第65話 深緑の邂逅
潮の香りが完全に消え去り、代わりに世界を支配したのは、むせ返るような濃緑の息吹だった。
港町シーレインから東へ続く街道をひたすら歩み進めたセラは、フラリス王国の国境を越え、人間の支配が及ばない未踏の原始林へと足を踏み入れていた。
見上げるほどの巨木が天を覆い尽くし、重なり合う枝葉の隙間から差し込むわずかな陽光が、宙を舞う淡い光の粒子を照らし出している。それは、大気中に漂う濃密な魔力の残滓だった。普通の人間なら肌に重圧を感じて息苦しくなるほどの霊域。伝承に語られる長命なる種族――エルフの国、『翠都エレンディル』へと繋がる神秘と拒絶の森だ。
「……綺麗な場所だけど、やっぱりどこか緊張するな」
セラは腰に提げた鋼の長剣の柄に、そっと手を触れた。
崖から落ちてすべてを失ったと思っていた自分を救ってくれた、ユリ、セバス、ミーアの三人。そして、自分の生存を信じて今も大陸中を探し回ってくれているというマリーとクロエ。なぜクロエがマリーと一緒にいるのかは疑問だが。
さらには、少々暴走気味に自分の探し物を手伝い、温かく送り出してくれたミオ。
腰にあるのはクリスとお揃いだったあの『無銘の長剣』ではないけれど、セバスから借り受けたこの無骨な刃が、今のセラの背中を確かに支えていた。
(ユリたちが探している『聖剣』の手がかりが、この先のエルフの国にあるかもしれない。今度は僕が、ユリに恩返しするんだ。そのためなら、どんな所だって、怯んではいられない)
ザッ、ザッ、ザッ……。
静寂が満ちる森の奥から、微かな足音が聞こえてきた。
魔物の不規則な這行音ではない。極めて軽やかで、それでいて一寸の無駄もない、洗練された二足歩行の足音だ。
セラが即座に身を構え、警戒の視線を走らせると、鬱蒼と茂るシダ植物の陰から一人の男が悠然と姿を現した。
その姿を目にした瞬間、セラは小さく息を呑む。
身長は巨漢のシグマにも匹敵するほどの長身。しなやかに引き締まった肉体を上質な革鎧で包み、背中には幾何学的な装飾が施された美しい長槍を背負っている。
そして何より、絹のように滑らかな金髪の隙間から覗く、横に長く伸びた特徴的な尖った耳――間違いなく、本物のエルフだった。
(……エルフの戦士だ。ミオさんの言う通り、本当にこの森にいるんだな)
男の方もまた、前方に佇む黒髪の人間――セラというイレギュラーな存在に気づき、ピタリと足を止めた。
人間の立ち入りを激しく拒むエルフ。彼らにとって、森に迷い込む人間はすべて密猟者か、あるいは穢れをもたらす侵入者でしかない。一般の冒険者であれば、即座に武器を構えるか、目を逸らして一目散に逃げ出すのが普通だった。
長身のエルフの男も、自分がこのまま距離を縮めれば、眼前の少年が恐怖に顔を歪めて逃げ去るだろうと予測し、冷徹な一瞥をくれてそのままセラに近づいて行った。
お互いに止まる事なく進み続け、互いの間合いに入りかけたその時。
「――こんにちは」
セラは武器に触れることもなく、一切の敵意や警戒を感じさせない、極めて自然で温かい笑顔を浮かべて声をかけたのだ。
それは、孤児院『木漏れ日の家』で育ち、辺境の『陽だまりの村』で素朴な人々と思いやりのある暮らしを営んできたセラにとって、ごく当たり前の日常の挨拶だった。
「……………………は?」
予想の斜め上を行く純朴な反応に、長身のエルフは完全に虚を突かれ、間抜けな声を漏らして足を止めた。
男は何度も瞬きを繰り返し、まるで見たこともない未知の生物でも目撃したかのような顔で、セラをマジマジと見つめる。
「お前……人間、だよな? なんで俺を見て逃げない? それに何だその緊張感のない挨拶は。エルフを見たら関わらないように足早に去るのが、お前達人間の鉄則じゃねぇのか?」
「えっ? ああ、すみません……そうなんですかね? でも、同じ道を歩いていてすれ違うのに、無視して通り過ぎるのも変じゃないですか?」
「お前、エルフが怖かったり、エルフに対して嫌悪感みたいなものないのか?」
「へ? 何でですか? 僕は何かされた事もないですし、嫌う理由も……本当に耳が長いんだな、って思うぐらいですかね」
セラが照れくさそうに人良げに頬を掻きながら笑うと、男は数秒ポカンとした後、腹を抱えて大声で笑いだした。
「あっははははっ! なんだお前、変な奴だな! いいね、俺そういう堅苦しくないの、最高に気に入ったぜ!」
排他的で冷酷というエルフの固定観念を木端微塵に打ち砕くような、太陽のように明るく豪快な笑い声。
男は親しげに距離を詰めると、セラの肩をガシッと力強く叩いた。
「俺はグレン! 一応、エルフの国じゃそれなりの戦士をやってる。お前、名前は?」
「僕はセラです。フラリス王国で冒険者をやっています」
「セラか! 冒険者がこんな森の奥で単独行動なんて珍しいな。この道を進もうとしてたって事は、エルフの国に用があるのか?」
「あ、はい……その、ちょっと探し物をしてまして」
「それはエルフの国にあるのか?」
「いや、あったらいいなって。なくても何か手掛かりや情報でもあればなって」
「へー、何を探してるかは内緒なのか?」
「え、別に内緒ではないですけど……」
「けど?」
「僕が探してるというより、ある人のお手伝いで探してる感じなんですけど……」
「なんか、ハッキリしねぇな。ま、セラが言いたくないなら無理に聞く気はないから、安心しな。でもな、一人では解決出来ないこともこの世界には山程ある。もし手伝ってほしい事があれば言えよ」
「え、なんで初対面なのに、そんなに優しいんですか?」
「え? あ〜確かに、なんでだろうな……なんか、セラは安心するというか、人間っぽくないというか」
「……人間っぽくない……」
「いや、もちろん人間なんだけど、たぶん」
「……たぶん」
「とにかく、なんか気に入ったんだよ!」
「……雑ですね」
「なんだ! 悪いか!」
「いえいえ」
ひとしきり笑い合った後、グレンは不意に真面目な顔つきになった。
「そういえば、セラは何系統の魔術が得意なんだ?」
「……唐突ですね」
「いや、戦士をやってるとよ、相手の力量とか気になるんだよ。」
「……はぁ、そんなものですかね……僕、魔術使えないんですよ」
「は? 冒険者なんだろ? そんなわけないだろ」
「ハハハ、よく言われます。でも、なんでか本当に使えないんですよ……魔力はあるみたいなんですけど」
「そんな人間いるのか? どれどれ、ちょっと調べてみるか……ん?」
気さくに笑っていたグレンの顔から、不意にすべての余裕が消え失せた。
グレンはエルフの国の中でも、他者の体内に流れる魔力の残滓やその本質を視覚的に見抜く、特殊で極めて高度な魔力探知能力の持ち主だった。どれほど気配を殺そうと、隠された実力を見破る戦士の眼。
グレンが何気なく、セラの体内の魔力の流れを覗き込もうとした、その刹那――。
(……ッ!? な、なんだ、これは……!?)
