第70話 疑念
――フラリス王国の中心に座す、壮麗なる王城。
高く澄み切った蒼空から降り注ぐ陽光が、長い回廊のステンドグラスを抜け、磨き上げられた大理石の床に色鮮やかな影を落としていた。
平和と栄華を象徴するようなその明るい光の中を、蒼天の天秤騎士団・六番隊の一行が歩いていた。
帝国からの過酷な帰還の旅路を経て、彼らの衣服の汚れや傷こそ綺麗に落とされていたものの、その身が纏う空気は異常なほど重く、暗い。
先頭を歩くクリス・フィンリードの銀髪は整えられているが、その瞳はまるで死人のように虚ろで、背に続くシグマ、ノア、ルカの足取りも鉛のように重かった。彼らの間に、かつて常に無言で最後尾を守ってくれていた巨大な盾使いの姿は、もうない。
すれ違う他の騎士団員たちが、息を呑んで道を譲る。彼らが放つ、死の淵から這い上がってきたばかりのような壮絶な空気に、誰も声をかけることができなかった。
やがてクリスは、最上階の奥に位置する団長室の前に立ち、一つ深い呼吸をしてから重厚な扉を叩いた。
「――入れ」
中から響いた落ち着いた声に応じ、クリスは扉を開け放つ。
広い執務室には、窓辺に立つ騎士団の頂点、シュウ団長と、その傍らで書類に目を通しているエイル副団長の姿があった。
「帰還いたしました。……帝国での極秘任務、ご報告いたします」
クリスは床に片膝をつき、深く頭を垂れた。シグマたちもそれに倣う。
シュウは振り返り、疲弊しきった六番隊の面々を見て、その深い青色の瞳を痛ましく歪ませた。
「……よく生きて戻った、クリス。そして皆も。まずは任務の成果を聞こう」
「はっ。……帝国国境の城塞都市ガルドの地下にて、『宵闇の珠』の存在、およびそれから魔力を抽出する為の巨大な魔力炉の稼働を確認しました。奴らは他国の捕虜を燃料とし、魔王復活のための力を着実に抽出しています」
クリスの報告に、シュウはギリッと奥歯を噛み締め、拳を握った。
「やはり、最悪の懸念は事実だったか……」
「しかし、我々が情報を持ち帰れたのは、ここまでです。最深部にて、魔王軍四天王の一人、ガラルドと遭遇しました」
四天王。その単語が出た瞬間、部屋の空気が凍りついた。
「あのバケモノ相手に、俺たちの力は全く通用しませんでした……。退却の際、殿を務めた隊員のオメガが……名誉の戦死を遂げました」
クリスの声は、機械のように感情を排して平坦だった。だが、床についた彼の手は、指の関節が白く浮き出るほどに強く握りしめられていた。
「……そうか。オメガが……」
シュウは深く目を閉じ、哀悼の意を示すように沈黙した。
だが、その静寂を破ったのは、エイル副団長の冷ややかで事務的な声だった。
「オメガ隊員の犠牲は非常に残念です。ですが、四天王と遭遇しながらも『宵闇の珠』の確たる情報を持ち帰ったのです。彼の犠牲は、王国にとって極めて有意義な、素晴らしい成果と言えるでしょう。……よくやってくれましたね、クリス隊長」
眼鏡の奥で冷たく細められたエイルの瞳。
その言葉を聞いた瞬間、クリスの心の奥底に、得体の知れない真っ黒な感情がドロリと湧き上がった。
有意義な犠牲。仲間が塵となって散ったことを、この男はただの盤上の駒の損失としか見ていない。
クリスは頭を垂れたまま、冷たい大理石の床を見つめ、これまでの違和感を頭の中で急速に繋ぎ合わせていた。
(……おかしい。色々と、辻褄が合わなすぎる)
ガルドの街で、自分たちを地下水路の隠し通路へ案内した、あの少女・フィリー。
彼女は確かに言っていた。
『騎士団の上の方からの命令で、あなたたちを助けるように言われている』と。
あの時は情報不足で深く追求できなかったが、よく考えれば異常だ。なぜ帝国の深部で、少女が『騎士団の上層部』の指示を受けて動いているのか。しかも彼女が案内した先は、四天王ガラルドが待ち構える、まさに死地そのものだった。
そして――何よりクリスの胸をざわつかせたのは、数ヶ月前の『陽だまりの村』の討伐任務だ。
あの時、エイル副団長は『シュウ団長の直々の命令だ』と言って、村人ごと焼き払う殲滅命令をクリスに伝えた。
だが、今目の前にいるシュウ団長は、他国の捕虜が犠牲になっていることにすらこれほど心を痛めている。そんなシュウが、何の罪もない村人を容赦なく焼き払えなどという非情な命令を、本当に下すだろうか?
