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第59話 密約

 魔族に与する敵対国、帝国。

 国境沿いに位置する城塞都市『ガルド』は、常に分厚い鉛色の雲に覆われ、絶え間なく黒い灰が降り注いでいる。死の匂いに満ちたこの街の最下層であるスラムでは、過酷な重労働を強いられる他国からの奴隷たちの呻き声と、彼らを家畜のように扱う帝国兵の怒号が響き渡っていた。

 だが、そんな地獄のような外界の空気から完全に隔離された空間が、この街の特権階級だけが立ち入りを許される高級軍事施設の一角に存在していた。

 最高級の赤いベルベットが敷き詰められ、豪奢なシャンデリアが仄かな光を落とす密室。その中央に置かれたアンティークのソファで、一人の男が優雅に赤ワインのグラスを傾けていた。

 長身で線の細い、色白の美しい男。涼しげな瞳の奥に、氷のように冷徹な知性を宿すその人物は、フラリス王国が誇る『蒼天の天秤騎士団』副団長、エイルその人であった。

 本来であれば、遠く離れた王都の白亜の城で執務にあたっているはずの彼が、なぜ敵国の中枢に単身で潜入し、こうして寛いでいるのか。

「――お待たせ! エイルってば、相変わらずこういう趣味の悪い成金部屋が好きよねぇ」

 突如、部屋の隅に落ちていた濃い影がぐにゃりと波打つように歪み、鈴を転がすような軽やかな声と共に一人の少女が這い出てきた。

 光を拒絶し、影から影へと潜り渡る『影潜えいせんの魔法』。人間が編み出した理の力である『魔術』では到底模倣し得ない、魔族だけが扱う特権的な力だ。

 影の泥を払うようにふわりと飛び降りたのは、漆黒のドレスに金髪のツインテールを揺らす上位魔族――フィリーだった。

「遅いですね、フィリー。私は時間にルーズな者は嫌いだと、以前から言っているはずですが」

「ごめんごめん! ちょっとあの『氷の騎士様』たちを、地下水路の入り口まで案内するのに手間取っちゃってさ。あいつら、ものすごい殺気立ってるから、少しでもボロを出したら即座に首を刎ねられそうだったんだから!」

 フィリーは悪びれる様子もなく、エイルの向かいのソファにドカッと腰を下ろし、テーブルにあった果実を放り投げて口でキャッチした。

 エイルは咎めることもなく、グラスのワインを静かに一口含む。

「で、クリス隊長たちは無事に『魔力炉』の直通ルートへ?」

「ええ、完璧にね。今頃、暗闇の中でネズミみたいに砦の最深部へ向かって這い進んでる頃よ。……でもさ」

 フィリーは赤い瞳を三日月のように細め、不思議そうに小首を傾げた。

「あいつらの今回の任務って、あくまで『宝玉の真偽を確かめて撤退する』ことなんでしょ? いくら私が四天王の元へ直接繋がる案内図を渡したって、戦闘を避けて逃げられちゃったら意味ないじゃない。エイルの目的は、あいつらをここで確実に『排除』することなんでしょ?」

 彼女の疑問に、エイルは眼鏡の位置を中指でスッと押し上げ、冷ややかに微笑んだ。

「ええ、表向きの任務は情報収集と帰還です。ですが、彼らは絶対に退きませんよ」

「どうして?」

「現在、この砦の最深部では、魔王軍の『四天王』が帝国軍と共同で、魔王様の復活に必要な『宵闇の珠』の力を抽出する魔力炉を稼働させています。そしてその動力源として、無数の奴隷たちが使い潰されている。……彼らは『正義の剣』ですからね。その凄惨な光景を目の当たりにして、見過ごせるはずがない」

 すべては、騎士団の上層部であるエイルたちが引いた盤上のシナリオだった。

 陽だまりの村に偽情報を流してルカの狂信を煽り、クリスに村を焼かせたのも、彼を修羅の道へと完全に堕とすための策。

「今のクリスは、自らの手で親友を突き落としたという自責の念から、破滅願望にも似た特攻精神を抱いている。強大な四天王を前にしても、己の正義を貫くために無様に足掻き、そして確実に死ぬでしょう。我々はただ、玉座で吉報を待っていればいいのです」

「なるほどねぇ。人間って、絶望すると本当に扱いやすい都合のいい生き物ね。……あははっ! さっすが。冷酷で、計算高くて、性格が悪い。私、あなたのそういうところ、本当に大好きよ」