グレンの背筋を、今までに経験したことのないような、総毛立つほどの激烈な戦慄が駆け抜けた。
一見すると、セラの表面からは魔力の波が一切感じられない。魔術使いではないにしても、一流の剣士なら肉体を護るために無意識に纏うはずの魔力の防壁すら、セラの表面には存在しなかった。並の探知術師が見れば、誰もが「魔力を持たない無能」「一般人以下」だと切り捨てるだろう。
だが、グレンの高度な眼は、その偽りの静寂の『さらに奥』を見透かしていた。
セラの体内の奥底。完全に閉ざされた魔力の回路の向こう側で、まるで天を衝く巨人のような、あるいはすべてを飲み込む深海のような、底知れない、圧倒的な極大の魔力が狂暴に渦巻いているのが視えたのだ。
魔術の構築回路が繋がっていないため、セラ自身はそれを一滴も外へ放出できず、魔術を一切使うことができない。だからこそ周囲は「魔力ゼロ」だと誤解している。しかし、その内側に眠る魔力の絶対量は、王国の宮廷魔術師どころか、世界樹の加護を受けるエルフの上位魔導師すらも遥かに凌駕する、文字通りのバケモノだった。
(魔術が使えないのに……内にこんなふざけた量の魔力を眠らせてる人間がいるのかよ……! 表面はただの優しそうな少年なのに、魔力量だけなら魔王に匹敵するんじゃ……世界を滅ぼしかねない特異点じゃねぇか……!)
グレンの額から、冷たい脂汗がひとすじ流れ落ちる。戦士としての本能が、この少年を敵に回してはならないと猛烈に警鐘を鳴らしていた。だが同時に、かつてないほどの強烈な知的好奇心と興奮が、グレンの胸の中で爆発する。
「……あの、グレンさん? 顔色が悪いですけど、どうかしましたか?」
「いや! なんでもねぇ! ちょっとお前の顔が良すぎて見惚れてただけだ!」
「……え、そっち系?」
「ちげーよ!」
セラが不思議そうに首を傾げると、グレンはすぐにいつもの豪快な笑い顔を作り直し、セラの肩に腕を強引に回した。
「なぁ、セラ! お前、これからエルフの国に行くんだよな?」
「あ、はい」
「その後は?」
「目的の物があれば一旦仲間と合流して、なければまた探しに行く感じですかね」
「だったらさ、ちょっと俺の『探し人』に付き合ってくれないか?」
「えっ? 探し人ですか?」
「ああ、どうだ?」
「とりあえずエルフの国に行ってから考える、でもいいですか?」
「ああ! かまわない!」
「まぁ、それなら」
「よし! じゃあまずは一緒にエルフの国に行くか!」
「あ、でも道が」
「おいおい、俺はエルフだぜ! しっかり連れてってやるよ!」
「いいんですか?!」
「もちろんだ! 翠都エレンディルまで、この俺がバッチリ案内してやる!」
「助かります!」
「エルフは排他的で有名だからな。人間の旅人が一人で国境に行けば、挨拶代わりに矢の雨が降ってくるぜ。でも、この俺が一緒なら話は別だ。顔パスで国境の警備隊を黙らせてやる」
エルフの国へ安全に入るための、これ以上ない強力な道標。
それに、このどこか不器用で、けれど真っ直ぐに自分に向き合ってくれるグレンという男に、セラは不思議と嫌悪感を感じていなかった。ユリたちと離れ離れになり、一人で孤独な旅を続けていた心に、また新しく賑やかな縁が舞い込んできたような温かさがあった。
「よろしくお願いします!」
「おう! 任せろ!」
グレンは嬉しそうにセラの背中をバシバシと叩き、自身の長槍を誇らしげに鳴らした。
人間に牙を剥く深緑の森の奥で出会った、膨大な魔力を内に秘めながらも魔術を使えない黒髪の少年と、その真実を見抜いた槍使いのエルフ。
奇妙な二人の出会いが、やがて世界を揺るがす『聖剣』の運命へと、激しく繋がり始めていくのだった。




