第69話 狂気と決意
――暗く冷たい地下水路を、泥水を跳ね飛ばす激しい足音だけが反響していた。
帝国の城塞都市ガルドの地下深く。四天王ガラルドの圧倒的な暴力から逃れるため、蒼天の天秤騎士団・六番隊の生き残りたちは、息も絶え絶えに暗闇を駆け抜けていた。
先頭を走るのは、巨大な体躯のシグマ。彼の肩には、真紅の闘気を無理やり抑え込まれ、もがき苦しむクリスが担がれている。その後ろを、ルカとノアが必死の形相で追いかけていた。
「放せ……っ! 放せ、シグマァッ!!」
クリスは血を吐くような声で叫び、シグマの背中を何度も殴りつけた。
「オメガが……あいつが一人で残ってるんだぞ! 俺が戻らなきゃ、あいつは……っ!」
「黙れ!!」
シグマの悲痛な怒号が、地下水路の冷たい石壁に木霊した。
「戻ってどうする! あんな化け物相手に、今の俺たちじゃ束になったって犬死にするだけだ! オメガの覚悟を……あいつが命と引き換えに作ってくれたこの道を、お前は無駄にする気か!!」
「……ッ、あぁぁぁぁっ!」
シグマの言葉に、クリスはついに抵抗する力を失い、うめき声を上げて顔を覆った。
鼻を突く下水と泥の臭い。冷たい風が頬を切り裂く。背後からは、ガラルドが振り下ろしたであろう戦鎚の絶望的な破壊音が、地鳴りのように響いてきていた。
あの寡黙で、誰よりも仲間思いだった絶対の盾が、粉々に砕け散る音。
それが、クリスの心を容赦なく切り刻んでいく。
やがて、フィリーが用意していた隠し通路の迷路を抜け、一行はかつてレジスタンスが使っていたという廃教会の地下隠れ家へと転がり込んだ。
重い木扉を閉め、閂を下ろした瞬間、シグマは限界を迎えたように膝をつき、クリスを床へ下ろした。
安全圏に到達したというのに、誰一人として安堵の息を吐く者はいなかった。部屋に立ち込めるカビと埃の匂いが、彼らの絶望をさらに重くしていく。
「あぁ……っ、あぁぁぁぁぁっ!!」
クリスは冷たい石の床に這いつくばったまま、獣のような嗚咽を漏らした。
両手で石畳を叩き、額を擦りつけ、血が滲むほどに己を呪う。
「俺のせいだ……俺が不甲斐ないばかりに、また仲間を死なせた……! セラを失って、今度はオメガまで……っ! 俺は何のために……何のために今まで……!」
自分の弱さが、甘さが、すべてをぶち壊したのだ。
正義を成すためには力が必要だと思い上がり、仲間を巻き込んだ結果がこれだ。
シグマは壁に背を預けたままズルズルと崩れ落ち、無言で天を仰いだ。その目からは、大粒の涙がとめどなく溢れ、土埃にまみれた頬に黒い筋を作っていた。あの時、オメガの手を引いてでも一緒に逃げるべきだったのではないか。そんな答えの出ない後悔が、シグマの胸を焼いていた。
「……シグマ、ルカ。傷を見せてください」
重苦しい沈黙を破ったのは、ノアだった。
彼女の美しい金髪の三つ編みは泥に汚れ、その顔は蒼白だった。だが、彼女は震える両手を強く握り締め、気丈に振る舞いながら二人の元へ歩み寄った。
「ノア……お前……」
「私は治癒術師です。悲しむのは、全員の命を確実に繋ぎ止めてからです」
ノアの手から、淡く清らかなエメラルドグリーンの光が放たれ、シグマたちの打撲や擦り傷を優しく塞いでいく。
だが、その手は微かに痙攣していた。
治癒術師として、目の前で仲間が死にゆくのを知りながら、置いて逃げるしかなかった現実。誰かの傷を癒やすための力が、一番助けを求めている仲間に届かなかったという無力感は、彼女の心を深く、鋭く抉っていた。ノアの瞳からは、光の粒子に混じって静かな涙がこぼれ落ちていた。
一方で、部屋の隅に立つルカの瞳には、悲しみとは全く異なる、異質で濁った感情が渦巻いていた。
彼女は自分の腕の傷がノアの魔術で癒えていくのを見下ろしながら、床で泣き崩れるクリスの背中を、熱を帯びた眼差しで見つめていた。
(オメガ先輩……あなたの尊い自己犠牲は、決して無駄にはしません。あなたの死が、私たちの隊長をさらに強く、揺るぎない絶対的な『正義の剣』へと鍛え上げるのですから)
ルカの狂信的な正義感は、仲間の死すらもクリスのための神聖な贄として正当化していた。
(隊長は、優しすぎる。だからあんなに傷ついて、苦しんでいる。……これからは、私がもっと隊長をお守りしなければ。隊長が歩む道に立ち塞がる悪は、私がすべて、この手で浄化してみせます)
外套の下で投剣の柄を握りしめるルカの口元に、狂気めいた薄い微笑が浮かんだ。それは、この死の街の瘴気よりも恐ろしく、冷たい歪みだった。
「……泣くのは、ここまでだ」
不意に、地を這うような低く冷たい声が響いた。
床に這いつくばっていたクリスが、ゆっくりと立ち上がる。
シグマやノアがハッと息を呑んで彼を見た。
振り返ったクリスの顔には、先程までの悲痛な涙の跡は残っていながらも、その瞳は完全に凍りつき、光の届かない漆黒の虚無へと沈み切っていた。
真紅の闘気は完全に鳴りを潜め、代わりに、氷のような冷徹な理性が彼を支配している。
「オメガは命を懸けて、俺たちを逃がしてくれた。その目的は、俺たちがここで泣き喚くためじゃない。……帝国の『魔力炉』と『宵闇の珠』の情報を、王都へ持ち帰るためだ」
「リーダー……」
クリスの声には、一切の感情が乗っていなかった。
それは、己の心を完全に殺し、魔王を討つためのただの『装置』になり果てた男の声だった。
「これ以上の感傷は不要だ。速やかに体勢を立て直し、ガルドの街を脱出する。そして必ず……この帝国を、魔王軍を、俺が根絶やしにする」
その言葉は、誰に向けたものでもない、彼自身の魂に刻み込む呪いだった。
氷の騎士は、もう二度と振り返らない。オメガの犠牲を、セラを失った罪を背負い、彼はさらに深く、暗黒の深淵へと足を踏み入れていく。
廃教会の冷たい空気の中、クリス達は、それぞれの決意と狂気を胸に秘め、反撃の時を誓うのだった。




