第61話 狂宴
帝国の国境沿いに位置する城塞都市『ガルド』の地下深層。
岩盤をくり抜かれた広大な空間は、中央に鎮座する『魔力炉』が放つ毒々しい紫色の光に支配されていた。数百人の他国の捕虜たちが悲鳴を上げながら使い捨ての燃料と化していくその地獄の底で、クリスたち蒼天の天秤騎士団・六番隊は、絶対的な『死』と対峙していた。
『ほう? 随分と聞き分けのいいネズミたちだ。せっかく用意した極上の餌にも食いつかないとはな』
水路の出口を塞ぐように現れたその男は、圧倒的な存在感を放ちながら、退屈そうに首を鳴らした。
身長二メートルを優に超える巨躯。その全身を覆うのは、帝国の冶金技術の粋を集めたであろう分厚く漆黒の重装甲だ。だが、それ以上に異様なのは、男が片手で無造作に引きずっている、自身の背丈ほどもある禍々しい鉄の戦鎚だった。
ただそこにあるだけで、大気が悲鳴を上げて軋み、幻覚すら見えそうなほどの絶望感が部屋を支配する。
「貴様……魔王軍四天王の……!」
クリスは、冷たい汗が背筋を伝うのを感じながら、腰に提げた騎士団支給の制式剣を引き抜いた。
「名はガラルドだ。覚えておく必要もねぇがな。どうせ数分後には、お前らはただの赤い肉塊になってるんだからよ」
四天王ガラルドは、ニタリと下卑た笑みを浮かべた。
その言葉は、決して虚勢でも脅しでもない。彼が放つ濃密な魔力のプレッシャーは、先ほどまで街で見かけた下級の魔族たちとは次元が違った。まるで山そのものが意思を持って立っているかのような、重圧。
「全員、配置につけ!!」
クリスの号令が、広間に鋭く響き渡る。
六番隊の面々は、その言葉を待つまでもなく、即座に動いていた。
防御の要であるオメガが、巨大な盾を構えてクリスの前方に立ちはだかる。ノアが後方に下がりながら祈りを捧げ、全員の身体能力を底上げする加速魔術と、防御魔術の多重展開を完了させた。ルカは外套の下から無数の投剣を指に挟み、シグマは背中の大剣を抜き放ち、獰猛な笑みを浮かべた。
「ガハハ! 魔王軍の最高幹部サマのお出ましとはな! 腕が鳴るぜ!」
「――殺し合いの宴、開幕といくかァ!!」
ガラルドが地を蹴った。
その巨体からは到底信じられないほどの、爆発的な速度。彼が踏み込んだ瞬間に、強固な地下の岩盤がクレーターのように陥没し、凄まじい土煙が舞い上がる。
先制したのは、シグマだった。
「オラァッ!!」
巨漢のシグマが、渾身の力を込めて大剣を横薙ぎに一閃する。空気を切り裂く轟音と共に、ガラルドの脇腹を完璧に捉えたはずの一撃。
だが、ガラルドは歩みすら止めなかった。
彼は戦鎚の『柄』の部分をわずかに傾け、シグマの全力の一撃を無造作にいなしたのだ。
「甘い、甘い! そんな鈍いハエ叩きで、俺を殺せるかよッ!」
ガラルドが手首を捻るだけで、シグマの大剣が大きく弾き返される。
「なっ……!?」
その反動でシグマの体勢が大きく崩れた。シグマほどのパワーファイターが、力負けしたのだ。ガラルドの巨大な戦鎚が、無防備になったシグマの頭上へと、容赦なく振り下ろされる。
「オメガ!!」
クリスの叫びと同時、盾役のオメガがシグマを庇うように割って入った。
全身の魔力を盾に集中させ、完璧な防御態勢をとるオメガ。
ドォォォォォンッ!!!
魔力炉の稼働音すらも掻き消すような、凄まじい衝撃音が地下空間に炸裂した。
物理攻撃を完全にシャットアウトするはずのオメガの盾。数多の魔物の攻撃を無傷で弾き返してきたその絶対の防御が、火花を散らして軋み――次の瞬間、ミシッ、と無機質な破壊音を立てて内側へとひしゃげた。
「……ッ、ぐぅぅぅッ!!」
「オメガ!」
オメガの口から苦悶の呻きが漏れ、その身体が後方へと大きく弾き飛ばされる。地面を抉りながら数十メートルも滑り、ようやく停止したオメガは、膝をついて激しく咳き込んだ。
その場にいた全員の顔から、スッと血の気が引いた。
たった一振り。それも、何の魔術も乗せていない、純粋な『腕力』だけの一撃で、あのオメガの盾が歪められたのだ。
「おっ、今のを受け止めたか? なかなか頑丈な玩具を持ってるじゃねぇか!」
ガラルドは愉悦に顔を歪め、肩で戦鎚をトントンと叩いた。
「でもよぉ……俺は、まだ30%も力出してねぇんだぞ?」
30%。
その言葉が事実であることを、肌を刺すようなプレッシャーが証明していた。
クリスは、息を呑んだ。
あのまま戦えば、数分と持たずに全滅する。シグマの力も、オメガの防御も、ルカの投剣も、ノアの回復も、この圧倒的な暴力の前では時間稼ぎにしかならない。
(どうする……どうすれば……!)
