が掌握しているという『宵闇の珠』と、四天王が直接指揮を執っている巨大な魔力炉をどうするか……そちらの対応を考えるのが先決ではありませんか? もし魔王が完全復活を果たせば、あの少女が何者であろうと、王国は終わりです」
「……優先順位は、確かにそうだな」
シュウはゆっくりと頷き、窓の外へと視線を戻した。
エイルが内心で小さく安堵しかけた、その時だった。
「だが、この問題の調査も同程度に優先度は高いと、私は考えている」
「……と、仰いますと?」
「考えてもみろ。その『フィリー』と名乗る少女が、魔王軍、もしくは帝国の息のかかった人間だとして……クリスたち六番隊を確実に殺すために、四天王が待ち構える最深部へと案内した。ここまでは、敵の巧妙な罠として理解できる」
シュウは窓枠に手をかけ、王都の空を見つめたまま、重々しく言葉を紡いでいく。
「だが、それでは……隠密裏に潜伏中であったクリスたちの動きを、敵が『完全に把握していた』という事実に辻褄が合わない。少女はクリスたちに接触した際、彼らの『目的』まで知っていたと言うではないか」
「……」
「帝国の最深部にある魔力炉の図面を用意し、極秘で潜入した我々の精鋭の動きをピンポイントで捕捉し、誘導する。……考えたくはないが、この騎士団の中枢に『内通者』がいるのではないか?」
その言葉が団長室に響いた瞬間、部屋の空気が凍てついた。
内通者。その確信に触れたシュウの背中は、絶対的な正義を束ねる王国の守護者としての強い怒りと悲哀に満ちているようにも見えた。
エイルは、シュウのその真意を推し量るように、静かに目を伏せた。
「……騎士団に、内通者。もし事実であれば、国家の根幹を揺るがす由々しき事態です」
「あぁ。だからこそ、このまま放置するわけにはいかない」
シュウは振り返り、エイルに向かって力強く、明確な指示を下した。
「エイル。早急に各部隊の隊長たちを招集しろ。前団長のランドルフ殿にも同席を願おう」
「……会議を開くのですね」
「あぁ。蒼天の天秤騎士団を構成する、一番隊から十二番隊までのすべての隊長。そして私とお前、ランドルフ殿を含めた、十五名による最高幹部会議……『円卓会議』を開く」
円卓会議。
それは、国家存亡の危機に直面した時のみ開かれる、フラリス王国最高峰の武力を束ねる者たちの総会である。
「帝国の魔力炉と『宵闇の珠』への武力介入の決定。そして……我々の中に潜むかもしれない『内通者』のあぶり出し。すべてを、この会議で決着させる」
シュウの瞳に、揺るぎない決意の炎が宿る。
エイルは恭しく右手を胸に当て、深く、完璧な一礼をして見せた。
「……御意のままに。ただちに全隊長へ、緊急招集の伝令を走らせます」
エイルが踵を返し、執務室を後にする。
重厚な扉が閉まった直後、エイルの口元には、誰にも見せることのない冷酷で不敵な笑みが浮かんでいた。
(内通者のあぶり出し、ですか。……いいでしょう。この最高幹部会議、我々の悲願を完遂させるための、最高の舞台にして差し上げますよ)
一方、誰もいなくなった団長室で。
シュウは一人、机の上に残されたクリスの報告書を見つめながら、感情の読めない深い瞳で静かに虚空を見つめ続けていた。
王国最高の武力が、一つの場所に集結しようとしている。
それぞれの正義と、隠された裏切り、そして暗躍する魔王の影。
すべてを飲み込む嵐の前の静けさが、フラリス王国の王城を重く、冷たく包み込んでいた。




