第60話 四天王
魔族に与する敵対国、帝国。その国境沿いに位置する城塞都市『ガルド』の地下深くは、地上の喧騒から隔絶された、死と絶望の空間だった。
フィリーから渡された古びた羊皮紙の地図は、驚くほど正確だった。厳重に張り巡らされた魔力探知の結界の『死角』を完璧に縫うように記された地下水路は、悪臭と耐え難い湿気が充満している。
頭上の格子越しに、時折帝国兵の重々しい足音や、魔獣の羽音が聞こえる。少しでも気を抜けば即座に蜂の巣にされる絶望的な状況下で、クリスたち蒼天の天秤騎士団・六番隊は、極限の隠密行動を続けていた。
「――ここが、砦の最深部か」
クリスは鉄格子をそっと外し、眼下に広がる異様な光景に息を呑んだ。
岩盤をくり抜いて造られた巨大な地下空間。中央には、脈打つように禍々しい紫色の光を放つ『魔力炉』が鎮座している。その中心で、周囲の光すら吸い込むような深淵な輝きを放つ宝玉――『宵闇の珠』が浮遊していた。
「間違いない。あれが珠だ……帝国は本当に、魔王を復活させる気だ」
ノアが青ざめた顔で、声にならない震える吐息を漏らす。
情報収集という本来の任務は、今ここで達成された。あとはこの事実を王都へ持ち帰るだけだ。だが、彼らの視界に映る光景は、静かに帰ることを許すほど生易しいものではなかった。
「歩け! 立ち止まるな愚民ども!」
ピシャァァァッ! と、肉を裂く鞭の音が地下空間に鋭く響き渡る。
魔力炉の周囲では、数百人を超える他国の捕虜たちが、巨大な歯車を回す過酷な重労働を強いられていた。限界を超えて倒れ伏す者たちを、帝国兵や監督役の魔族は助け起こすどころか、鬱陶しそうに軍靴で蹴り飛ばす。
「もう動けねぇなら、せめて魔王様復活の『燃料』になれ!」
「あ、あああぁぁっ……!」
魔族が動けなくなった老人を掴み、無造作に魔力炉の底へと放り投げた。絶叫と共に、老人の命が紫色の炎に飲み込まれ、炉の出力が不気味な音を立てて跳ね上がる。
命を直接燃料にする、悪魔の業。
「……ッ!!!」
その惨状を目の当たりにした瞬間、クリスの瞳孔が極限まで収縮した。
かつて故郷を焼かれた記憶。そして、自らの手で親友を暗闇へと落としたあの日の絶望が、脳裏を濁流のように押し寄せる。
無意識のうちに、クリスの掌が拳として硬く固まった。かつてセラとお揃いで買った思い出の剣は、今は部屋の奥のケースで静かに眠っている。今は騎士団から支給された制式剣が腰にあるが、それでも、かつての親友を斬り裂いた右手の感覚が、今も焼けるように疼いていた。
クリスの全身から、隠しきれない『真紅の闘気』が、陽炎のように揺らめき上がりそうになる。それは自分をも焼き尽くしかねない、呪いのような怒りだった。
「――ダメだ、リーダー!!」
地獄の業火が爆発しようとした刹那、背後からシグマの丸太のような太い腕が、クリスの肩を万力のように掴み取った。
「離せ、シグマ……! あのままじゃ、あいつらが全滅する!」
「行けば俺たちもタダじゃ済まねぇ! 奴らの配置を見ろ! わざと死角を作って、俺たちみたいな獲物を誘い込んでやがるんだよ!」
シグマの鋭い指摘に、クリスはハッと我に返った。魔力炉の周囲には、上位魔族の気配が複数ある。ここで感情に任せて飛び出せば、多勢に無勢。確実に囲まれ、乱戦の末に全滅する。
「クリス隊長、堪えてください……っ!」
ノアがクリスの前に回り込み、懇願するように彼の胸元を押さえた。
ルカもまた、血が滲むほど唇を噛み締めながら、獲物を狙う蛇のように周囲を見渡している。彼女の狂信的な正義感は今、クリスの背中を守るための盾へと変換されていた。
「隊長……私たちの任務は、宝玉の確認と情報の持ち帰りです。ここで全滅すれば、王国の誰も魔王復活の脅威を知ることができなくなります……っ。どうか、撤退のご命令を……!」
ルカの震える声に、クリスは大きく息を呑んだ。
(そうだ……俺はまた、自分の独りよがりな感情で、この仲間たちを死地へ巻き込もうとしているのか。……セラを失った、あの時と同じように)
クリスは口内を噛み切り、鉄の味を飲み込みながら、溢れ出そうになっていた真紅の闘気を強引に飲み込んだ。額には脂汗が浮かんでいる。
彼は氷のように冷たい瞳を取り戻し、仲間たちを見渡した。
「……すまない。お前たちの言う通りだ」
クリスは大きく息を吐き、再び冷徹な『氷の騎士』の瞳を取り戻した。
「宵闇の珠の存在は確認した。そして、この魔力炉の脅威もだ。……これ以上の滞在は無用。気配を殺せ。このまま水路を引き返し、一刻も早くガルドの街を脱出するぞ」
その決断に、全員が安堵の吐息を漏らす。彼らは最後にもう一度だけ、地獄のような魔力炉を睨みつけると、音もなく身を翻した。
だが。
彼らが踵を返した、まさにその刹那だった。
『ほう? 随分と聞き分けのいいネズミたちだ。せっかく用意した極上の餌にも食いつかないとはな』
背筋が凍るような、圧倒的な冷気と死の重圧。
水路の出口を完全に塞ぐ形で、濃密な闇が渦を巻き、一人の『男』が具現化した。
ただそこに立っているだけで、大気が悲鳴を上げて軋み、幻覚すら見えそうなほどの絶望感が部屋を支配する。
「なっ……!?」
「いつの間に……全く気配がなかったぞ!?」
シグマが驚愕し、即座に大剣を抜く。クリスも剣を構え、全員が一瞬で臨戦態勢に入った。
『王国が誇る蒼天の天秤騎士団……その精鋭が、こんなドブさらいの真似事か。笑わせてくれる』
男は優雅にマントを翻し、暗闇の中で三日月のように目を細めて嗤う。
それは、エイル副団長が計算した通り――いや、予想を超えた最悪の遭遇だった。
魔王軍最高幹部――『四天王』。
絶対に逃れられない死の象徴が、今、氷の騎士たちの前にその圧倒的な姿を現したのだった。