焦燥がクリスの思考を焼き切ろうとする。
その時、彼の視界の端で、魔力炉へ放り込まれそうになった捕虜の悲痛な叫び声が響いた。
『やめろ、やめてくれぇぇっ!』
バチィッ! と紫色の炎が燃え上がり、一人の命がまた、魔王復活のための燃料として消費されていく。
その光景が、クリスの脳裏に、あの日の惨劇を鮮烈にフラッシュバックさせた。
燃え盛る陽だまりの村。逃げ惑う人々。
そして――絶望に染まった瞳で、漆黒の奈落へと真っ逆さまに落ちていった、最愛の親友の姿。
俺の未熟さが、あいつの居場所を焼き払った。
俺の弱さが、あいつを暗闇の底へ突き落とした。
(……俺は、もう二度と……!!)
ドクン、と。
クリスの心臓が、異常な音を立てて跳ね上がった。
(もう二度と、俺の目の前で、理不尽に命が奪われるのを見過ごしはしないッ!!)
クリスの身体の奥底に封じ込めていた、呪いのような力が目を覚ます。
あの日、禁忌の崖で親友と殺し合った時に発現した、禍々しくも圧倒的な異形の力。
クリスの美しい銀色の髪が、根本から急速に、燃え盛るような真紅へと染め上げられていく。それと同時に、彼を縛り付けていた氷のような冷たい瞳が、底なしの憎悪と決意を孕んだ真紅の輝きを放ち始めた。
ドガァァァァンッ!!
クリスの足元の岩盤が、内側から爆発したように弾け飛ぶ。
彼の全身から、血のようにドロリとした『真紅の闘気』が噴出し、天を衝く火柱のように燃え上がった。空間が熱さで歪み、ガラルドの放つプレッシャーを強引に押し返す。
「……ほう?」
ガラルドが、初めて興味深そうに目を細めた。
「ルカ、投剣で視界を奪え! ノア、回復は俺に回すな、オメガとシグマの体勢を立て直せ!」
真紅の闘気を纏い、修羅と化したクリスの声が響く。
「は、はいっ!」
ルカが即座に反応した。彼女は外套を翻し、両手から十数本もの投剣を扇状に放つ。
「……浄化します。私の隊長を傷つける存在は、すべてここで消え失せろッ!」
ルカの狂信的な殺意が込められた刃が、魔力炉の光を反射してガラルドの死角を突く。
ガラルドが煩わしそうに戦鎚を振るって投剣を弾き落とした、まさにその一瞬の隙。
赤い流星と化したクリスが、すでにガラルドの懐へと入り込んでいた。
「これが……俺の『正義』だァァァッ!!」
真紅の闘気を限界まで圧縮した制式剣が、下段からガラルドの分厚い胸甲を狙って跳ね上がる。
ガラルドは咄嗟に身を捩ったが、クリスの神速の一撃は完全に回避を許さなかった。
ガキィィィンッ!!
火花が散り、強固な黒い装甲が深々と切り裂かれる。
ガラルドの巨体が、初めて後方へと大きく仰け反った。
「隊長が隙を作ったぞ! オラァァァッ!!」
体勢を立て直したシグマが、上段から大剣を叩き込む。
ノアの支援魔術がシグマの腕力を底上げし、オメガが即座にクリスの退路を確保するための壁となる。
かつて【正義の剣】で背中を預け合った絆が、今や冷徹な騎士団の戦術として最高効率で機能していた。
「あはははは! 素晴らしい! そうでなきゃ、殺す甲斐がねぇよ!!」
胸の装甲から黒い血を流しながらも、ガラルドは哄笑した。
彼の瞳に、獣のような純粋な歓喜が宿る。
「最高だ! お前らのその『覚悟』、俺の力で跡形もなくひしゃげてやるよッ!」
ガラルドの筋肉が、異様な音を立てて膨張を始める。
彼が戦鎚を両手で握り直した瞬間、先ほどまでの「30%」とは全く違う、次元の異なる魔力が爆発した。
「さあ、見せてやるよ! 四天王ガラルドの、50%の『狂宴』をなぁッ!!」
ガラルドが戦鎚を床に叩きつけた。
ズドォォォォォォォンッ!!!!!
もはや衝撃波という生易しいものではなかった。
空間そのものが爆発したかのような破壊力が、地下の広間全体を蹂躙する。
頑強な岩盤が紙屑のようにめくれ上がり、巨大な石柱が次々と粉砕されていく。
「ぐはっ……!?」
「キャアァァッ!」
オメガの盾ごと、シグマとルカがまとめて吹き飛ばされる。
ノアの結界がガラスのように砕け散り、彼女もまた壁際まで叩きつけられた。
「お前らッ!!」
クリスは真紅の闘気でなんとか踏みとどまったが、その両腕は戦鎚の余波を防いだだけで悲鳴を上げていた。
「どうしたどうしたぁ! 踊りは終わりか!? まだ半分しか力出してねぇぞ!」
土煙の中から、無傷のガラルドが悠然と歩み出てくる。
50%。たった半分で、これほどの絶望的な差。
これが、魔王軍の頂点に立つ四天王の、本物の暴力。
(ダメだ……パワーが違いすぎる……!)
クリスの制式剣には、すでに無数のひびが入っていた。
だが、彼は逃げない。
背後には仲間がいる。そして何より、あの日、セラを守れなかった後悔が、彼に背を向けることを絶対に許さなかった。
「……まだだ。俺は、ここで立ち止まるわけにはいかないんだッ!」
クリスは真紅の髪を振り乱し、砕けかけの剣を握り直す。
圧倒的な絶望を前に、一人の少年が修羅となって牙を剥く。
鋼鉄の狂宴は、まだ終わらない。