(もし、あの村への殲滅命令が、エイル副団長の独断……あるいは捏造だったとしたら?)
(もし、あの少女に俺たちを死地へ案内させた『騎士団の上層部』というのが……この男のことだったとしたら?)
すべての点と点が線で結ばれた瞬間、クリスの背筋を氷のような悪寒と、それ以上の凄まじい殺意が駆け抜けた。
エイルは、魔族と通じている。
自分たちを陽だまりの村へ向かわせ、セラと殺し合いをさせたのも。今回、四天王の元へ自分たちを送り込み、オメガを死なせたのも。
すべては、この男が裏で糸を引いていたのではないか――?
「……クリス隊長? どうかしましたか?」
エイルが、沈黙の長引くクリスを訝しんで声をかけた。
「……いえ。己の力不足を恥じていたところです」
クリスはゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、完全に感情を殺した完璧な『氷の騎士』の仮面だった。内に渦巻く烈火のような疑念と殺意を、一欠片も表に出さない。相手が裏切り者であると確証がない以上、ここで牙を剥けば、自分だけでなくシグマたちまで反逆者として処断されかねない。
「クリス。今はただ、身体を休めろ。オメガのことは……本当に、すまなかった。彼の遺志に報いるためにも、我々は次の一手を打たねばならない」
シュウが、痛ましそうにクリスへ言葉をかける。
「はっ。……お気遣い、感謝いたします」
深く一礼し、クリスたちは団長室を後にした。
バタン、と重厚な扉が閉まる。
薄暗い廊下に出た瞬間、シグマが壁を力任せに殴りつけた。
「クソッ……! 『有意義な犠牲』だと!? あの副団長、オメガの命をなんだと思ってやがる!!」
「シグマ、落ち着いて……ここはお城の中ですよ」
「これが落ち着いていられるかよ! クリス、お前もあんな言い方されて腹が立たねぇのか!」
怒りをぶつけるシグマと、それを必死になだめるノア。その後ろで、ルカはクリスの横顔を不安そうに見つめていた。
「……シグマ、ノア、ルカ。お前たちは兵舎へ戻って、傷を癒やせ」
クリスは振り返ることなく、淡々と告げた。
「隊長? どこへ行かれるんですか?」
ルカが問いかけると、クリスは廊下の窓から見える、蒼く澄んだ王都の空を見つめた。
「俺は、少し一人で調べたいことがある。……お前たちは、休め」
それは、部下たちをこれ以上の暗闇に巻き込まないための、冷徹で優しい命令だった。
シグマたちは何か言いたげだったが、クリスの背中が放つ絶対的な拒絶の空気に気圧され、やがて無言で兵舎の方へと歩き出した。
一人残されたクリスは、冷たい石の壁に背を預け、ギリッと奥歯を噛み締めた。
騎士団の内部に、魔族と通じる裏切り者がいる。それがもしエイル副団長だとしたら、騎士団という組織そのものが根底から腐敗していることになる。
(セラ……俺はお前から居場所を奪い、お前を斬ってまで……こんな腐った組織の正義を守ろうとしていたのか……?)
虚無に沈んでいたクリスの瞳の奥で、黒い炎が静かに燃え上がり始めていた。
(もしエイルが、俺たちを陥れた元凶だというのなら。もしあいつが、俺たちから仲間を奪ったというのなら……)
クリスは腰の剣の柄にそっと手を添える。
相手が副団長であろうと関係ない。魔王軍だけではない。この王国に巣食う闇のすべてを、己の手で切り伏せる。
氷の騎士の心に、新たな、そして最も冷酷な覚悟が宿った瞬間だった。




