第62話 誇り
クリスの視界が、真紅の闘気によって歪む。限界を超えて無理やり身体を動かしている代償として、尋常ではない速度で魔力が削り取られていくのを感じていた。それでも彼は、血を吐くような覚悟を胸に、死の化身へと変貌したガラルドへ向かって突き進む。
「ほう、まだ向かってくるか。その赤いオーラ、なかなか目障りでいいぜ!」
ガラルドが凶悪な笑みを浮かべ、クリスを仕留めるための一撃を振りかぶった。
完全にタイミングを読まれた、回避不能の軌道。圧倒的な死の影が、クリスの頭上を覆い尽くす。
「消え失せなッ!!」
巨大な戦鎚が、クリスの命を刈り取るために振り下ろされた。
「「クリスー!!!」」
ノアとシグマの悲痛な叫びが、地下水路の湿った空気にこだまする。クリスが己の死を覚悟した、その刹那だった。
ガガァァァァァァァンッ!!!!!
鼓膜を破壊せんばかりの凄まじい衝撃音が、クリスのすぐ目の前で炸裂した。
彼を強引に突き飛ばし、絶望的な一撃の前に立ち塞がったのは、漆黒の短髪を揺らす屈強な騎士だった。
蒼天の天秤騎士団六番隊の絶対的タンクにして、どんな時も無言で仲間を護り続けてきた男――オメガだった。
「オメガッ!?」
クリスが絶叫する。
オメガの構える巨大な盾が、四天王ガラルドの全力の一撃と正面から激突し、凄まじい火花と衝撃波を周囲に撒き散らしていた。しかし、その代償は一瞬で現れた。すでに先程の一撃でひしゃげている分厚い鋼鉄の大盾には無数の亀裂が走り、メキメキと嫌な音を立てて内側へ更なる歪みを見せる。
「ほゥ? まだ耐えるかよ。だが、いつまで持つかなァ!」
ガラルドがさらに力を込め、戦鎚を押し込む。
「……ッ!!」
オメガの腕の骨が嫌な音を立てて軋み、彼の口から大量の鮮血が吐き出された。彼の身体は、今にも巨大な鉄の塊の下敷きになりそうになっている。
「やめろ、オメガ! どけ! お前が死んでしまう!!」
クリスが慌てて助けに入ろうと身を乗り出す。
しかし、それを大声で制止したのは、他でもないオメガ自身だった。普段は決して自ら口を開くことのない、誰よりも寡黙な男の、喉が張り裂けんばかりの血を吐くような咆哮。
「来るなッ!!」
その一言に、その場にいた全員の動きがピタリと止まった。
オメガは血走った目で背後を振り返り、倒れているシグマとノアに向かって叫ぶ。
「シグマ! ノア! 隊長を連れて、今すぐ逃げろォォォッ!!」
「なっ……オメガ、お前……!?」
シグマが目を見開く。オメガの瞳には、死への恐怖など微塵もなかった。あるのは、自分が盾となり、仲間を――敬愛するリーダーを確実に生かして帰すという、純粋で気高い自己犠牲の覚悟だけだった。
「ふざけるな! 俺はお前を置いて逃げたりはしない! これ以上仲間を失うなんて……絶対にッ!!」
クリスが半狂乱になってオメガに駆け寄ろうとする。
しかし、シグマの脳裏に、かつて【正義の剣】で共に笑い合った記憶がフラッシュバックした。背中を預け合い、どんな危機も乗り越えてきた仲間。オメガはいつも無口で、だけど誰よりも真っ先に前に出て、みんなを護ってくれた。その背中を、今、自分は見捨てて逃げなければならない。
(クソッ……クソッタレがァッ!!)
シグマは己の無力さを呪いながら、後ろから両腕を伸ばし、クリスの胴体を力任せに抱え上げた。
「シグマ!? 放せ! 放せェェッ!! オメガが、オメガが死んでしまう!! 俺が、俺が戦うんだッ!!」
クリスは真紅の闘気を振り乱し、シグマの強靭な腕から抜け出そうと必死にもがく。だが、限界を超えた彼の肉体には、シグマの渾身の拘束を振りほどく力すら残されていなかった。親友のセラを失った絶望の傷が癒えぬまま、今また目の前で、自分を信じてついてきてくれた仲間が散ろうとしている。
「……許してくれ、リーダーッ!!」
シグマの目からも、ボロボロと大粒の涙が溢れていた。彼は暴れるクリスを強引に肩に担ぎ上げ、血が出るほど唇を噛み締めて水路の出口へと背を向ける。
彼だって、共に死線を潜り抜けてきたオメガを置いていきたくなどない。だが、ここで残れば全員が確実に死ぬ。オメガの命を懸けた覚悟を無駄にしないためには、リーダーを連れて生き延びるしかなかったのだ。
「ルカ! 行くぞ! 走れ!」
「オメガ先輩……っ!」
ルカも涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、ふらつく足で後退を始める。
ノアが最後の魔力を振り絞り、ガラルドの視界を奪うための極大の閃光魔術《光の帳》を展開した。
「オメガさん……っ、ごめんなさい……っ!」
ノアの悲痛な謝罪が、真っ白な光の中に吸い込まれる。光の目眩ましに乗じて、シグマたちはクリスの絶叫を引きずりながら、地下水路の奥へと姿を消していった。
……残されたのは、ただ一人。
完全にひび割れ、砕け散る寸前の盾を構え、両足でしっかりと大地を踏みしめるオメガだけだった。
「チッ……目障りな光だ。ネズミどもに逃げられたか」
視界を取り戻したガラルドが、舌打ちをして眼下のオメガを見下ろす。だが、ガラルドの口元にはすぐに、残酷で底意地の悪い笑みが戻った。
「まぁいい。まずは、盾になろうってその立派な心意気を、木端微塵に砕いてやるよ。……何か言い残すことはあるか?」
オメガは、全身から血を流し、盾を持つ腕の骨は完全に砕け散り、もはや感覚すら完全に失っていた。立っていることすら奇跡に近い状態だ。
それでも彼は、逃げていった仲間たちが確実に水路の奥へと消えたのを背中の気配で感じ取り、ほんの僅かにだけ、その口角を上げて笑った。
彼に後悔はなかった。最高のリーダーと仲間に出会い、彼らの未来を護るための盾として機能できたのだから。
「……我は、蒼天の天秤騎士団が盾……オメガ。……一歩たりとも、通しはしない」
「ガハハハハ! 上等だァ! 誇りごと塵になれェェッ!!」
四天王ガラルドの、容赦のない処刑の一撃が振り下ろされる。
オメガのその気高い誓いは、地下の魔力炉の轟音と、鋼が粉々に砕け散る絶望の音にかき消されていった。その時、彼の脳裏を過ったのは、かつて皆で笑い合った晴れやかな空の景色だった。