 フィリーはケラケラと楽しげな笑い声を上げた。

 その様子を冷ややかに見つめながら、エイルは手にしていたグラスを静かにテーブルに置いた。

「……ところで、フィリー。例の物は、確実に回収してきたのでしょうね?」

「えっ?」

 不意に急かされたフィリーは、ほんの一瞬だけ、つまらなそうに眉をひそめた。その赤い瞳の奥に微かな躊躇いがよぎったが、すぐに完璧な笑顔でそれを覆い隠す。

「あー、はいはい。もちろんよ、忘れるわけないじゃない。はい、これ」

 彼女は何か別の思惑を抱えているようにも見えたが、それを悟らせまいとするように無造作に懐から一つの小さな玉を取り出し、テーブルの上に転がした。

 コトン、と澄んだ音を立てて転がったそれは、淡いエメラルドグリーンの光を放つ美しい宝玉だった。

「あの日、燃える村の地下祭壇から回収しておいた『陽だまりの珠』よ。これで、手元には二つの宝玉が揃うことになるわね」

 エイルは恭しい手つきでその宝玉を拾い上げ、ランプの光に透かして見つめた。

「ご苦労様でした。……これで計画は、また一歩前進しましたね」

 エイルは視線を宝玉から外し、ふと、思い出したように冷たい声で問いかけた。

「……念のため聞いておきますが。例の黒髪の少年……セラの確実な死は、確認できたのでしょうね?」

 その名前が出た瞬間、フィリーはまたもや頬を膨らませ、これ見よがしに唇を尖らせた。彼女はソファから身を乗り出し、エイルの顔を覗き込むようにして甘ったるい声を出す。

「もー、本当にあなたはあの少年のことばっかり気にするのね。……そんなに別の男の子の話ばかりされると、私、ヤキモチ焼いちゃいそうなんだけど?」

「フッ……勘違いしないでいただきたい。我々の悲願に、イレギュラーは不要なのです」

 エイルはフィリーのからかいを冷たく一蹴した。

「クリスの赤い闘気すら凌駕しかけたという彼の力。もし生きているとすれば、必ず我々の前に立ち塞がる。だからこそ、確実に排除しておかなければならないのですよ」

「安心なさいな。あんな底なしの崖から落ちたんだもの、人間が生きていられるわけないじゃない。クリス君のあの死んだような目を見れば、一目瞭然でしょ? 自分が殺したって確信してるんだから」

「……そうですね。ならば良いのです」

 エイルは宝玉を専用のケースに厳重にしまい込みながら、冷笑を浮かべた。

「正義とは、愚か者を縛るのに最も都合の良い鎖ですからね。クリスは自分が親友を殺したという罪に縛られ、自ら死地へと赴いた。……彼にはこのまま帝国の闇の中で、魔王軍の幹部への生贄として朽ち果ててもらうのが、最善の結末です」

「じゃ、私は約束通り、特等席であいつらの潰し合いを見物させてもらうわ。クリス君の『正義の剣』が、四天王の前にどれだけ無様に散っていくか、見物だものね」

「くれぐれも、余計な手出しはしないように。あなたは監視に徹しなさい」

「わかってるってば。それじゃあね、エイル!」

 フィリーが楽しげにウインクをすると、彼女の足元の影が這い上がり、その姿は夜の闇に溶けるようにして完全に掻き消えた。彼女が去った後には、微かな魔力の残滓だけが漂っている。

 誰もいなくなった豪奢な密室で、エイルは懐中時計を取り出し、時刻を確認した。

「……さて。私もそろそろ、王都へ戻らなければ。『エイル副団長』としての職務が待っていますからね」

 彼が懐から取り出したのは、極めて高度な『認識阻害の魔術』が施された銀のロケットだった。

 他者の目から自身の存在や気配を極限まで薄れさせるその強力な魔術具を作動させ、エイルは静かに部屋の奥にある隠し扉へと向かう。このまま軍事施設の地下通路を抜け、あらかじめ用意してある早馬を使えば、数日後には誰にも怪しまれることなく王都の執務室へと帰還できるはずだ。

 灰の降る城塞都市の地下から、暗躍する王国の要人は音もなく姿を消した。

 深い闇の中で進行する、魔王復活のシナリオ。

 すべてが仕組まれた盤上であることも知らず、氷の騎士とその仲間たちは今、帝国最深部で待ち受ける強大な四天王との、絶望的な死闘へと足を踏み入れようとしていた。



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